敵なる護り手の口約

 

「キム。トゥイとの婚約が決まったからね」
「え?」
 それは、十三歳の誕生日。
 母の焼いたパインセオに、肉が入っていた。それだけが特別な、キムの生まれた日だった。
「トゥイって、ホワンティ叔父さんのとこの?」
「そうよ」
「あのお兄ちゃんとわたしが、結婚するの?」
「そうよ。いずれね」
 両親の言葉に、驚いた。驚くべきことでないのは頭ではわかっていた。近所の子も年頃になれば、親が決めた相手と結婚していく。好きな相手と結婚するのは、映画の中だけのこと。トゥイというのは、八つほど年上の従兄だった。三年も会っていない。だが問題はそのようなことではない。
「でも……だって、トゥイお兄ちゃんはベトコンになったって言っていたじゃない」
 親族が南ベトナム民族解放戦線の一員であることで、キムの家は米軍や周囲の家の警戒を受けた。牢から逃げ出した反政府者が村に入り、そして消えた時、真っ先にキムの家は疑われた。軍から呼び出された父は、十日も戻ってこなかった。それからさらに十日、父の声を一度も聴かなかった。
 トゥイは元凶。両親は、甥が北の味方をしていることを嘆き、ことあるごとに罵っていた。外に聞こえるような大きな声で、もう関係はない人間だと言っていた。
 そのはずなのに、何故自分が結婚しなくてはならないのだろう。
「……しっ」
 母は指を立てた。
「いい。これは秘密なの。友だちにも話をしたら駄目。でも、今にわかるはずよ。それが貴女の幸せなのだと」
 わからなかった。南ベトナム政権とそれを支援するアメリカは正しいはずだ。南へと侵略する北ベトナムは敵のはずだ。政府に宣戦布告した南ベトナム民族解放戦線、通称ベトコンも同じく敵だ。幼い頃から、そう言い聞かされてきた。家でも、学校でもだ。
 だからベトコンの妻になることなど、考えたこともなかった。それでも親の約束は、子供にとって絶対だった。だから頷いた。不本意だったけれど、仕方なく。
 母は料理が得意ではなかったけれど、その日のパインセオは綺麗な白で、薄かった。外側はほどよく硬く、中は柔らかかった。豚肉も、滅多に手に入らない。 だけどそれは、キムがそれまで食べた中で、最も美味しくない食べ物だった。軽く付けたヌックマムの味だけが口を駆け巡っていた。

*

「キム!」
「え?」
 1971年、旧正月。恒例の行事である、親族が集うささやかな宴。
 大人たちの酒の匂いから逃れるため裏庭に出たキムを、追うものがあった。すげ笠を顔を隠すように翳していたため、すぐにはわからなかった。
「オレだ」
  従兄にして許婚、トゥイだった。
「……お兄ちゃん」
 旧正月テトは古くからの慣わしにより、ありとあらゆる戦が止む。その暗黙の慣例は、三年前に一度、ベトコンによって破られている。だから安心はできない。それでも、常より平穏な時間であるに違いはない。
 キムは、テトが好きだった。一張羅のアオザイを着ることができる。飾った花々が皆の気持ちを優しくする。美味しいものも食べられる。
  今年はキムにとって例年通りのものではなかった。そこには密やかに家に戻った従兄、許婚となったトゥイの姿があった。彼が南にありながら北に属するものとなって家を出てから、四年が経過していた。自宅には戻ることもあったそうだが、親族の集まりに顔を出すのは四年ぶりであった。
 婚約したからと言って、特に話をすることはなかった。誰もその話を持ち出さなかった。
 キムは、トゥイが親戚たちと笑いながら酒を酌み交わすのを、不思議がった。

「どうした、気分が悪いのか」
「少し。でも大丈夫よ。風に当たりたくて」
「そうか。じゃあ、オレもだ」
 従兄は花壇の縁に座った。そしてキムに隣に座るように指で示した。
 ヘリの飛ばない、乾期の空ほど綺麗なものはない。トゥイは上を見ていた。キムを隣に腰を下ろして、それに倣った。
「……話は、聞いたんだろ」
 ややあって、トゥイが口を開いた。
「ん……」
「どうした、浮かない返事だな」
「……ねぇ、お兄ちゃんは、いきなり結婚しろって言われて平気だったの?」
「それが普通だろう」
 にべもない。儒教の教えを遵守するベトナムではそれが普通だった。
 キムがトゥイという人はどう思っていたのかというと、かつては嫌いではなかった。戦に身を投じるまでは慕っていた。彼に会えるという理由で親戚の集まりを楽しみにしていたくらいだった。
 だけどベトコンは大嫌いだった。北ベトナムに売り渡そうとする人。自分たちの生活を護り戦うアメリカ兵の敵だと、周囲から植えつけられていた。そう考えるように、不用意な発言はしないようにと……。
「でもね、この間見た映画では、結婚する時には男の人は女の人に花束や綺麗なドレスを贈って、愛しているんだよって言って……えーと」
 気恥ずかしくなって、顔を伏せてしまう。トゥイにもそうして欲しいと言っているようなものだと気が付いたのだ。
「……」
 トゥイは何も言わなかった。顔をそっと上げると、彼の端正な眉は上がり、瞼は痙攣していた。
「お兄ちゃん……?」
「その男女は、金や茶の髪で、目が青くて」
「そう……背が高くて、肌も白くて、綺麗なのよ」
「それはアメリカの映画じゃないのか、そんなものは二度と観るな!」
「……っ」
 キムの肩を掴み、揺らした。目は大きく開き、血走っていた。
「絶対に観るな、もう口にするな。わかったな!」
「……」
 嫌。観たい。とても綺麗な世界だから。でも、言えなかった。

「近くの街の映画館は、先月の襲撃以来上映するのやめちゃったから……」
 それだけ言って俯く。視界の隅に、トゥイのつり上がった口の端が見えた。
 キムの動悸が激しくなった。怖かった。
「いいか、キム。生きるために米兵に従うふりをするのは仕方がない。だが、心まで明け渡すな。自由こそが大事なんだ。アメリカが寄越すものは全て、自身を絡めとる鎖だと思え」
「……でも」
「今に変わる。オレたちはベトナム人なんだ。その誇りを忘れるな」
「……」
「返事は」
「はい……」
「よし、いい子だ。それでいい」
  トゥイはキムの頭に手を載せた。顔を上げると、従兄の顔に戻っていた。優しく笑っていた。
「そんなに怯えるな。お前は何があってもオレが護ってやるから」
「うん……」
 護ってやるという言葉と頭に乗せられた手の暖かさに、キムの頬は熱を帯びた。
 しかしアメリカを口にした時のトゥイの狂気は脳裏に燻ったまま。足と心は震えたままだ。
「ねえっ!」
「何だ」
「お兄ちゃんは、わたしのこと……」

 花束や贈り物はなくてもいい。ただ愛しているという言葉が欲しくて、トゥイの黒瞳を見ていた。もしかしたら、言ってくれるのではないかと思って、一生懸命に口を開いた。色は青でなくても、構わなかった。
 キム自身は、ベトコンというものがどれだけの悪なのか、どうして悪なのか、よくわかっていなかった。ただ皆が悪いと言うから悪いのだと決め付けていただけ。だけど、例えその悪いものでも、トゥイはいい人なのかもしれないと思った。両親の決めた夫となる人。血を分けた従兄。いい人なのだと、信じたかった。
 胸は、まだ激しく動いていた。混乱していた。自分の中を駆け巡るものが恐怖なのか、恋心なのか、見定めたかった。映画の主人公のように瞳と瞳を近づけて、好きだから結婚しようと言ってくれれば、恋と決めることもできそうな気がした。
「その、どう思っ」
「キム」
 トゥイはキムの言葉を遮った。正面に回って、そそり立つ。上から見下す威圧的な瞳。息が詰まる。
「お兄ちゃんというのはやめろ」
「え?」
「妻になるんだ、名で呼べ」
「わたしの好きの呼び方じゃあ、駄目なの?」
「オレの名はトゥイだ。お前の兄ではない」
 感情を殺した、抑揚のない声。仕方がなくキムは言った。
「……トゥイ」
「よし」
 トゥイは腕を組み、満足げに頷いた。
 軍人という単語の似合う動作だった。キムはわかった。自分は彼が怖いのだと。
 自覚すると頬の熱は消えた。
 移ったように、従兄の頬に赤みが差したことに、キムは気が付かなかった。
 彼も愛してはいないから、好きだとは言わない。ただ親が決めたから娶るだけなのだ。だから何でも頭ごなしに命じるだけで、婚約者そのものには何の関心がないのだ。幼き娘はそう考えた。
 だったら自分も、彼に恋などしない。する必要はない。目の前にいるのはベトコンなのだ。

「キム。そろそろ、中に戻るぞ」
 隣家の庭に気配が出でたのを合図に、トゥイが言った。
「うん」
「そうだ。折角のテトなんだし頭にも飾り気が欲しいだろう」
 懐から軍用ナイフを取り出す。庭に咲いている向日葵の花を切り、キムの頭に飾った。
「うん、悪くない」
「そう?」
「ああ。もう少し大人になったら、本物のかんざしを買ってやるよ」
 瞳を少年のように輝かせて笑うトゥイ。愛しげにキムを見つめるトゥイ。
 だがキムがそれを見ることはなかった。彼女の目は人を殺せる刃物に釘付けだった。

*

「おめでとう、トゥイ、キム」
「二人で、しっかりやっていくのよ」
 婚約は内々の約束のはずだった。だが、二人が席を外しているうちに双方の親が話をしたらしく、小声でだったけど、たくさんのおめでとうを浴びることになった。
 苦手な酒の匂いより、その空間を苦しいものにする祝いの言葉だった。キムは耳をふさぎたい衝動を必死に抑えた。笑ってみせるつもりだったけど、口元が動くに止まっていた。

「キムを頼んだぞ。私たちにも、いつ何があるか、わからないからな……」
「この子を、お願いね」
 優しき両親が頭を下げる。トゥイは誠実に頷く。そんな光景、見ていたくなかった。
 結婚は好きな人としたかったし、 好きになってくれる人としたかった。映画の中のように。
「まかせてください」
 トゥイはキムの細い肩を抱き寄せた。子供の今は抗えない、強い力。従うふりをしよう。でも大人になったなら。
「彼女とも約束したんだ。何があっても、絶対に、オレが護るって」
「まあ。ちゃんとお礼は言ったの、キム?」
「……言ってない」
 両親の責めるような目に圧されて、キムは言った。
「ありがとうね、トゥイ」

 自分の運命は、自分で決めたい。


 トゥイ×キム大好きーーーーっ。もっとお話読みたいよー、でもないよーってことで自給自足。神さま降りてきて二時間ほどで書けました。
 パインセオって普通肉入れない気がとってもします。あと、書き終わった後に気が付いた。ベトナムって数え年♪ なんてことはないよね。あるかも(汗)。あとあと、学校には行けたのかなぁ、ってのもくえっしょん。映画館も同様。かなり怪しいっす。夢〜♪ な映画って洗脳するために米兵が普及させたんかなぁ。地方興行したりして。わからんよー。
 トゥイはキムが好きで(しっかしロリコンやねー)、でも表現がとことん下手で、一回も愛しているとか好きだとか言ったことなくて。キムにもトゥイを好きになる機会はあったんだろうなー、でもどっかで歯車狂っちゃったんだろうなーって感じに書きたいなと思っておりました。あと、キムのベトコン嫌いで米兵寄りな思考(=トゥイ嫌いのクリス好き)は弾圧政治が行われていた南ベトナムで無事に生活するために植えつけられたのかなぁという憶測。無知識な日本人的思考を振りかざすと、ベトナムをベトナム人のものにしようって活動しているベトコンは応援してしかるべきものに見えるんですがー。そこはまあ北と南で色々あるとしてもベトコン!(敵!) 思考を持つ環境にキムが育ってるというのに何故「あの時もうベトコン」なトゥイとの結婚を親が決めたのか。かなり謎だったので、私なりに補完してみました。親の心子知らずってやつですわ。そもそもベトコンって言い方からして、米兵寄りなんだよなぁ、キム。むー。
  余談ですが、書いている時のBGMは「愛が止まらないように」by泉見洋平さんでございました。今日からトゥイ×キムイメージソングに任命します(するな)。


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