蛭ヶ小島のページ1/2

 


昔懐かしい、郵便ポストも健在

韮山地区には、今では、あまり見かけなくなった、鋳物の赤い郵便ポストが

あり、辺りの田園風景と見事にマッチしている。

 

 

 

 

 

 

 


遺跡「蛭ヶ小島」石碑

英暦元年(1160年)、当時14歳だった源頼朝は、父源義明に従って平清盛と戦ったが、破れたため

殺されるところ、平清盛の継母池禅尼の命乞いによって、この地に流されて、命を救われた。

当時の鹿野川の古い流路は山裾に沿って蛇行しており、中州がいくつもあって、大蛭・小蛭・和田島

などと呼ばれていた。実際、当時のこの辺りには、蛭が多かったとも言われている。

 

 

 

 

 


蛭ヶ小島公園の様子

流配された14歳の頼朝は、平家から監視役を命じられた韮山を本拠とする豪族

北条時政の監視下で半ば幽閉されていたわけだが、この地で34歳を迎えるまでの

20年間、割と自由に過ごしていた。

そんな青春時代に、頼朝は、伊東祐親の娘「八重姫」と恋愛仲になったが、

悲恋の末、八重姫は、大仁の山中で侍女6人と自らの命をたったのである。

その八重姫の慰霊碑が「女塚」というわけである。

 


蛭ヶ小島の解説

その後の頼朝は、天城の猪狩、近隣地での信仰生活等

かなり自由な生活をさせてもらっていたのであった。

これは、比企一族をはじめとする源氏ゆかりの人達や

素朴な伊豆の人達による温かい後援があったからに

ほかありません。

 

 


公園内の石碑とベンチテーブル

本来は、平清盛から頼朝の監視をおおせ使った北条氏ではあったのですが、

やがて北条時政の娘政子と頼朝は、恋仲になっていくのであった。

北条時政が京都大番役(皇居や京都市中の警備)のために都にのぼっていた時に、

頼朝と政子の間に女の子(大姫)が生まれました。

平家にこの事実が知れるのを恐れた父時政は、あわてて、娘政子を伊豆国の

代官である山木兼隆に嫁がせようとしました。

 


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