貴方だけよ。貴方だけよ……。
 キムの声が耳朶を打つ。心地よかった。

 クリスは国に居場所がないことを知った時からずっと、居場所を求めていた。誰かに、クリス個人を必要として欲しかった。
 4年前ベトナムに赴任した時は、正義の心でもって、泥沼化した戦争に苦しむ国を救いたかった。今でもアメリカ人としてできることがあるならばしてやりたかったが、群がる全てのベトナム人に望みを叶えることは不可能だった。そもそも彼らが助力を求めているのはクリスであってクリスではない。
  だけどもし、縋りついてくるのが一人だけだったならば、貴方の手以外はいらないと手を伸ばされたならば、きっと助けただろう。
 キムは、クリスの前にはじめから人として現れた。そしてクリスをクリスとして見ていた。
 点ではなく人であると、クリスは意識せずとも判別した。だから不幸にしたくないと思った。それなのに、娼婦の烙印を刻んでしまった。

「君のことを、知りたいんだ。教えてくれる?」
 いや、不幸にしない道はある。アメリカへと逃がすことだ。自分の手で守ることだ。
 アメリカ兵に関わってしまった女たちは、毒を食らわば皿までとばかりに、アメリカ行きを切に求めている。彼女たちに掴まって、ベトナム人の妻を娶ったGIも知っている。愚かなことだと思っていた。娼婦たちはGIをパスポートとしか思っていないのに。
 娼婦たちだけではない。サイゴン市民は皆同じだ。クリスがその場にいなければ、他のGIにそれを求める。GIが撤退すればベトコンに縋ることを覚えるだろう。
  本国にベトナム帰還兵の、クリスの、居場所はなかった。だけどサイゴンも、クリス個人を存在させてくれない。だけど、キムは違う。この子は自分を必要としてくれている、クリスはそう信じたかった。

「……今、身の上話を聞きたいの?」
 握るキムの手に力が篭められて、掛け布が波打った。
 聞きたいこととは違ったけれど、クリスは頷いた。
 キムを知らなくてはならなかった。彼女を知って、そして決めようと思った。助けるのか、見捨てるのかを。
「うん、家族はどうした……?」
「皆、死んだわ。わたしの村が焼かれたの。顔のない親の死体も見たわ」
「……頼れる親戚とかは、いないのか?」
 淡々と話をしていたキムの肩が震えた。
「従兄が、いたわ。わたしが知らないうちに婚約者っていうことになってた。焼け野原になった村でその人を十日待った。その間にも、怖い目にあった。……でも、彼は助けに来てくれなかった」
「婚約者……」
 一旦は緩やかになった罪の波が、再び大きくなる。
「嫌い。もう、あの人のことは考えたくない」
「その男のことは、もともと嫌いだったのか?」
「……だって、助けて、くれなかったもの。それに、その人、ベトコンなのよ」
 答えになっていないということに、キムは気がついているのだろうか。
 この状況下では、その男が彼女を見捨てたとは限らない。生きているかはわからないが、戦争が終わってもしも婚約者と再会を果たせたとして、彼女はその男の妻となれるのだろうか。まず無理だろう。破棄したところで、誰も彼を責めはしまい。ベトコンならなおさらだ。GI相手の娼婦を娶るだけの深い愛と覚悟が、その男にあれば別だが。

「わたしの生まれた村はここより北にあるの。メコン川沿いではないけどミトーのほうよ。森と小さな丘ばかりの田舎だったから、前は平和だった。でもベトコンの多い地域だったから、戦火に巻き込まれたわ。ただの焼き野原になるまで、半日もかからなかった」
 ひと月ほど前に見た小さな村の爆撃が、脳裏に蘇る。
「……それじゃあ、村に戻るのは難しいな」
「戻っても何もないもの。戻りたくない」
 キムは首を振り、まっすぐにクリスを見た。縋るような目。ここではない何処かに行きたい。アメリカに連れて行って欲しい。彼女の顔にははっきりとそう描いてあった。
 彼女の村を焼いたのはアメリカ人かもしれぬなど、考えもしないのだろう。もし知っていたら、今夜のことはなかったろうに。
「一人で、苦しかったろう」
「もう苦しみはいや、繰り返すなら死んだほうがいい……っ」
 声は大きくなかったが、激しい叫びだった。耳を塞ぎたい衝動を押さえた。キムに寄って、そっと抱きしめた。
  キムの言葉が止まった。しばらくそのままでいた。キムが顔を上げた。

「あの、ごめんなさい。つい感情的になってしまって。気を悪くしたでしょ?」
「……そんなことないよ。辛いことを聞いてこっちこそ悪かった。今夜も、会えるかい?」
「クラブにいます。愛を売りに」
 震える手に、儚げな微笑。手を差し伸べずにはいられなかった。
「ダメだ、良ければ」
「何なの?」
「一緒に暮らそう、二人なら楽しいよ。いいだろう?」
 これならば、キムは娼婦ではない。彼女が望んだとおり、今夜は愛し愛された相手と寝ただけだ。
「! いいわよ」
 キムの顔が輝いた。蓮の花のような清らかな笑顔だった。愛しいと思った。愛しいと思うしかなかった。

 あどけなき少女の未来を無残に摘み取った事実を、弱りきったクリスの心は受け入れられなかった。 キムを助ければ、普通の娘を娼婦に落したことも、多くの村を焼いてきたことも、助けを求める沢山の手を振り切ってきたことも、許されるような気がした。
 錯覚であることは、承知していた。それでも、クリスはもう一度だけ夢を見たかった。
 サイゴンはクリスを必要としていると。米兵はベトナム人を虐げただけではなかったのだと。


 すみません、自分でも何がいいたいのかわからんくなってきました(おいおい)。
 裏タイトルは夢から醒めた夢です(笑)。夢から醒めた後にもう1回見る夢ってことで。
 クリス×キムは気持ちの安定を図るというか折り合いをつけるために愛し合ったのかなー、と思ってます。あとはタイミングもあったかと。誰も信じられなくて、それでも誰かを信じたかった時に目の前にいたのがお互いだった。
 って、こういうのはあとがきで補完したらいけませんねー。
 最初に書きたかったのはこの後のVSトゥイのはずでしたが、 無理せずこのあたりでやめときますわ。

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