『鉄橋は水面に揺れて』 Previews                    -- 志摩 文音 Character Rough-Text --   「すみませ〜ん」  小さな窓口から学科事務室の中を覗き込んで、奥に向けて呼びかけた。部屋の中に人 影は見えないけれど、窓口の戸が開いていたし電気もついているから、きっと誰かはい るんだろう。私の腕時計でではあるけれど、ちょうど受け付け時間の8時半にはなった のだし。   「あ、あの、4年の坂下教授の講義なんですけど、第3講義室の鍵、お願いしま    す」  呼びかけに応じて出てきた事務員さんに言って、鍵と一緒に貸し出し記録帳を受け取 る。本当は学生証も必要なんだけれど、顔なじみの人だったのでノートに名前を書くだ けで貸してくれた。必ず30分前には講義室に入ることにしているおかげで、一コマ目 の講義がある日には、わたしがこうして鍵を借りにくることが多いせいだ。   「ありがとうございます」  名前を書き終えたノートとボールペンを返して軽く会釈をすると、わたしは講義室へ と向かった。  その日一番に入る講義室には不思議な静けさがあって、ちょっと気持ちいいと思って いる。誰もいない寝静まっている講義室の空気は、心を落ち着かせてくれる。本当は掃 除のおばさんが先に入っているんだろうけど、そこまでこだわっても仕方がない。とも かく、今日は夏休み明けなこともあって、そんな朝の空気を感じたかったわたしは10 分前から事務室の前で待っていたのだ。  差し込んだ鍵を回すとカツンと乾いた音がして、二枚のドアを繋いでいた鍵の閂の部 分がノブのついているドアの方に収まった。アパートのドアと違う軽いこの音も、実は お気に入りだったりする。初めからじゃないけど、この音にしても今では講義室の空気 と同じく早くこようと思う理由の一つになっている。   (おはようございます)  講義室に入ったわたしは、胸の中で朝の挨拶をした。これも恒例になってること。声 に出しても良いんだけど、もし誰かが後ろにいたらさすがに恥ずかしいので胸の中にと どめることにしている。  黒板の前、ちょうど真ん中に置かれている教卓の上に鍵を乗せて、わたしはいつもの 席に向かった。講義にくる教授が持っていてくれることになっているので、返しに行く 必要はない。  やっぱりというか、座る席は人によって次第に決まってくるみたいで、わたしの場合 は前から四番目の真ん中の席がいつもの席。5人掛けの机の横に座る人も大体決まって いて、一つ離れた右に座るのは確か島田君。4年間あまり話したことはないけど、成績 は随分良いって話を聞いたことがある。左は、それこそ本当にいつも通りに相川。その 向こうが関根君。  学科の中に他に女性がいないわけじゃないけど、あまり話題が合わないこともあっ て、2年になるころには相川達と一緒に行動することが多くなってた。性別が違うと はいっても、やっぱり小学校からずっと同じクラスの相川の方が話し易いし、話題も合 った。関根君も気さくな良い人だったし。そういうわけで、学校にいる時には大抵3人 でいようになっている。研究室は別れてしまったけど、それは相川がくじ引きで負けた んだから仕方ない。1/11の確率を真っ先に引き当てるあたりが、相川らしいといえ ば相川らしい。   (でも、後期からは一緒の講義はこれしかないんだなぁ……)  頬杖を突いて吐き出した息は、チクリと痛む隙間を胸の奥に作ってくれた。しばらく 忘れていたはずの傷は、やっぱり治ってなかったみたい。   「おっす。やっぱ早ぇな、志摩」   「え、あっ?関根君?お、おはよう」  急にかけられた声に顔を上げると、部屋に入ってきた関根君の姿があった。関根君も いつも早くて、私の次にやってくることも多い。   「ん?なんか元気なくねぇ……って言っても当たり前か。今日からまた大学だし    な。ぼちぼち中間審査のことも考えなきゃいけないしよ」   「あははは。でも、お互い就職が決まってるだけでも良しとしないと」   「まあな。卒業さえできれば良いんだよな……卒業さえできれば……」   「大丈夫だって。うちの研究室、ここ何年も落とされた人いないんだから。それ    に、内定が出てれば先生がなんとかしてくれるらしいし」   「そうだと良いんだけどな。俺の場合、これまでの単位もギリギリ一杯な上に、中    間審査もハチャメチャ嫌な時期にあってさ、ヤバイんだよこれが」   「そっか。前の週なんだっけ。大学祭って」   「そ。全くうちの学科のセンセ達は、何か学祭に恨みでもあるのかねぇ……。と、    そうそう。聞いた?相川んとこの研究室」   「えっ!?」  突然、いや、別に全然不思議でもなんでもないんだけど、出てきた名前に思わず声が 裏返りかける。見透かされたようなような気がして、ドキリとしてしまったのが原因。   「なんでも、夏休みほとんどなかったらしぜ?毎日9時から5時までご出勤だっ    てさ」   「そうだったみたいね」   「遊びに行くどころか、就職活動もまともにできないってボヤいてたぜ。あいつ」   「やっぱり、まだ決まってないんだ」   「あいつの場合、スタートに出遅れたもんな」   「う……ん」  関根君がなんのことを指したのかは、確かめなくてもわかる。もう1年も過ぎるの に、未だに相川は沈んでいる。今は少しマシになってるけど、就職活動に入れるはずの 春先には、まだ覇気が感じられなかった。  原因が付き合ってた彼女と別れたことなのは、わたしも知っている。頷く言葉を思わ ず濁らせてしまったのは、それが理由。   「ああ、やめやめ。ただでさえ憂鬱な朝が、もっと暗くなっちまう。何とかなるん    じゃねえの?俺なんかよりもあいつの方が遙かに成績良いんだし。んなことよ    り、自分の卒業の心配せにゃいかんのさ。俺は」   「陰ながらでよければ応援してあげる」  しまったという顔をして鞄をゴソゴソと覗き始めた関根君を見て、わたしも気を取り 直して答える。関根君が話題を変えてくれたのが、わたしの様子を見てであることがわ かったから。   「あ、ひでっ。同じ研究室なんだし、ちょっとは手伝ってくれても良いんじゃね    ぇ?俺と志摩の仲なんだしさぁ」   「そういうことは、まずは自分で精一杯頑張ってから言わないとね?」   「へいへい──っと、いけね。ルーズリーフ切らしてたんだった」  そう言って、関根君が顔を上げる。   「ルーズリーフ?あげようか?」   「あー、いや、いい。購買まで行ってくるわ。思い出した時に行っとかないと、次    は次で忘れそうだしな。ついでに飲みもんでも仕入れてくる。志摩は?なんかい    る?」   「ううん、私はいい」   「んじゃ、行ってくる」   「いってらっしゃい」  タッタッと階段教室を降りてゆく関根君の背中を、なんの気なく見送った。いつもな がら敵わないなぁと思う。話題を相川君から曲げたのは、わたしのことを気遣ってくれ たからだろう。   (それに──)  ふっと目を向けた隣の席は、空のまま。関根くんの鞄は、一つ離れておいてある。 これもいつものこと。相川より早くきてるのに、相川の席を空けて座る。相川とわたし が並んでる隣に座ったのが、元々きっかけだったからってことは無いと思う。。   (初めの頃はそんなことなかった……よね)  それがいつからだったのかは判らないけど、気がついたのは3ヶ月ぐらいたったと き。きっとそのときにはもう、わたしの想いはバレていたんだと思う。もしかして、周 りからみると、そんなに判り易いんだろうか。自分ではなるべく出さないようにしてる つもりなのに。   (まさか……ね)  心配をした後で、やっぱり頭に浮かんだ予感は否定した。意識し始めたときには相川 はわたしのことなんて目に入ってなかったし、その後はもっとそうだったし。   (相川が気づくタイミングはない……はずだし)  吐き出した息の中に、安心とは違う感情──気がついてくれれば良かったのになん て──が混ざるのは、自分ではどうしようもなかった。   『スキ』  相川が着くはずの机に、ペンケースから取り出したシャーペンで落書きした。すぐに 指で擦って消す。その上にもう一度、『バカ』と書きつける。今度のそれは、わたし 自身に対しての一言。自分の心に気づけなかった、高校二年生のわたしに対する一言。  その二文字は消さなかった。相川なら誰が書いたのかすぐにわかるだろうけど、自分 に対して書かれたんだと勘違いすると思うから。そのぐらいのおふざけは、今でも日常 茶飯事だから。この距離で二度目のチャンスを探せる期間は、もうあんまり残されてな いから。  ノブが回される音にドキリとして、わたしはドアの方に顔を向けた。けれど、入って きた姿は相川でも関根君でもなかった。話したことも多分ない人。あったとしても一度 か二度か、用事があって話したくらいの人。同じ学科だから、顔は知ってるけど。  呑んでしまっていた息を吐いて、肩の力も抜く。相川じゃないことにホッとしてい た。相川なら、不意を突かれて固くなってしまっているのを、挙動不審と思っただろ う。  ペンケースの中にシャーペンを戻す。字でわかるけど、一応は証拠を残さないよう に。悪戯なら、そのぐらいの配慮はして当たり前。そのくらいは、わたしは気を回せて るはず。それならしまっておかないといけない。  ファスナーから離した指の先、いつもと同じ一日の準備が整った。 ------------------------------------------------------------------------------                              Written by けもりん                        無断転載とかはご遠慮下さいませ。                ・・・心配する必要はないと思うんですけど。(苦笑