歴 史



登場
ミクロネシアが歴史に登場したのは、1521年にスペイン人マゼランがマリアナ諸島を発見してからです、
1526年にはヤップ、ウルチーをポルトガル人が発見し、1543年にはパラオをスペイン人が発見しました、
そして1566年にはマーシャル、トラック、ポナペを同じくスペイン人がそれぞれ発見しています。

 それぞれの諸島の名前も、当時のスペイン皇后マリア・アンナからマリアナ、国王カルロス二世から
カロリンと名つけられ、マーシャル、ギルバートはそれぞれ発見したイギリス人船長にちなんで
命名されました。

《スペイン統治時代》
1566年にスペインがグアムの領土権を宣言しました。1662年になってサンビトレス神父がグアムに派遣され
国王の強力な支援を受けて本格的なキリスト教による宗教統治がマリアナ諸島におこなわれました。

16,17世紀頃は、せいぜい航海の補給基地か、キリスト教の布教地であり、この頃のスペイン人の活動は、
フィリピンとマリアナの両諸島に限られ、マーシャル、カロリンの両諸島についてはその存在が知られている
程度でした。

植民地化が台頭してくるのは19世紀後半になってからで、宣教師、捕鯨船、貿易船、さらに各国の軍艦が
それぞれ利権と権力の拡大を求めて、この頃の太平洋の島々を割拠する時代にはいりました。
1885年にドイツ軍艦がマーシャル諸島のヤルートを占領し、領土権を宣言しました。
その翌年、イギリスがギルバート諸島を占領しました。これらの後発勢力の進出にあわてたスペインは、
マリアナ諸島とカロリン諸島の領土権を改めて主張しました。

ギルバート諸島が、現在、ミクロネシア政治圏外になっているのは、このときイギリス領になったからです。
そして、1889年、米西戦争が勃発し、スペインはアメリカに敗れて、フィリピン諸島とグアムを失ったのです
また、敗戦で財政破綻に陥ったスペインは、カロリン諸島と、グアムを除くマリアナ諸島をドイツに売却し、
300年以上に渡ったミクロネシアの支配者としての地位を降りることになりました。


《ドイツ統治時代》
マリアナ、カロリン、マーシャルの3諸島を手中におさめたドイツは、兼ねてから力を入れていた産業開発に
積極的に取り組み始め、海外権益拡大競争で太平洋圏制覇の野望を実現する前衛基地としました。
経済開発の活動は広範囲に及び、椰子、砂糖きびなどの栽培が盛んになり、現在域内にあるココヤシの大半は
この時代に植えられたものです。また、牛、豚、鶏などの家畜の導入も積極的に行われました。
鉱物資源では、ボーキサイトやリン鉱石の鉱脈発見と採掘を行なっています。
そして、前衛基地としての機能を果たすために、ヤップを本拠地としてセレベス−グアム−上海に通じる
海底電線やラバウル−ナウルを結ぶ無線電信網も整備されました。

ドイツ統治は15年間、マーシャル占領時から数えると29年間でした。
ドイツ側からみれば、短い期間のうちに実施した開発事業には何れも目覚ましいものがありましたが、
それだけに短兵急なやり方が、島の人々のおっとりとした生活様式から余りにもかけはなれており、
島固有の伝統社会を急激に破壊することになったようです。


《日本統治時代》
日本が第一次大戦の勃発に乗じて、ドイツ領ミクロネシアを無血占領したのは1914年です。
ドイツの残した財産を継承し、それから約30年間、日本は、「南洋群島」という名前でミクロネシア地域を
支配しました。

日本がこのミクロネシア地域を当時の国際連盟から委任統治領として承認されたのは1920年でした、
以後日本は、産業開発の促進に加えて、住民に日本人として日本語教育の普及をおこないました。
経済開発は極めて順調に進み、リン鉱石、水産、農業、林業、コプラ産業などの産物は総て日本国内に
輸出され、島々は「南方資源」の供給地として重要な地域になりました。


日本の政策は、政府と民間人が同時に入り込むという、同化政策で、大勢の日本人が移住していきました。
農業、漁業を含めて経済活動の大半が日本人の手で勧められ、最盛期の1940年には日本人は約8万人に達し
ました。これに対し、ミクロネシア人は5万人にも満たなかったのです。

1933年、国際連盟を脱退した日本は、ミクロネシアを永久領土とすることを宣言し、以後、この地域は
「海の生命線」といわれ、軍事基地化されていきました。
第二次大戦中は、この地域は大変な激戦地となり、日本軍、アメリカ軍のみならず多くの島の人々が
戦火に巻き込まれ命を落としました。さらに、これまで他に類を見ない発展をとげたこれらの島々は、
戦災に観まわれ、地域は荒廃してしまいました。

  

《アメリカ統治時代》
日本軍を駆逐したアメリカは軍政をしき、ミクロネシアは1947年に国際連合の信託統治領となりました。
そしてアメリカの施政権下におかれることになりました。
アメリカの施策は、日本がこの地域を活用して経済的基盤を作ったのに対し、太平洋における軍事政略上の
価値を獲得するものでした。
ミクロネシアの信託統治領はその予算の90%以上がアメリカの“ドル”資金で賄れており、
完全にアメリカ依存の地域社会となってしまいました。
また住民には、アメリカ式学校教育と消費文化を与えたものの、産業を興す事よりむしろ経済援助による
アメリカ支配の体制強化に勤めました。

しかし、世界中の信託統治地域が信託統治を終結するなか、この地域も最後に残された信託統治領として
役目を終えるとともに、住民の中から統治終結時の地位について如何にするかとの論議が活発になりました。
このことはアメリカの意向と微妙な食い違いを診ると同時に地域内の各々の島により意見が異なりました。

 アメリカは軍事的見地からミクロネシアが重要であると考え、ミクロネシア議会と折衝を行ってきました。
 ・パラオ、マリアナ諸島に軍事基地を新設する。
 ・クエジェリン環礁のミサイル実験基地の使用を継続する。
 ・恒久的にアメリカ以外の軍隊がミクロネシアに入ることができない。
このような内容の交渉と引き換えに経済援助を続ける、というものでした。

そして最初にマリアナ諸島の住民が1975年に政治形態をどうするかという住民投票を行いました。
この結果は“アメリカの主権下での自治政府”という道を選びました。
つまり、アメリカから財政援助を受ける替わりにアメリカに軍事利用権を認めるという内容でした。
 1978年には、カロリン、マーシャル諸島でも全体投票が行われました。
しかし、もっとも経済力のあったマーシャル諸島は、他島と同一条件では不公平であると反対しました。
そこで、ヤップ、トラック、ポナペ、コスラエ諸島で1979年、ミクロネシア連邦を設立しました。
その後、1986年ミクロネシア連邦は、マリアナ諸島と同様にアメリカとの自治連合方式で独立しました。
連邦政府は、15年間の財政援助と引き換えに、この地域へアメリカの軍隊を駐留させたのです。
 一方、マーシャル諸島は、自治政府を作り、アメリカとの自治連合を望み独自に交渉を行いました。
これに対して、パラオは1981年ベラウ共和国として独立を宣言し、世界初の非核憲法を制定しました。
そして憲法の中には、領土権の主張、反基地化という住民の意志があちこちに組み込まれました。
現在、同国が国連の最も新しい加盟国となっっています。