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韮山反射炉(国指定史跡)

幕末期の伊豆代官・江川太郎左衛門英竜(坦庵公)は、ペルーの黒船到来等の当時の時代

環境の中で、国防の重要性を幕府に建議して、許可を得て、オランダの技術を模して、

大砲鋳造に必要な反射炉を構築した。

 

 

 

 

 

 

 


「鋳口」

溶解させる銃鉄等をいれるところで、燃焼ガスが天井に反射して集中して、

もっとも高温となるところ。高温のガスは隘路を通過して高さ16mの煙突に吹き抜ける。

この為、この型の溶解炉を反射炉と呼ぶ。

現在残って見えるのは、炉体と煙突である。炉は双連2基(計4基)で溶けた鉄が流れ出る湯口

側で直行して、大砲の鋳型に流し込まれる構造になっていた。

 

 


焚口

石炭等の燃料を入れるところ。

背面には、方孔(覗き穴)があり、焚口から投入された燃料は、ロストルの上で燃焼し、

灰は下の灰穴に落ちるようになっている。

韮山反射炉は、オランダの「大砲鋳造法」の原図を忠実に模しているが、

随所に独自の改良・工夫の様子がうかがえる。産業革命の進んだ西洋では、

いち早く、反射炉から高炉に変わり、現在では、世界唯一の産業遺産となっている。

 


24ポンドカノン砲

当時鋳造された大型砲を再現したもの。

なかなか迫力のある大砲で、こんな代物がお台場に数百台も並んでいたとしたら

黒船といえどもうかつなことは出来なかったであろう。

外国に対する交渉の牽制としては、当時、立派に機能していたに違いない。

 

 

 


南側2基と北側2基の全体概要

韮山反射炉は、安政元年(1854年)に起工され、同年11月に南側の2基がほぼ完成

したが、安政2年1月に坦庵公が他界したため、中断し、その後彼の長子英敏が父の

遺業を継ぎ、北側の2基を築造、安政4年の春に、ようやくその全部が完成した。

以来、元治元年に至るまで、ここで大小数百の砲が鋳造され、主として、江戸湾防備の為

品川台場で、黒船ににらみを利かせていた。

韮山の反射炉は、佐賀藩に次いで築造されたもので、完全な形で現存する反射炉としては

我が国唯一のものである。炉は高さ16メートル程のものであるが、良質の耐火レンガと共に

その精巧さは、今日の溶鉱炉にも匹敵するといわれている。

 


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