ドロボー捕獲作戦


1974.1
 1973年夏から1974年1月にかけて当店の倉庫に頻繁に侵入し、事務所の中の食品や小額金銭を失敬していく不届者があることを察知。
 最初はだれかだまって食べたんだろう、お金の計算間違いをしたのだろうと思って気にも留めなかったが、どうもおかしいとようやく年末になって思いはじめ、
ちょっとした心理作戦をたて、お金や食品をセットしておいたところ、作戦どおり賊は形跡を残していった。
 これで賊の侵入が確定したので、いよいよ賊の捕獲作戦にかかる。
 普通なら無人の倉庫に泊り込むのが一番手っ取り早い方法だが、
真冬でだだっぴろい隙間風が吹き抜ける倉庫ではとてもその気になれない。
だいいち、いつまで泊り込めば賊と遭遇するのか、遭遇したらひとりで捕まえられるのか、賊を追いかけながら警察などへの通報は出来るのか、どれも?????だらけ。
 そこで、持っている無線関係のガラクタを寄せ集めて無線式侵入警戒通報装置なるものを仕事が終わってから一人黙々と作り、これを現場にセットして倉庫を閉め、帰宅。これでいつもと変わらず、こたつで暖かい夕食をとり、ほかほかのベットでゆっくりと寝る事が出来る。
 装置をセットして2.3日もすれば賊が引っかかると安易に考えていたが3日たっても4日たってもかからない。セットを見破られたのか。
 ついに1週間になろうとしていたのであきらめかけていたところ、叔父からアドバイスをもらった。「雨降りの時は動くよ」
そして、その日の夕方からあつらえたように雨が降出し、倉庫を閉める頃にはかなり強くなってきた。
 その夜、うとうとしかけた時、警報装置が作動、続いてなにやらがさごそと賊が仕事をしているらしき物音。最初は装置の誤作動かと思った。
なぜかと言うと、まだ夜中の零時前でそんな時刻に賊が動くとは思ってもみなかった。
装置の受信音量を最大に上げてみる。相変わらずあたりを物色しているらしき物音。
ただちに家内をたたき起こし、車で現場に急行。その間、家内は警察と従業員に連絡。
状況は無線にてその都度連絡し合う。
私は正面から突入。従業員数人は裏口をガード。
私が飛び込んだ時、真っ暗なはずの倉庫の事務室に明かりが点いていて,バタバタと慌てふためいたような音がして明かりが消えた。
逃げられないように従業員達と声を掛け合い、完全に包囲完了。
そうこうするうちに近所も起きだしてくるし、パトカーも数台到着。
警察官が何人か事務所に踏み込む。が、しかし、賊がいないのである。大騒ぎしてなにもないではパトカーは何の為に駆けつけたのか?

でも、確かに賊はいたはずだ。裏口に待機している従業員に確認するも逃げた形跡無し。
私が突入した時、明かりが消えると同時に何かちょっとした音がした事を思い出した。
それは、ベニヤ板を叩くような音だった。事務所の壁が安物のベニヤ板で作られていて、以前から角の方のベニヤがわずかに破れていたのである。
まさかそんな狭いところに人間が入るわけが無い、と思っていたが、どう考えてもそこしか逃げ込めない。
警察官はあたりを探し回るが見つからないので「がせ」と思いはじめたようであれこれ言いながら帰ろうとするので、とにかくベニヤの壁の中を捜して見てくれるようにたのんだ。警察官は不承不承こんなところに入るわけがない、というような事をつぶやきながら覗き込むやいなや「でてきなさい」と壁の中に怒鳴った。
やはりいた。ベニヤの内壁と外壁の狭い隙間に賊が挟まっていて警察官に猫の子のように摘み出され、そのままパトカーに乗せられてサヨーナラ。

これで一件落着のつもりだったが警察官から調書を作るので署まで来てほしいとのこと。
そのまま署まで同行して調書なるものの作成にかかったのだが、これが賊より曲者で、そうは簡単に済むような代物ではなかった。
まず、調書は自分が書くのではなくて係官が書くものである。
従って係官が理解をしないと書けないと言う優れものだった。
ビーム方向が、スケルチが、ダミーアンテナがどうのこうのと、この一件には技術用語が目白押しである。その一つ一つを解説してどう使ったのか説明しなければならなかったのでとんでもない時間がかかってしまった。係官もご苦労様な事である。事件そのものは言ってみればたんなるこそ泥の一件で、調書もごくごく平凡なものであるはずだったのに である。途中であまりにも飲み込んでもらえない部分があったので事件にはあまり差し支えない部分だったことでもあり、適当で良しにしようかと思ったら、係官は譲らず何度も根気良く聞いてくれるのである。本当に頭が下がる。従って、この時の調書はかなりの枚数を書き直している。調書を書くのは係官だが、最後にこの調書の確認の署名捺印をするのは自分なので、書かれた文面をまず読んでそれに納得がいけばOKのサインをするし、そうでなければやり直しになる。

署を出た時はもう夜明けが近かった。
その翌日からコソ泥の事件なのに取材が始まり冒頭のような記事になった訳である。全国版でも小さいながら記事になったのでもしかするとご覧になった方がお出でかもしれない。

この事件で授与された感謝状。


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