『鉄橋は水面に揺れて』 Previews                    -- 佐伯 真希 Character Rough-Text --   「んぅ……」  22インチの大型モニターが煌々と輝く前で、目が覚めた。   「おっと、いけないいけない」  画面一杯に広がる"っ"と、最後に申し訳なさそうについている"s"を見て、半透明の キーボードからぱっと手を退けた。もしスピーカーがついていたなら、きっとピピピピ と鳴りっぱなしだったことだろう。   「っつつっ」  痺れてすっかり感覚がわからなくなった腕を揉みほぐすと、まず最初に痛覚が戻って きた。まあ、手首を動かすことができない程に痺れていたのだから当然だろう。乗せら れていた額にも、袖の皺がうつってるに違いない。  口だけで欠伸をしながら、椅子をクルリと回して背後の窓から外を見る。早朝、と言 うには光が強い。   (4時間ぐらいは寝たかしらね)  眠気が完全に取れている訳ではないが、もう一眠りするほどでもないだろう。動き出 してしまえば、眠気なんてどこかへ行ってしまうものだ。第一、慣れてるとはいえ、机 で突っ伏して寝ても、疲れが取れるのはそれなりにでしかない。折りたたみ式の簡易ベ ッドもあるにはあるけど、出すのは面倒だ。   「えっと?」  もう一度椅子を回して、モニターをのぞき込む。寝る前になにをやっていたかを確認 するためだ。   「そうそう。で──っと」  1時間程かかる分析を待っている間に寝落ちしたらしいことを把握して、実験室のパ ソコンから結果をダウンロードする。   「あちゃ。だめだわ」  グラフドローソフトで表示させ、落胆の声をあげた。全く期待していない場所に出て いるピークが、昨日まで3日間かけて行った合成が失敗したことを示している。   「んもう、ホントにこの方法で合ってんのかしら」  失敗は、既にかれこれ3回目。1回目は途中で急な温度上昇で途中で中止、二回目は 取り出してみたらできるはずの沈殿物が全くなくて論外。今回ようやくそれらしきもの が取れたというのに、物質としては全然違うものであることが、たった今判明した。失 敗の内容が毎回違うことが救いといえば救いだが、毎度がっかりさせられる身としては 疑いたくもなる。   「どっかの論文から引っ張ってきたんだろうけど、いまいちあの人の言うことは    信用できないのよね」  これまた慣れた不満を漏らす。学部生で1年、院に進学してから半年。合わせて一年 半の間に募った教授への不信感は、結構大きい。特に院生として見てきたここ半年で、 随分と膨らんだ。   「そりゃまあ、プライベートがあるのもわかるけど」  朝9時にきて夕方5時にはさっさと帰る。まるっきりサラリーマンと同じ時間の勤務 時間をきっちりと守っている姿からは、どう見ても研究者としての気概が感じられな い。しかも、良く席で昼寝をしている姿をみることを考えると、サラリーマンなんかよ りはよっぽど楽をしているように見える。   「みんながやる気をなくすのも当然だわ」  そのくせ権力争いには人二倍ぐらいの興味があるらしく、配属された学生への締め付 けは厳しい。自分が9時から5時までしかいないくせに、学生には平然と9時から5時 +αを求めている。そんなだから、みんな+αは5分程度になってるし、昼間だって目 を盗んで漫画を読んだりだ。「卒業まで一年我慢」が、今年の学部生の合い言葉にもな っている。  だからかどうか知らないが、研究室に院生はあたし一人だ。本当は2年の先輩がいて もおかしくないはずなのに、あたしが学部生の頃から誰もいなかった。他の研究室は、 どこも2年と1年が三人づついるにも関わらず。   「ま、楽に入れはしたけど」  あたしがどうしてそんな研究室で院生になったかといえば、学部生時代にあった研究 室割り振りの時点では進学を考えていなかったから。教授はともかく、分野としては興 味のあった研究室を選んだだけ。11月に突然しだした進学希望がすんなり叶ったのが 不人気による定員割れだとすれば、多少は教授に感謝してもいいところなのかもしれな い。もちろん少しだけ。  もっとも院生となってからは、ひたすら研究室に籠もるようになっている。元々自覚 する程だった生真面目さと負けず嫌いが災いしてか、教授に不満を覚えれば覚える程、 反発するように研究に打ち込むようになってしまった。おかげでこうして研究室で夜を 越すことは珍しくない。それも、二日三日は当たり前。学部生からは「ぬし」だとか 「大ボス」だとか呼ばれているが、大体合っているように思っている。「お局様」とも 一度呼ばれたことがあるけど、睨んで返したら二回目はなかった。   「しょうがない。シャワーでも浴びてきますか」  部室棟にあるシャワー室は、すっかり常連になっている。特にこの半年は、家のバス ルームと同じくらいはお世話になる程。本来は運動部の活動後のためにあるのかもしれ ないが、もしかすると構内で一番使ってるのはあたしかもしれない。これがなければ、 さすがにあたしも泊まり込んだりはしないだろう。  溜息一つをついて、マウスから手を離す。自分の席になっている事務机の引き出しの 一番下を開けて、下着とタオル、そしてシャンプーセットを取り出した。ブラウスとス カートは昨日着替えたばかりだからまあいいだろう。   「今日は帰らないといけないかな」  最低限の着替えは、何日分かを常においてある。といっても、3日目の今日はこれが 最後の1セットだ。2セットは洗濯物に置き換わっている。   「あーあ。これでも一応、世間一般には年頃の娘なんですけどねぇ」  苦笑いと共に一人ごちて、下着をビニールの手提げ袋に無造作にしまう。言ってはみ たものの、「年頃の娘」などとはまるっきり人ごとだ。自分から笑い話にすることがで きる程、あたしには縁遠いものだった。   「さっさと行きますか。さっさと」  ふと壁に掛けられている時計を見て、もう少しで教授がやってきそうな時間になって いることを知った。朝一に会う人が教授なのは珍しいことではないけれど、さっきまで 愚痴を言っていただけに今日は気が乗らない。会うのはすっきりとしてからの方が、精 神衛生上も良いだろう。   「おっと」  室内履きから外用のサンダルに履き替えたところで、白衣を着たままであることに気 がついた。着いているのは危険な薬品であるわけではないが、どう贔屓目に見ても汚れ ていると目に映る。   「ま、いいや」  それでも、あたしは気にしないことにした。そんなことを気にするくらいあれば、梳 かすことすらもしばらくしていない髪や、ファンデーション一つつけていない頬を先に なんとかすべきだろう。   「会う誰がいるわけでもないんだし。どうせ、ね」  フッと床に流した目元は、誰に見られることもなかった。  私の一日は、今日だって変わるわけもない。 ------------------------------------------------------------------------------                              Written by けもりん                        無断転載とかはご遠慮下さいませ。                ・・・心配する必要はないと思うんですけど。(苦笑