言葉の罪と償いの愛と


「親と子は引き離せないわ、キム!」
 キムというベトナム女性と間向かったのは、この日が初めてだった。
 だけどわたしは彼女を知っていた。
「キム!」
 二人の寝台。うなされ、知らぬ名を呼び、起きる夫。
 だれか想う人がいる。気がついていなかったわけではない。彼には秘密がある。わかっていた。
 自分から望んだ結婚。後悔なんかしていない。ただ、願うだけ。秘密を、教えてと。わたしだけを愛してと。
 わたしはずっと、クリスに愛されている自信が持てずにいた。

*

 ベトナム戦争は、アメリカ人の多くが賛同して始めた戦いだった。違う。賛成の意見しか表に出ることがない戦いだった。肉親をとられ、金を消費され、一般のベトナム人も多数殺されているという事実が知れ渡るにつけ、反対の声が大きく響くようになった。
 わたしも集会に顔を出したりといった具体的な行動こそしなかったものの、ベトナム戦争はすべき戦いでないと思っていた。
 クリスと出逢ったのは1972年パリ協定によって彼が一時帰国した時だった。友人の、友人。ベトナム帰還兵ということで偏見が全くなかったわけではないけれど、話してみると普通の、ちょっと素敵な若者だった。遊ぶことが好きで、冗談が好き。大勢でいると笑ってばかりの、太陽のような人だったけど、ふとした拍子に影がよぎることがあった。すぐに首を振って、闇を振り払って、陽光を引き寄せるけど。わたしはずっとそんな彼を見ていた。

 出逢いから三年、ベトナムからの最後の飛行機で、彼は本当にアメリカに戻ってきた。
 クリスの闇と陽は、すっかり逆になっていた。 冗談どころか、声すら、ろくに聴けなかった。平穏な日常に癒されて、時折は笑いかけてくれるようになった。やつれた笑いだったけれど、初めて笑ってくれた時は嬉しかったし、もっと笑っていられるように彼の支えになりたいと思った。
「エレン、オレといても楽しくないだろ?」
「そんなことないわ」
「そうか」
「信じてないわね。不思議なことに、本当なのよ」
「ありがとう……」
 こんなやりとりを、何度かした。
 わたしは時間が許す限り、彼と一緒にいた。買い物や映画、海に山。引っ張りまわしてやった。
 やがて彼は正式に軍を辞め、家業を手伝うことに決めた。
 そしてジョンとわたしを自宅に呼び、深々と頭を下げた。
「オレは国で生きると決めた。……力を貸して欲しい」
 彼の肩に手を触れ、わたしは言った。
「勿論よ」
 ジョンも無言で頷いた。
 そしてジョンは、その数日後、ジョージア州の議員選挙への出馬を表明した。わたしはクリスに求婚をした。
「妻として、貴方を支えたいの」
 以前からそうしていたように、公園のベンチに腰掛けた。クリスに向かって、わたしは言った。幼い頃からいつも視界の中にあったブルーリッジ山脈が背景にある。
「……エレン」
「……そういうのは、駄目かしら」
「今のオレが、君を幸せに出来るとは思えない」
「わたしが、貴方を幸せにしたいのよ」
 彼が心から笑える日がくること。それがわたしにとって一番の幸せだと、疑っていなかった。
 恋に夢中になるというのは、こういうことなのかもしれないとぼんやりと思う。
「返事は、今でなくてもいいわ。わたしは貴方が好き。だから結婚したい。それだけは覚えておいて」
 余裕なんてなかったけど、片目を瞑って、楽しげに言ってみせた。
「……覚えておくよ」
「覚えておくだけ?」
「今、それだけはって言ったじゃないか」
「そうだけど、せめて前向きに検討しますくらいは言えないの?」
「ははは。そうだなぁ……」
 わたしに釣られて、彼も笑ってくれた。わたしたちは上手くいくと思った。


 クリスとわたしが結婚した頃には、ジョンはアメリカ人とベトナム人の間に生まれた子供たちを、アメリカ人として引き取る運動をしていた。
 かの国でしてしまったことの、せめてもの罪滅ぼし。アメリカ人として罪の日々の中で燻らせていた良心のもとで、動いているのだと思っていた。それ以上の意味があるなど、考えたこともなかった。
 アトランタで行われたブイ・ドイ運動の集会で、 クリスのことから、キムのことを説明された。
 ベトナムで2週間だけ一緒に暮らした女性。アメリカ人と深く関わらせて、置き去りにしてしまったことが、今も胸を苛んでいる。彼女は子供と二人で、バンコクにいる。その子供の父親が自分以外であるはずがない……。
 夫と、いわば現地妻の物語の輪郭は、よくある話まで言わないけれど、現実離れした話ではなかった。収容所にブイ・ドイが溢れている現状を知っている以上、何も言えない。
 引き取るべきだと理性が告げ、そんなのは無理だと感情が叫ぶ。
 夫も、答えを見つけられずにいた。わたしがもし、子供を引き取ろうといったら、彼はそうしただろう。彼も、ジョンも、それを待っていたのだと思う。
 だけどわたしは、そうしなかった。できなかった。子供という太いパイプを持ったキムと自分、どちらがより多く彼の心にいるのか、確証も持てなかった。
 わたしがバンコクに行ったのは、引き取るのか、見捨てるのか、その結論を先送りしていたから。言葉を変えれば、クリスがわたしだけを愛しているという自信がなかったから。……行かなければ、悲劇は起きなかった。

「クリスの妻、名はエレン。……さ、お座りなさい」
 キムがホテルの部屋に入ってきた時、わたしは動揺した。だから、上から見下すように、笑ってみせた。絶対に、負けられなかった。
 キムは、小さくて可憐な娘だった。一途さを称えた大きな瞳が愛らしく、まだ子供のようだった。母親には見えなかった。
「タムを引き取って! タムの運命を決めて!!」
 そう母の顔で叫ぶまで、子の存在は間違いではないのかとすら思った。

「無理だわ。わたしだって、クリスとの子供が欲しいのよ」
 わたしは、彼の子を生んだキムに嫉妬していた。
「親と子は引き離せないわ、キム」
 彼女の望みを叶えるのは怖かった。子供を見ればクリスはキムを頻繁に思い出すだろう。共に暮らすことはなくとも、自分の子の母親であるキムとは生涯の付き合いとなる。
 それでも平気、自分たちの関係は揺らがない、そう言えるならどんなにいいことだろう。
 キムやタムを憎みたくはない。クリスを不実だと詰るつもりもない。
「ああ、わかって、無理なのよ!!」
 心のまま吐き出してしまった時、自分がいかに弱いか、嫌というほどわかった。
 そして彼女の魂の叫びと手に圧されて、ソファに倒れこんでしまった。現実を歩くために、これ以上、立っているのは無理だった。
「本当の妻がいて、タムに未来がないというのなら、今夜あの人が会いにくるべきよ! クリスが自分で言うべきよ!!」
 これがわたしにとって、キムの最期の言葉。
 その数時間後に、キムは自らのこめかみを銃で撃ち、クリスの腕の中で現の命を消した。

「エレンママ! 見て、ミッキーマウスだよ」
 すれ違った子供の、ミッキーマウスの風船。頬を蒸気させて、タムは見つめる。きらきら。陽の光を受けて輝く瞳が愛おしい。同時に、純粋さがこぼれおちんばかりの大きな瞳を、怖いと思う。
 月日が流れ、1981年9月現在。
 タムは、わたしの子供として、アメリカ人として、隣にいる。
 その死に方や理由は知らないはずだが、タムはキムのことを記憶している。
 今では頻繁にではない。だけど時折、
「キムママにはどうしても会えないの?」
 と尋ねてくる。そんな姿が痛々しい。

 クリスはブイ・ドイ運動に前よりもずっと熱心に参加している。
 タムを見て、キムを偲んでいる。タムのために、父親、そして人間らしさを保とうとしている。だからこそ、キムの死の傷から、存外早く立ち直ることができたのだ。

 わたしは今でも考える。 タムを引き取って欲しいと哀願する彼女に、頷いていたらどうなっていたのか。きっとキムは死ななかった。
『親と子は引き離せないわ、キム』
 キムに、自分が死ねばタムは引き取ってもらえると判断させたのは、きっとこの言葉。
 言わなければ、どうなっていた?
 彼女の死など、望んでいなかった。凶器の引き金も引いていない。だけど、わたしは人殺し。この罪は消えない。

 もっと早く、真実をクリスが教えてくれていれば、クリスとキムが出逢わなければ。IFのストーリーばかりを考えてしまう。
 戦争さえなければ、はじめから、何も起こらなかった。
 戦争を二度と起こしてはいけない。私の罪の意識は、反戦運動へと向く。軍縮小を唱える党を指示し、デモに参加する。わたしの戦争への嫌悪は退役軍人の妻としての枠を大きく超えていると指摘されたことがある。
 祖国は、戦を好んでいる。中東の国の宗教上の戦に、何故関わるのか、何故その権利があると思うのか、わたしは理解できない。武器を持たぬ国に武器を与え、独裁政治を増徴させる。一方で、戦相手に武器売り、利益を吸う。
  ユートピアで暮らさせることを夢見て、息子をアメリカ人にしたいと願ったキム。彼女は必ずしも正しくはなかった。アメリカは利益のために第三国に侵略する。株貨の大暴落、頻繁に行われる大規模なデモ、決して夢のような国ではない。今はまだ貧しいけれど新しい経済改革が進み、海外からの進出も増えているというベトナムで生きるほうが、タムのためだったと思う。少なくとも、ブイ・ドイでなければそのほうが幸せだった。
 キムがベトナム人と結ばれて成した子だったならば……。そしてまた、戦争がなければクリスとキムが触れ合うことなど決してなかったのにという思考に戻っていく。罪の意識と国への憎しみは絡み縺れる。わたしの首を締め付けて、息が止まる寸前で緩める。心の源が痛む。

「エレンママ? 大丈夫? 汗びっしょりだよ」
 タムが、ハンカチで額の汗を拭ってくれた。
「え? うん、大丈夫よ。いつものだから……」
「だ、大丈夫じゃないよ、それ。あ、あそこにお水あるよ」
「……ありがとう。ちょっと、待っててね」
 タムがわたしの顔を心配そうに一瞥して、反転した。わたしは水飲み場に行き、震える手でポシェットからお守りの粒を取り出す。飲み下して、呼吸をする。タムはブランコに乗って青の空を見っている。今のわたしの姿は見ない。わたしが向不安薬に頼る姿を見られたくないことを知っているから。

 タムを愛したいと思う。愛さなければいけないと思う。……いいえ、すでに愛している。
 クリスと結婚してから7年になる。クリスとわたしの間に子供はない。決めごとをしたわけではないけれど、生涯、子供はタム一人なのだと確信にも近い予感がある。

「もう、いいの?」
 わたしはタムに近づく。タムはゆっくりとわたしを見る。公園の緑に反射した赤い陽光は、少年の蒼瞳を黒にする。タムの眉と目じりの形は母親に似ている。だから時々、本当に時々だけど、タムから見られることが辛い。
「……ごめんね、帰りましょう」
「うん」
「今日のご飯、何がいい?」
「何でもいいよ。ママの作るものなら、何でも好き」
 何もねだらない子。わたしを責めず、無邪気に懐く子。こんな子を愛さずにいられようか。
「ねえ、タムは欲しいものとかやりたいことは、ないの?」
「?」
「何か買って欲しいとか、連れてって欲しいとか。ディズニーランドとか行ってみたくない?」
「別に。ミッキーは絵で見てるだけでいいし」
「何か、あるでしょ? もっとわがまま言っていいのよ」
「……ないよ、ただ、ママが……」
「ん?」
 タムは長い沈黙に入った。わたしは、ただ首を傾げてタムが言葉を繋げるのを促した。
「ママが隠してることを、教えて欲しい、かな」
 アジアの黒瞳が、わたしを射抜いた。

 秘密は何なの……? かつて、わたしは心の中で問い続けた。
 だけど、クリスに面と向かって訊ねたことはなかった。問うていたら、どうなっていたのだろう。そして、今答えたらどうなるのだろう。

 わたしはあなたの本当の母を、言葉で殺した。言えやしない。
 あなたの母は、あなたをわたしに引き取らせるために死んだ。そんなことを言ったら、この子まで薬が必要な心になってしまうかもしれない。
 秘密があることは見えるのに、その中身は見えない。愛している人から真実を教えてもらえない。
  タムに自分と同じ思いを味わせていたなんて、想像もしなかった。あの苦しみからタムを解放してあげたかった。 だけど、絶対に答えるわけにはいかない。母の死の理由が、子供の柔らかな心にどのような影響を及ぼすかわからないから。 少なくとも、この子が強い大人になるまで真実は隠しておかなければならない。
  ……全てを話して、この子に憎まれるのが怖いというのもあるけれど。

「ママ……?」
「タム」
 わたしはしゃがんでタムを抱き寄せた。強く、強く、抱きしめた。
「……愛してるわ、タム。愛してる、愛してる」
「うん、知ってるよ。僕もママを愛してるよ」
 タムはわたしの頭を撫でて、額にキスをした。
「愛してる。タムが大事なの。だから、今は言えないのよ。貴方が大人になったら話すから」
 せめて、愛しているのは本当だと、信じて欲しい。愛されている自信があれば、乗り越えられるはずだから。乗り越えられたはずだから。タムを抱く腕に力を込める。
「わかった。ママが嫌なら、もう僕からは聞かないよ」
「ごめんね。ごめんね……」
 本当はキムに謝りたかった。永遠に無理だけど。
「何で謝るの? ママが嫌なこと聞いた僕が悪いのに」
「いいえ、あなたは何も悪くないわ。ごめんね」
「ママ……?」
「ごめんね……」

 愛してるわ。大切にするわ。だからわたしを許して。
 ごめんね、ごめんね、タム。……ごめんね、キム。
 あの時に戻れるなら、わたし、きっと言う。

『タムを引き取らせて。自分の子供だと思って、大切に育てるから』


あとがき
エレンは私には理解が難しい人だと思ってました。よく出来た人だと思ってたので。
が、 彼女の心情を想像しつつ書いてみると、そんなに出来た人でもないかもしれん。かなり普通の人かなーと思うようになりました。ちなみにどのエレンを想像しつつ書いたかというと、明るめな舞台外パートはANZAさんで、その後とVSキムは高橋さんが近い気がする。観てないけど鈴木ほのかさんがそれらしいかもしれん。
キムの自殺で一番心に傷を負ったのはエレンだと私は思っとります。
償いとして、タムのことは大切にすると思う。 タムには幸せになって欲しいです。

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