麻機村塾より


     

麻機の名称の由来
 「あさはた」は室町時代までは、麻服・浅服・麻機・麻畑・浅畑・麻畠(読みはいずれもあさはた)等、いろいろに呼ばれていたが、
江戸期になってからは大体浅畑に統一されたようである。
 明治22年の市町村制施行により村名を決める際、浅間社記の「麻機とは麻の機織り(麻織物)、つまり麻布を産していたことを表わし、近くに服織(絹織物)・賤機(木綿織物)があり、いずれも織物にゆかりのある名称であり麻畑は誤りである。」の記より麻機とした。
 しかし、江戸時代の麻機の名産品の中に麻についての記載はどこにも見当たらず、まさに幻の特産物であり、麻が栽培されたとしても江戸時代ではなく、もっと古い時代の中世以前のことであろう。
 明治22年の市町村制施行により、池ヶ谷・南・有永・羽高・北・東・麻畑新田の7ヶ村で麻機村を組織した。昭和9年9月静岡市に編入され、ここに麻機村の名が消えた。

北の地名
  北の地名は、麻機七ヶ村(池ヶ谷、南、有永、羽高、北、東、麻畑新田)の中心地の有永に対しての方位によるという。
 北村が、背後に負う麻機山の一部(通称奥山)は、古くから近隣諸村の、まぐさば(入会山)で、江戸時代初期から、
 明治時代まで、その所有権をめぐって、しばしば紛争を起こしていた。
  農家にとって、まぐさばから、採れる青草は、肥料や、家畜のえさであり、薪炭の多くもまぐさばから、まかなっていたので、
 その所有権の移動は、死活問題であった。
  江戸時代に繰り返された争議によって、まぐさばの、多くは北村に、帰属するようになっていたが、明治十年、
 官民有地処分が行われた際、それを再び、八村(北、東、羽高、有永、南、北安東、上足洗)の共有にするとの裁定が
 出たため、北村が、反発、訴訟事件まで発展した。
  最終的に、八村の間で契約書が、調印されたのは、明治二十五年であった。
  現在の大字北には、大規模な団地をはじめ、宅地造成が進められ、麻機地区最大の人口密集地となった。

 
                                                                                            
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