頭のややうしろに設置されているらしいスピーカーから、次の停車駅がアナウンスさ れた。手をかけた手摺りのすぐ脇にあるドアの窓では、日曜日であるにもかかわらず見 慣れた景色がうしろへと流れている。  スピーカーから聞こえてきたのは、ウィークデイには毎日のように使っている駅の名 だ。バーベナ学園の――すなわち私にとっては職場の最寄りとなる駅。  (あ〜あ。んだかなぁ……)  外を見ながら、肩を小さく落とした。  六月半ばの暦にしては珍しく、窓越しの日差しは爽やかだ。それ自体は決して私の気 分を害するものではない。が――普段の今頃は、のうのうと休日を謳歌していたはず だ。それを思えば、爽やかな青空はうらめしい以外のなにものでもない。普段より出勤 時間が遅いのや車内が空いているなんてことは、休日出勤であることを思えば慰めにも ならないささいなことだ。  まして――そう、まして。  今朝の目覚めは、最悪とも言えるものだった。そんな日に休日出勤が重なるとは、な んとも運が悪い。毒づきたくなるのは、客観的に見ても無理はないだろう。  目覚めが悪かった理由はといえば、見てしまった夢に違いない。我ながら悪趣味な夢 だったと思う。仕事をする夢や遅刻しそうになって焦る夢も御免被りたいものだが、そ れに輪をかけて気分を悪くしてくれる夢だった。  何故に――あんな夢を見なければならないのか。とっくの昔に心からは追い出したは ずなのに、今更だ。思い当たるふしがないわけではないが、もう随分と昔のことだ。  「――ふん」  不満を思い描いていたとはいえ思考を奪われていたことに気がついて、私は鼻の奥を 短く鳴らした。外に向けていた視線を車内に変えて、景色が無駄に鮮やかであることに 理由を押し付けようとする。  けれども、動かした視界に飛び込んできたものは、またも私の気分を滅入らせるもの だった。  車両の角に立つ女子と、その娘を追いやるようにして立つ男。それも、二人。  「な、良いじゃん? せっかく天気の良い日に、そんなに可愛い服なんだからさ。   遊びに行こうよ。波に足を浸すだけでも、な?」  電車内だというのに恥ずかしげもなく騒いでいる男の言葉からして、なにが起こって いるのかは明らかだった。しかも、その男たちの陰に見え隠れしている少女は、どう見 ても迷惑そうにしている。  (っんの――)  瞬時に波立った感情の中に、ある一人の生徒の姿が頭をよぎる。うちのクラスの―― あいつ、緑葉だ。背格好からも声で別人であることはわかっているにもかかわらず連想 してしまうのは、大嫌いな軟派男の代表のようなヤツだからに違いない。  嫌いとはいっても、仕事の上では仕事と割り切っている。他の生徒とは分け隔てなく 接してはいるつもりではあるし、多少辛くは当たっているとの自覚はあるが不出来な生 徒への対応の域を越えるものではないだろう。  もちろんあの性格はいつかは矯正してやらねばと常々思ってはいるが、しかしまあ、 それも生活指導の一環だと思っている。  が――あれでもし、そう、あいつがもし魔族あれば、有無を言わさずに根性を即刻叩 き直しているところだ。軟派男と同じぐらい、私は魔族の男も嫌いなのだ。多少どころ か、思い切り強硬な手段に訴えてでも、性根を叩き直したくなるのは目に見えている。  もちろん仕事の上では、魔族だって差別をしているわけではない。こればっかりは指 導してもどうしようもないことでもあるし、はっきりいって諦めることにしている。だ から、相手が魔族であっても理性的に振る舞う自信はある。  ただ――問題は軟派野郎と魔族が重なったときだ。そんな生徒が現れたときには、ど うなるかはわからない。今のところそういう生徒に当たっていないのは幸いだと思―― っている時点で、恐らく押えが聞かなくなるだろうと予想ができる。  だから、その私にとって幸いは、睨みつけている先にいる二人にとっては不幸以外の ナニモノでもなかっただろう。逆鱗に見事ストライクな存在は、ただでさえ朝からであ る苛立ちをみるみる膨ませてくれたのだ。  (ったく――)  我慢の限界とばかりに、寄りかかっていた手摺りを肩で押した。  「ね? 同じバーベナ学園の生徒同士、仲良くしようよ?」  ほとんど同時に、男の一人が口にする。  その言葉を聞いて、私はげんなりした。若さと魔族であることからある程度予想はし ていたものの、こうもあっさりと嫌な事実が判明するものだろうか。  (あーあ。お互いに運の悪い一日ってやつだな、こりゃ)  これまでの学園で気にならずに済んでいたものを、これから先は意識せざる得なくな るだろう。軟派なだけでなく魔族とくれば、否が応にもだ。せっかく緑葉の陰に隠れて いたというのに――と思うと、迷惑も甚だしい。お互いになんの利益にもならないだろ うに。  休みの日だと思うと割には合わないが、どうせ休日出勤のついでだ。軟派をしてる方 もされている方もバーベナ学園の生徒のようであるし、仕事の一環としてとらえて我慢 することにしよう。  内心で愚痴を言いながらずかずかと近づいた私は、そいつらのすぐうしろに立った。  顔も露骨に呆れさせているにもかかわらず、周りに気を払うだけの頭などあるわけも ないのか、気づかれている様子は全くない。  「そこまでにしておけ?」  相変わらず女の子を責め立てるように話しかけている二人に、私は気乗りしないまま 声をかけた。  「は――ぁ……?」  「な――ぁ……?」  振り返ったそいつらの反応は、二人ともほとんど変わらないものだった。イントネー ションが、あからさまに鬱陶しそうなものから焦りの色に変わるのが見て取れた。粋が っていた鼻っ柱をへし折られた時に相応しい、間抜けな表情だ。    「見逃してやるとは言わん。が、傷は小さいに越したことはないと思うが?」  言い訳をされるのも面倒だとばかりに、私は淡々と言葉を続けた。頭では相応しいグ ラウンドの周回数――ウサギ跳びは決定済みだ――を弾き出す。嫌なことはサッサとす ませてしまいたいことでもあるし、次で降りるのだから悠長なことを言っていられな い。  「……おい」  「……ああ――」  顔を向かい合わせて、二人はなにやらうなづきあう。  と――身体が進行方向に向かって傾いた。慌てて踏ん張りながら目をやると、窓の外 には反対側のプラットフォームが現れていた。  「――逃げんぞっ!」  「むっ!?」  どちらのだかわからない声に反応して、私は視界から消えようとする姿を追おうとし た。が、崩れていた体勢が反応が遅らせる。遮ろうとして出した腕の先を、二人目の男 も通り過ぎて行く。それも、改札口に近い方の車両へと向かってだ。  「――ちっ」  舌打ちをして次の車両へのドアに手をかけている奴等の姿を見る。ガシャンという車 両の間にあるドア乱暴に閉められた音に、手遅れであることを知らされた。  車内が空いていることも災いした。純粋に運動能力の勝負となれば勝てるわけもない し、それ以前にマナーもなにもあったものではない奴等とは違って全力で車内を走るわ けにもいかない。今にも止まりそうなくらいに落ちているスピードからして、停車まで に追いつめるのも無理だ。  「顔は覚えたし、逃げたってどうせ一緒なんだがな?」  同意を求めるわけでもない言葉をかけながら私は、女子生徒の方を振り返った。  「と……あ、ありがとうございました」  「好きでやったことさ。礼はいらんよ、礼は。ただ、嫌なことにはもうちょっと   ハッキリと嫌と言えるようにならんとな」  おどおどと頭を下げるその子に、今日明日では無理な話だろうと思いながら言った。  バーベナの生徒なら私のことを知らないわけでもないだろうに、まるっきり固くなっ てしまっている。極度の人見知りか、あるいは引っ込み思案か、どっちにしても言い寄 るオオカミたちからしてみれば美味しそうな兎であることに違いはないだろう。  「す、すみせん……」  「あやまられてもな。ま、そのうちになんとかなるさ。それまでは、せめて逃げ   るくらいはできるようになれば良いさ。でないと――」  さらに諭そうとして、私は言葉を止めた。なにを口走ろうとしていたのかと、自分を 責める。あとに続ける適当なことを探して――諦めた。  (んだかなぁ……)  やはり今日はどうかしていることを自覚した。こんなことを話そうとするだなんて、 相当に焼きが回っているに違いない。  原因のほとんどは、やはり今朝の夢だろう。起きてから何時間かが経つというのに、 全然頭から離れようとしない。流石は悪夢ということだろう。  (まったく、今日は本当に厄日だな、こりゃ)  やれやれと、私は頭を掻いた。認めたくはないが、夢にでてきたアイツにすっかりと ペースを乱されてしまっている。言葉にしかけてしまったのも、つまるところアイツの せいなのだろう。  (まだ――か)  続きは言いたくなかった。口にするということには、自己暗示をかけるという副作用 もある。言ってしまえば、精神的にそれなりの影響を受けてしまうだろう。  だが、言いかけてしまった以上は仕方がない。途中で止めるのは変だし、上手い誤魔 化しも見つからなかった。  「――私のようになるからな」  ため息かなにかを吐き出すかのように、私は止めていた台詞の残りを解きはなっ た。  「えっ……!?」  意味が理解でいきていないのか、女生徒は首をかしげる。  しかし、それも仕方がないことだ。最近の私からすれば、想像などまったくできない だろう。いや、むしろされてはたまらない。  「っと、降り損なっちまう。じゃあな、また学園でな」  開いていたドアから入りこんできた発車のベルを聞いて、私はクルリとその子に背を 向けた。もう一度かけられたお礼の言葉に、右手を頭の横でひらひらとさせて答える。 振り返りはしない。  小走りに乗り込んできた男を避けて、ドアをくぐった。あとにした方の足がホームに 着のと同時に、そのドアが閉まる音がする。  「いない――か」  念のためにホームを見回してみるが、先程の軟派野郎たちの姿は見えない。既に逃げ たが、もしかすると降りていないのかもしれない。降りていないとするとさっきの少女 が少し気がかりだが、尻尾を巻いて逃げ出したのだ。そんな姿を見せた相手の前に戻る など、さすがにそこまで恥知らずではあるまい。  「まったく。少しは男らしさも見せたらどうかね」  それぐらいの心意気があるならばむしろ誉めてやりたいと思いながら、私は独りごち た。どうせやるならば、それぐらいは貫いて欲しいものだ。もっとも、そうではないか らこそ軽薄な軟派野郎なのだろうが。  (アイツなら――)  そんな中、ふと妙な考えが頭をかすめた。  「ふん」  一蹴しようと息を荒げる。アイツであれば――など、考えたくもないことだ。  けれども、私は望んでもいる。もう一度アイツから声をかけられないかと、八年間ず っと。なぜなら――  「今度は――」  そう、今度は。  8年間分の鬱憤を、晴らすことができるだろうから。 =============================================================================   SHUFFLE! サイドストーリー   『 Meaningless Reason 』                       紅薔薇 撫子                       Written by けもりん =============================================================================  「あ〜ぁ」  エスカレーターを降りた私は、雲一つない空に向かってため息をついた。こんなにも 天気が良いのにと思うと、ただでさえ面倒な学校がもっと鬱陶しく思えてくる。  こんな日なら、一番レベルの高い国立校を目指している同じクラスの瓶底眼鏡くんだ って、休みたくなるに違いない。まして、一週間のうち来ない日の方が多い私ならば、 今すぐにでも回れ右して帰る電車に乗り込みたくなるのは当たり前のことだ。  しかも、こともあろうに今日は日曜日だ。どうせ明日だって行く気はなかったが、そ れにしても出席を気にせず遊びに行ける貴重な日を潰されてるのは、まったくもって気 分が悪い。  「ったく、なにも休みの日に呼び出さなくなってなぁ」  呼び出しの理由は、大体の見当がついている。というより、間違いなく中間テストの 結果を受けてのの小言だろう。三年になったことだし心を入れ替えて――だとか言われ るに違いない。  二年だった去年の出席日数は、見事なまでにギリギリだった。計ったかのようにとい うより、実際に計算づくの日数だ。  テストの点も、まさに必要最低限。ほとんど全ての教科で、ボーダーとの差は一問か 二問だけだった。  通っている学校は、一応県下一の進学校ということになっている。とはいっても、定 期テストの問題は果てしなく難しいわけでもない。簡単なところだけ勉強していけば、 赤点を免れるぐらいの点数を取るのは難しいことではない。これでも中学まではテスト のあとに廊下に張り出される十人の常連だったのだし、テストのコツは大体掴んでいる 。コツ次第でどうとでもなることがわかっているから、イマイチ真剣にやる気が起きな いぐらいだ。  けれど、真面目に勉強する気になれないのには、他にも理由があった。  二年前、それなりに頑張って合格した学校の入学式で私を待っていたのは、私たちが 最後の入学生であるとサラリと言ってのけた校長のショッキングな挨拶と、それ以上に ショッキングだった他種族優待制度のある学校への転身の話だった。  他種族。それはつまり、神族や魔族と呼ばれる他世界の住人だ。奴等の住む世界との 門が初めて開いたのは、二年前。そのときは実験的なものだったものの、ついこの間、 再び開かれた。それも、今度は実験ではなく恒久的に。  校長の話によれば、受験前には全く予定されていなかった学校の運営方針の転換は、 そのせいらしかった。なんでも、移住してくる他種族――私は耳トンガリ共と呼んだり している――の奴等に、なるべく良い環境で学習ができる環境を用意するためらしい。  それが全人間界的な政策だったらしいことは、あとになってからニュースで聞いた。 この国も例外ではなく、ワンコロに似た総理大臣の号令の元、レベルの高い進学校は軒 並み方針の転換となったらしい。  そしてそれは、高校だけにとどまらなかった。国立を初めとして、主要な大学も次々 に他種族優遇策を発表していった。さすがにそれでは不公平との意見もあったのか、一 部の私立大には人間族も含めた大幅な受験制度の見直しとした学校もある。  が、高校に入るまで遊ぶ時間を削って勉強をしてきた私にしてみれば、それはなんと もバカらしいことだった。  とにもかくにもレベルの高い学校に入ることが、社会に出たあとで勝ち組に回るため の方法だと思ってきたからこそ、時間の投資を行ってきたのだ。それなのに、耳トンガ リ共がなんの苦労もなく割り込んでくる世の中になってしまうというのだ。  しかもそれだけでは飽きたらず、これからの世の中は他種族の奴等が使う魔法とやら の技能や知識までもが、社会的評価の対象になるらしい。私たち人間には、どう足掻い ても使えない物であるにも拘わらずだ。  つまり、学歴もなにもあったものじゃない社会が、私の目と鼻の先にまでやってきて いるというわけだ。当然ながら、私のやる気は赤丸急降下。いまだに赤い門をくぐるこ とに執着している瓶底眼鏡くんは、私にはただのバカにしか見えない。  「そのうち関税自主権も持ってかれたりしてな」  三年前から覚えたままの単語を引っ張り出して、たった四杯で夜も眠れなかった幕末 の状況に、今の人間界を重ね合わせた。  公式な発表はないものの、それらの政策の転換が他種族からの圧力であることは、ほ ぼ間違いがないだろう。カタチこそ友好的な条約締結ではあるものの、その実は客観的 に見ても明らかに不平等な内容だ。  だとすれば、なんらかの脅しをかけられて言いなりにならざるを得なかったと考える のは、突拍子もないことだとは思えない。  そこから導き出される結論は、人間族である私がどれだけ頑張ろうと、その努力は蹂 躙されるだけであろうということだ。言うなれば、人間界は耳トンガリ共の植民地にな ったも同然なのだ。あるいは、中東の一部のように。私の未来は、私の手の届かないと ころで塗りつぶされてしまったのだ。真っ黒に。  これでは、進学を目指しての勉強など、バカらしくてやってられたものじゃない。完 全なる時間の無駄以外のなにものでもない。そんな努力などまっぴらゴメンだ。搾取さ れるための綿花を育てるようなことは、たとえブルースが生まれようと私には堪えられ ない。  そんなわけで私は、最小の労力で三年間を乗り切ろうという、見事なまでの作戦を展 開中なのだ。どうせ無駄なことならば、やらないに越したことはない。  学校に行かない日にやってきたことはといえば、もっぱら映画を見ることだった。近 くのレンタル屋の棚にあるやつを、新旧ジャンル問わず片っ端から借りては見るの繰り 返し。好みは主に洋画だ。  さすがに二年近く続けているとレンタル屋のストックも尽きてきていて、近頃では邦 画も半々ぐらいで借りてきている。それと、マイナーな自主上映があると聞きつけては 見に行ったりもしている。ついでに言えば、時間つぶしに演劇やら展覧会やらにも行く ようになった。そうそうはないが、クラシックのコンサートなんかにも。  何故にそんな暮らしをしてきたのかといえば、これからの世の中て価値を見いだせる ものは、文化だとかと芸術だとかぐらいだろうと思ったからだ。政治やら経済やらが耳 の尖った奴等に牛耳られるのが目に見えている以上、肩で風を切るために残された唯一 の道だ。  だから、学校に行かないからといって夜な夜なほっついているわけでもないし、タバ コだの酒だの、ましてや頭が空っぽになる薬なんてのは、まっぴらゴメンだ。  が――どうもあの馬鹿担任は、私をおきまりの不良にしたいらしい。今日に限らず、 なにかにつけて呼び出されては、お小言を聞かされてきている。それも、あからさまに 汚い物に触れる扱いでだ。たまにワイドショーで特集されているようなバカ共と一緒に されるのは、本当に気分が悪い。  「べっつに、なにするってわけでもないっての」  私は悪態をついて、生徒の心が全く見えていない担任を馬鹿にした。  学校への文句を放つ口ぶりは、確かに悪くしている。だがこれは、あっさりと白旗を 上げた大人たちに対しての、ささやかな反抗なのだ。意図的に礼節を欠かしているので あって、礼儀を知らないつもりはない。必要とあらば、いつだって真っ当な応対ぐらい はできる自信がある。体面しか気にしていない教師に対して、必要性を全く感じていな いだけのことだ。  「なぁにが進学校の伝統だか。私の知ったことじゃない」  これまでは、落第やら補導やらの心配なんてものとは無縁な学校だったらしい。「最 後の学年で崩すわけにはいかない」と、これまでに何度言われたかわからない。なんで も、こんな不出来な生徒は開校以来、私が始めてだそうだ。  その一方で、私の言い分には耳をかそうとさえしてくれたことは一度もない。計算ず くでやってるのだから落第――補導に至っては計算するにも値しない可能性だ――なん て心配ないのに、耳の左から右へ抜ける小言を一方的に言うために呼び出すだけだ。私 になにか意見を言わせようとしたことなんて、一度たりともなかった。  もっとも、たとえ聞こうとしてくれたとしても、話すつもりなどなかった。これから 先に意味をなさない、旧態依然とした学力主義を生徒に押しつけようとする学校の教師 になんて、私の考えは理解できるわけがないし、私としても理解してもらいたいとも思 わない。アレこそがバカの一翼を担うものであると、軽蔑さえもしている。  「ま、他種族さんにはちょうど良い教師かもね。いい気味だわ」  ――ひょっとしたら、教育から耳トンガリどもをダメにするのが、人間界の政府の戦 略なのかもしれない。校舎は建て替えられるものの、基本的は教師はそのまま新学校に 移行することになっていたはずだ。  思いついた考えに少し気分が良くなって、私はふふっと笑った。  よもや有り得そうもない話だが、私の担任が学校に残るなら結果的にそうなっても不 思議ではないかもしれない。もっとも、その前になにかしらの手を打たれてしまうので あろうが。これまでの動きを見ていると、政府は明らかに政治的手腕でも耳トンガリ共 に一段も二段も負けている。とはいえ、自分の利権をまもることにしか頭の働かない政 治屋どもに政治手腕を求めるのは、酷な話というものだ。  「あー、やめやめ。時間と脳細胞の無駄遣いだわ」  ふと至極くだらないことに思考を奪われていたことに気づいて、やれやれとため息を つく。自分を恥じて、馬鹿みたいに見上げていた空から視線を離した。  嫌なことは、時間をかけずすませた方が良い。こんなところでうだうだと考えるよ り、サッサと聞くわけもないお小言を頂戴しにいった方がよっぽど有意義だろう。ここ でどんなに良い考えがでたところで、無駄に過ごす三十分ほどは、どうせ避けられない のだ。  あきらめたというか吹っ切れたというか、ともかく決心がついた私は、爽やかな光が 注いでいる駅前の広場に顔を向けた。グイと大きく一つ伸びをして、どんよりとした心 の中の空気を春の風に入れ替える。  気分を軽くもしようと、帰ったあとのことも思い起こしてみた。今日は――なかなか 雰囲気が良さそうだったフランスだったかの恋愛物の続きだったはずだ。恋だとかとい うことに経験はないし、ただの夢物語なのはわかっているつもりだが、なんだかんだと ああ言うのは好きな方だったりする。結構楽しみだ。  「んじゃま、張り切って行きますか」  ひとまず気分は大分晴れた。肩の学校指定のスポーツバックをかけ直しながら、最後 に私は少しでもと気合いを入れる言葉を口にした。そして、一歩を踏み出すべく、うし ろになる右足に力をこめる。  そんな私の耳に――  「美しいお嬢さん――」 初めて聞く台詞が飛び込んできたのだった。  声は、明らかに私の真うしろから飛んできていた。視界の中に、他に『お嬢さん』と 呼ばれるような人も見あたらない。  (私――か?)  『美しい』という言葉が自分に向けられることに対して、特別自信があったわけでは なかった。かといって、不釣り合いと思っていたわけでもない。  鏡で見た自分とクラスメートを比べると、容姿としては何人かには負けるかもといっ た感じではある。身なりにだって、それなりに気を遣ってもいる。  とはいってもそれは、男性の気を引くためではない。もちろん視線を意識してのこと ではあるが、一人の女性として恥ずかしくない姿でいようとしているだけのことだ。色 恋沙汰を求めているわけではない。  恋愛に関していえば、どちからかといえば苦手な方だと思う。未だに経験がないので なんとも言い難いが、実際に恋をしたら相手の前ではろくに話せなくなりそうだと、自 分では思っている。そういう相手ではなくとも、男性と話している間は変に緊張してい る自分に気づいている。  だから、メイクにしろ態度にしろ、男性からの興味を跳ね返すようなものにしている つもりだ。表情はキリリと、雰囲気は凛と。誰にでもついて行きそうな女には、間違っ ても見られないようにしている。  おかげで、平日の昼間に出歩いていても、変な声をかけられたことはない。もっと も、普段行く場所で声をかけられる危険性のありそうなところといえば、映画館ぐらい ではある。  だから――無視をすれば良かったのだ。  たとえ刺を含んだものであっても、返事なんてするべきではなかった。気づいていな いかのように、歩き始めればよかったのだ。  なのに上げようとしていた足を止めてしまった理由は、担任の呼び出しに苛ついてい たからかもしれない。ただでさえ無理解な対応に気分が悪くなっていたところへかけら れた言葉に、思わず頭が熱くなったのだと思う。  ――とっちめてやる。  自分でも気づかないうちに、一瞬だけでもそんな想いに駆られてしまったのかもしれ ない。  「はい?」  ともかく、たっぷりと嫌味を込めた視線とともに、私は声の方を振り返った。  「こんにちは。良いお天気ですね」  そこにいたのは、浅黒い肌の男だった。歳は――ハッキリとはしないが、いい大人と いって良いだろう。攻撃的な私の意思を、余裕とも取れる微笑みで受け流していた。  しかし、なにより私を驚かせたのは、微笑む男の耳が尖っていたことだった。しか も――ハッキリと長い。じっくりと比べて見る趣味などなかったが、あれほどであれば 個体差ということはないだろう。神族ではないようだ。まして人間ではありえない。つ まり――魔族。  (こいつ――)  最悪とも言えるタイミングでの遭遇で、頭の中に熱い物が更に上っていった。徹底的 にやり合ってやろうと、身体を完全に回して迎え撃つ態勢を取る。  「この辺りの方でしょうか?」  慣れているのか、男の足取りは澱みなかった。慌てる素振りも見せず、ごく自然に距 離を詰めて来る。  「な・に・か?」  自信ありげな態度にも嫌気が差して、近づいてくる男に聞いた。口調にも視線にも、 さっきよりも強く、これでもかと言うほどの悪意を込る。立ち止まる前に聞いたのも、 悪意の一環だ。  「お恥ずかしながら少々迷ってしまいまして」  それでも、男はどこ吹く風だった。まるっきり典型と言っても良さそうなベタな台詞 を吐きながら、柔らかく微笑む。  そして更に近づいてきて――止まらなかった。残り一歩の線を越えて、爪先同士がぶ つかりそうなところに男の靴が置かれる。  (――っ?!)  意識していなかったが、男はかなりの長身だった。細身ではあるものの、間近になっ てしまった胸板は痩せてはいない。むしろ無駄のない体つきだ――。  「案内をお願いしたいと思ったのですが、せっかくならば美しい女性にしていた   だきたいと思いまして――」  言いながら、男は少し腰をかがめた。見上げるようになってしまっていた私の視線 が、ちょうど男の瞳の中に吸い込まれるように捕らえられる。  「なっ……」  全く予想をしていなかった行動に驚いて、私は思わず上体を軽く反らした。同時に、 熱が頭から逃げ出すサァっという音が、耳ではなく意識に滑り込んでくる。  抗議の声は――上げられなかった。  半歩仰け反ったのを最後に、手足はおろか喉の奥までもが言うことを聞かなくなって いたのだ。  「――ふむ。やはり」  代わりとばかりに、男の声が私の心臓をさらに圧す。その圧力が、髪の毛の合間にじ とりと汗を滲ませてくれた。  ――失敗した。  思考回路は冷静さを取り戻していた。速いだけではなく不規則な気味の悪いリズムで 打つ心臓から送り出されている波が、頭に上っていた血を追い立ててくれたのだと考え て良いだろう。  でもそれは、決して手放しで喜べることではなかった。長いモノに睨まれてしまった 蛙が状況を把握したところで、できることといえば怯えることだけだ。  「背伸びをする女性は素敵ですが、もう少し力を抜いても良いですね。   貴女には、そちらの方が合うのではないでしょうか?」  余計なお世話――だとは思っていても、ゆっくりと伸びてくる手を避けることもでき ない。  「ほら。せっかく、笑顔が似合う綺麗な瞳をしているんですから」  撫でるように前髪を横に攫われて、更に奥の方まで瞳を覗き込まれた。視線に晒され た私の内側が、すぐさまチリチリと悲鳴を上げ始める。  (ちょっ、なにこれ――)  止まらなくなってしまっている鼓動は、どうすることもできなかった。理解不能な状 態に、ノンストップで引きずりこまれている。  だけど、理解不能なのは私自身の心であって、状況なわけではない。状況は――十分 過ぎるほど理解している。こういうシーンが出てくる映画だって、片手では数えられな いぐらい見てきて――そうだ、帰ってから見ようとしていたやつも、そんな感じのだ。  だから、今の私が恋――それも一目惚れというやつに近い――に落ちる寸前にまで追 いつめられているのは、困ったことに認識できている。もちろんそれは私の望むところ ではない。ましてこんな突然声をかけられた男に迫られた挙げ句になんて、10分前の 私が見ていたなら横目で嘲笑うに違いない。  でも――やっぱり私は動けなかった。指一本――それどころか声の一つもあげられな いでいる。  いや、声ぐらいは出そうと思えば出るような気はする。それでもなにも言えなくなっ てしまっているのは、もう既になにを言ったら良いのかを見失っているからだ。そう ――止めてと言いたいのか、それとも他のなにかを言いたいのか。  頭の中には、映画のワンシーンとしてはかなりありふれた部類に入る映像が、渦巻く ように回っている。  期待――なんてしてるはずはないと思う。確かに状況は完全に陥ってしまった。今の 状態と距離は、見ている人がいれば誰であっても、そういうシチュエーションに見てし まうだろう。実際、当事者である私の頭には、その光景が溢れかえってしまっているの だから。  あんなことをされて始まる恋なんて、現実にはあり得ないと思ってる。まだしたこと はないけれど、それがどういう意味を持ってすることかは知っているつもりだ。少なく とも初対面で、しかもなかば無理矢理になんて、心証を悪くするだけのものだと思う。  なのに――頭のどこかで変なことを考えてしまっている私がいた。視線から逃げるこ とができることがわかっているのに目を閉じられないのは、きっとそのせいだ。  「ふむ……」  突然。  しばらく硬直したままの私を覗き込んでいた男が、小さな呟きとともに、ふっと視線 を離した。前髪からも手を離して、自分の顎に当てる。  (え――?)  解放されたはずの私は、なのに彼の仕草を目で追うだけだった。身じろぎができたわ けでもなく、さっきまでとは逆に私の方から男を見つめるような形になる。  「やはり……そうなのですか。あまりに情熱的過ぎるので、さすがにどうかとは   思っていたのですが――郷にいれば郷に従えとは、こちらの世界の諺ですか。   それであればしかたないですね」  独り言で始めた言葉の最後の部分だけを私に投げかけて、また男が微笑む。その柔ら かさは、ついさっき私を騙した柔らかさと比べても良さそうな柔らかさだった。  「失礼、お嬢さん。まずは――」  そう言うと、男は再び身を屈めてきた。それも、こちらはさっきとは比べものになら ないぐらい滑らかな動作で、私の顎を指で持ち上げて――  (んっ……!?)  気付いたときには、左の目の前には閉じられた男の目蓋があった。反対側では、何に も遮られることなく、まっすぐに真っ青な空を見る。私のから少し外れたところに息の 止められた男の鼻が軽く触れていて――口は、男の同じ部分で塞がれていた。  (んんんんっ!?)  押し付けられた唇の感触が、私を縛り付けていたものを吹き飛ばしたのだろうか。そ れとも、あまりの衝撃が緊張なんかする余裕を弾き飛ばしたのだろうか。一度は去った はずの危機に飲み込まれたことを認識した身体に、とたんに力が戻った。  全力で叫びながら、身体ごと顔を背けようと自由になった全身に力を込める。  けれど――  (なにするのよ――っ?) 私の耳に届いた声は、わずかなうめきだけだった。  いつの間にか腰を搦め捕っている腕と、顎に添えられたままの手に、私の自由は完全 に奪われていたのだった。――今度は、物理的に。  しかも。  不用意にも開いてしまった唇の上を、なにか温かな――いや、明らかに男の舌だ―― が、ぬるりと生々しい感触を残して奥へと滑っていく。  (なっ、なに――ぃっ?)  突然の侵入に驚いた私は、もう一度身体をよじって逃げようとした。反射的にとでも いうべき動作には、さっきよりも大きな力が入っていたと思う。それに、今度は瞬間的 にではなくて、続く限り力を込めた。  でも――やっぱりだめだった。男の腕は、そんな私の動きさえも完全に封じてくれて いたのだ。  身体からあがり始めた悲鳴に負けて、縮めていた筋肉を弛める。燃焼に使われて酸素 が足りなくなったせいで、頭には軽く靄がかかり始めていた。  呼吸がしたかった。でも、口はふさがれている。もう一つの吸気口は自由になってい るけど――ゆっくりと空気が舞わないようにしか、使いたくなかった。  そんな私をあざ笑うかのように、頭の靄は身体からどんどんと力を奪っていく。  (っんぅ!!!?!)  そこへ、侵入物の動きが変わった。  さっきまでの直線的な浸食ではなく、内部の全体に広がっていくかのような動き。頬 の裏や、上側や下側。それに、歯と歯茎までも。  そして、一通り私の中を探り終えたあと。まるで最後まで残してあったとでも言わん ばかりに舌の先が唇の上にまで戻されてから――もう一度まっすぐに舌が入り込んでき た。  抗うこともできずに一番奥で竦んでいた舌を絡め取られて、私の身体がびくりと内側 へ縮む。  (――っ)  それを続けられたときの結果を瞬間的に感じて、私は舌を逃がした。けれど口の中は 大して広くなくて、あっと言う間に捕らえられる。すると、またなにかが背筋を通り抜 けていって――私の身体を縮ませた。それも。自ら顎を上げてしまうような形に。  それから――どのくらい時間が経ったのだろう。  「ふ……んっ……」  とっくに鼻からの息は止められなくなっていた。それに――  「ぁ……はっ――んぅ……」  頭の中は真っ白だった。  ときどきは離されるようになった口からも、細切れだけど呼吸はできるようになっい た。けれど、酸素不足だったさっきまでよりも、さらに濃い白が広がっている。  身体の力は、完全に抜けきっていた。内側への収縮も通り過ぎて、自分と相手との境 界さえもわからなくなるほどに広がっていってしまっている感じがする。  力が抜けているのは、男の腕も同じだった。私の身体はとっくに自由になっていて、 おかげで身体を寄せることができてしまっている。  「んくっ……」  舌を伝ってきた温かいものを、喉の奥に流し込んだ。もう何度目になるかわからない その液体は、なんのひっかかりもなく私の中に入っていった。  自分がなにをしているのか、正直なところ良くわかっていない。ただ、こうして抱き 合っていたかったし、このまま舌を絡ませていたかった。いや、続くのだと疑っていな かった。私の心は熔けそうなくらいに甘いもので溢れそうになっていて、乾くことを拒 んでいる。  「――ぁ……」  「おっと」  だから、男の顔が離れても、私は自分の足で立とうとはしていなかった。腕が外され て腰から崩れ落ちる私を、男の腕がもう一度支える。その腕に引き寄せられるように、 私は男に寄りかかった。顔を胸に埋めるようにして。  「大丈夫かい?」  「ぁ……ぇ……?」  聞こえてきたのは、胸からだった。空気を通すことなく鼓膜に伝わる振動に、ただで さえおぼろになった思考がぐらぐらと揺れる。  「気分が優れないようならば、どこか休めるところを探しましょうか――」  『――――はい』  ほどんど考えることなく、私は反射的に答えようとした。少し遅れたのは、迷ったの ではなく問いかけられていることに気がつくのに遅れたせいだ。  けれども、  「なんだい? 無粋じゃないかい?」  優しい声に引き込まれるようにしようとした返事は、違ったトーンの声に割り込まれ た。どうしたのだろうと、私は頬をつけたままで顔をあげる。  男の視線を追うようにして向いたうしろには、同じように耳の尖っている黒服の男達 が立っていた。  「しかし……――様の居所がようやく……」  そのうちの一人が、言い訳がましい口調でなにかを言う。けれど、私の耳が馬鹿にな ってしまっているのか、それとも話す声が小さいのか、内容は良く聞き取れない。  「ふむ……そうか……わかった。――お嬢さん?」  「は……い?」  急な振りについていけないまま、私はぼんやりと返事をした。きっと顔は上気してい て、目は潤んでいるだろう。少なくとも、普段の私が見たらだらしないと思うくらいに は。  「申し訳ないですが、急ぎの用ができてしまいました。家臣を一人つけて行きま   すので、具合が悪いようならなんなりとお申し付けください。――君」  「はっ」  「このお嬢さんの面倒を頼む」  「わかりました、殿下」  「それでは――っと、またお会いできたときには、お礼をさせていただけると嬉   しいですよ」  背後に近づいてきた黒服の一人に私の身を預けて、男がすっと離れる。  「あ……」  そして、私がなにを言うこともできないでいる間に、残りの黒服を連れて歩き始め た。ただ一人、肩に手を置いているのを除いて。  「大丈夫ですか――」  そのうしろ姿をぼーっと見送りながら私は、かけられる言葉をただ聞き流していた。 次第に晴れていく靄を、淋しく感じながら。                ■      ■                「――ばっちりと振ってやるんだがな」  呟きながら梳き上げた前髪が、さらさらと戻ってくる。  あの日以来、美容院に行ってもカットを頼んでいない。肩に着くか着かないかで切り そろえていた当時と比べて、随分と長くなった。  別に――意味などない。単なる心境の変化というか、実力で鳴らす女として相応の姿 を目指したというか、そんな事を考えて始めたのだったと思う。間違っても、『綺麗』 という言葉に似つかわしくなるためではなかった。両手で裕に余る男達から言われるよ うになったのは、あくまで結果だ。  だから、もう一度アイツに声をかけてもらえるように、なんてためではない。確かに もう一度を望んではいるが、意味は正反対だ。無惨なほどに冷たくあしらわれたとき に、あの自信たっぷりのニヤニヤ顔がどう崩れるかを、いつか見てやろうと思っている だけ。  なにせあの数分間は、これまでの私の人生の中で、一番の汚点ともいって良いものな のだ。今思い出しても、身の毛がよだつほど恥ずかしい。  「それだけ──ならまだしも、な」  私がアイツの正体を知ったのは、その日の夜のことだった。食欲なんて全く湧かない まま、母親に叱られて着いた食卓で、だ。  いつもならばニュースをやっている──あれもニュースの中の一コーナーだったのか もしれないが──テレビの中で、アイツはにこやかに喋っていた。  『初めまして、人間界の皆さん』  隣に──もう幼いとは言えない女の子を従えて。その子に重ねられていたテロップの 白い文字の頭二つは、『王女』を模っていた。  『私が魔界を統べる王である──』  覚えているのは、ほんの何粒かづつのご飯を口に運んでいた箸が指から滑り落ちたこ と。恐らくは粗相を怒られたのではないかと思うが、それは全然覚えていない。そんな 余裕は、そのときの私にはなかった。  王女──つまり、娘。  そのことが──いや、そこから導き出される一つの事実が、私の頭をグルグルと回っ ていた。なのにどうして、と。  けれど、それはほんの数分間だけのことだった。混乱したままの思考で食い入るよう にテレビを見つめている間に、その答はもたらされたのだ。  『えっ──ちょっ!?』  きっと、テレビを見ているほとんどの人が予期なんてしていなかった。同じ被害者で ある私ができなかったことが、誰に予想できるだろう。  ──とにかく。インタビューかなにか、自己紹介が終わったマイクを持って近寄った アナウンサーに対して、アイツはなんの前触れもなしに間を詰めたのだ。  『……んっ』  一瞬の狼狽えのあとで塞がれたアナウンサーの口から漏れたのは、鈍い甘さを帯びた 呻きだった。始めは驚いたように離れようとしていた彼女の動きが次第に弛むのを、私 は悪いなにかを見るように眺めていた。昼間、自分がどうなってしまっていたのかを、 しっかりと思い知らされながら。  「ったく、ふざけんのも大概にしろってんだ」  思い出して、つい文句が口をつく。あのアナウンサーにとってあれがどれだけの意味 を持っていたのかは知らないが、もし私と同じだけの意味を持っていたならば、同じよ うに文句が出るだろうと予想がつく。  なぜならば──  『それにしても、なんとも情熱的ですね。こちらの挨拶は』  それが、私の驚きが怒りに変わるまでというたっぷりの時間ののち、アイツが全世界 に向けて放った一言だったのだ。それも、なんの悪びれもなく、しれっとした顔で。  あのときの口調と態度からして、おそらくは本当に知らなかったのだろう。私とのあ と、その場に至るまで間違いに気づかなかったのは信じがたいことであるが、演技だと すれば三国どころか三世界一の役者と言ってやってもいい。驚くようにしてたしなめ た、娘の方も含めてだ。娘に知識――しかも異文化についてのそれは、まっとうな王と しては必要なはずだ――で負けるようなヤツに、そんな才能が備わっているとは思えな いが。  ともかく、奪われてしまった私の初めてのキスは、アイツにとってはただの間違いだ ったのだ。それも、単なる挨拶のための。  もっとも、ただそれだけのことであれば、恨むようなことではない。白昼堂々と恥ず かしい姿を晒してしまったことも、全世界ネットでへたり込んだアナウンサーに比べれ ば大したことはない。  が。  「ふ、ふふふふ……」  昨日の帰り際に突然校長から言われたことを思い出して、私は恨みのこもった笑いを 浮かべた。自分でも怪しいと思えるほど、暗い悦びに満ちた声だ。  「あのときの娘、ね」  もちろん彼女自体にはなんの恨みもない。アイツに間違いを教えてくれたのだから、 感謝をしても良いくらいだ。だから、いくらアイツの娘だからと言って、あの娘――厄 介の押しつけとばかりに校長から渡された書類によれば、ネリネという名前らしい―― 自体をどうしようというわけではない。これまでと同じように、一人の生徒として扱う つもりだ。逆に王女扱いをするつもりもない。  だが、それでも。  担任となった以上、チャンスは山ほどあるはずだ。家庭訪問――は無理かもしれない が、いくらでも理由をつけて呼び出すことはできるだろう。王とはいえ、その責務をほ っぽり出して自ら転入手続きをしにくる親バカさからすれば、四の五の言わずに応じる はずだ。昨日、その場にいられなかったことを悔やむ必要もない。  「人生、案外捨てたモノじゃないな」  そのため――と言ってしまうと、かなりの言い訳にはなる。  教師になったのは、結局のところ文化人を気取るだけで食べていけるほどに世界は甘 くないと悟ってしまっただけだ。卒業後さらに一年の時間を流したあとで最終的に私が とった進路は、なんの変哲もない進学と言う道だった。そうして、教師なんていう考え もしなかった職に就いていたりする。  別に選んだ理由なんてない。まとめていくつか受けた学部のうち、合格の通知をくれ たのが教育学部だっただけだ。一応それなりには通っていた学校の名前を、私は受け入 れたのだった。そのあとは――単なる惰性。  なんとか採用に漕ぎ着けることができたのは、大学の名前に依るところが大きかった のだろうとは予想がつく。なんだかんだ言って、結局は学歴のお世話になってしまった というわけだった。もちろん、採用の面接で猫をかぶることは必要だったが。  だから、私のような犠牲者を増やさないためだとかいうことは、バーベナ学園の募集 に応募するときに思いついたことだ。なんの理念があったわけでもないし、ましてやこ んな展開を考えてのことではない。  けれど、結果的としてこうなるのであれば、それはそれで運命とやらに一定の感謝を しても良いのかもしれない。アイツと出会わされたことをチャラにできるほどではない が、お詫びとしてはそれなりに納得してもいい。  もちろん電車の中でのことのように、私がこうして教師をやっていることで防ぐこと ができる不幸だってある。あのとき奪われた私の諸々が全くの無駄ではないことを、感 じてもいる。  だからこれまで、そこそこの充実感がなかったといえば嘘になる。嘘にはなるが―― それでも、このチャンスは願ってもないものだ。  「さて……ふんっ」  どうしてくれようか――と考えようとして、私は頭を振った。  今朝からずっとなこの調子が、どうも気にくわない。いくら仕返しのためとはいえ、 いつのまにかアイツに頭の中を支配されていのだ。しかも、どんなに気分が悪いと思い こもうとしても、どうにも上手くいってくれない。どこかざわめく心を沈めようとして も、気がつけば反対に浮き上がってしまっている。それも、その浮き上がり方は次第に 大きくなっているようにさえ思える。  「まあ、仕方ない――か。ようやくだからな」  だから、私は答えをそこに求めることにした。  ようやく晴らすチャンスが近いのだから、多少の悦びは仕方ないのだと。それほどま でに、私の積年の恨みは深いのだと。  そう。あのとき奪われた唇の恨みは、今でもなんら変わることはない。初めてだった 当時ならばともかく、何人かの男と年相応の関係を持った今では、嫌な思い出程度にな っていて然るべきだと思う。だが、むしろ色々と知った今だからこそ、より強くなって いるほどだ。  正直なところ、それがいつだったのかはわからない。絡みとられていた舌からジワジ ワとだったのか、そもそも目を合わされた瞬間にだったのか。  それでも、アイツが私になにをしたのか――それだけは確かだ。  「……なんにせよ、さっきの子が無事でなによりか」  そのへんのチンピラレベルならば、大したことはないかもしれない。最近の子であれ ば、慣れている分だけそれなりの耐性もあるだろう。少なくとも、そんな卑怯なものが あるだなんてことを知らなかった私よりは、ずっと強いのだと思う。担当の同僚に聞い た話だと、気構えのあるなしだけでも全く違うらしい。  それに、この八年の間に被害が騒がれないことからすると、実はそれほど一般的なも のではない可能性もある。確かに、そうそう出回られてしまっては、魔界だって困ると いうものだろう。ともすれば、使えるのは極めて一部――もちろん相当の権力者だろう ――だと考えることもできる。  が、だからと言って安心してはいられない。たとえ可能性は低くても、とんでもなく 高い危険性と掛け合わせれば十分に警戒に値する。  なぜなら、普通に考えればありえないのだ。いくら不意の侵入を許してしまったとは いえ、キスだけでなど。いくらアイツが巧くて、慣れていなかった私が引きずり込まれ たのだとしても。他の人はともかく、少なくとも私には確実に。  実際に試してみた結果なのだ。たとえそれ以上の行為であっても、あんな無様な状態 になることはないのだと。良く言われる身体に引きずられるだなんてのは、世迷い事に 違いない。あんな嘘みたいな心地に、なるわけがない。  舌が特別に私の弱点でないことも確認した。キスが巧かった男は他にもいたし、確か にその気にはさせられた。けれど、いつだってその場限りのものにしかならなかった。 ひとたび酔っている雰囲気から醒めてしまえばなくなる、刹那的なモノ。  心の底にへばりついたようにいつまでも燻り続けるなんて、ありえるわけがないの だ。  だからこそ、やはりありえないと断言できる。絶対的に。  だから、許せない。  ありえないのならば、私の身に舞い降りたあれを説明するすべは、一つしかない。  すなわちあれは真っ当は手段ではなくて、私たち人族の理屈では説明できない――  「……いや、呪い――の間違いだな」  再び浮かれ始める心に堪えかねて、私は術者に相応しい名前を呟いた。八年ものあい だ私を悩ませている、忌々しいモノものの名を。押さえ込んだり振り切ったりしたつも りでも、なにかの弾みに顔を出すものを。  なにせアイツは、魔族の中でも最も禍々しい存在であるはずなのだから、と。  「あっはっはっはっはっはっはっはっ」  「あっはっはっはっはっはっはっはっ」  不意に、どこからか男の高笑いが聞こえてきた。それも、二つ。  そのうち一つは、間違いなく聞き覚えのあるものだった。また性懲りもなくナンパで もしにきたのだろう、緑葉の声だ。  そして――もう一つ。  そっちも聞き覚えのある声だった。  いや、あるように思えただけだ。自信はない。  忘れているかもしれないし、そもそも記憶していた覚えなんかもない。  ただ、それでも。  心に底にへばりついていたあれが、急にうずき出したのだ。いままでにないくらい に、力強く。  「――――っ?!」  慌てて笑い声の方を向く。そして、目を疑った。  今度は――自信がある。  そこにいたのはもちろん緑葉と、声は聞こえなかったが土見と――アイツだ。  声は記憶になかったが、顔はちゃんと覚えている。  いや、忘れることなんてできなかった。あの憎たらしい自信に満ちた顔は、たとえ忘 れたくても忘れられなかっただろう。  (……っと――)  一瞬呆けていた自分を取り戻して私は、なにやら話し込んでいる三人をひとまず眺め ることにした。どうしようかと思考を巡らせる。  割って入っても良いが、アイツが私を覚えていたらと思うと迷いどころだ。万に一つ の可能性もないと思うが、もしそうだったとしたら、なかなかみっともない状況だろ う。ともすれば、再会を心待ちにしていたように思われるかもしれない。  もちろん、そんなのは願い下げだ。そこまでして、今日この場でなにがなんでもとい うわけでもない。どうせこの先いくらでも会う機会はあるのだ。  「こっちだ、こっち」  だから、気づけとばかりに口元で声をかけるだけにした。たとえ長い耳が音を良く集 めたとしても、届くはずのない小さな声で。気づいたら、この場で相手をしてやろうと 思いながら。  とたん――アイツの視線がちらりとこちらを向いた。一瞬だけ合った目に、思わず心 が鳴る。  (ちっ……)  気味の悪い鼓動を、舌打ちで打ち消す。  「さっさと来やがれってんだ」  そしてもう一度、さっきよりは大きく、それでも聞こえる筈のない大きさでアイツを 呼んだ。  またもや言葉に応じたかのように、アイツはなにかを言い残して緑葉と土見に背を向 けた。  「お、おじさん待ったっ! それはヤバ……」  私のことを確認した緑葉から、声を上がった。が、その手を交わしてアイツはこちら に向かってくる。ニヤニヤと浮かべている微笑みからすると、どうやら私に狙いを定め たらしい。  身体の内側で胸を圧す力が、また少し強くなる。負けじと、押し返すように心に力を 入れる。  「ふ、ふふふふふふ……」  込み上げてくる感情が、武者震いとともに口から漏れた。いよいよの日が来たのだと 思うと、笑いが出てしまうのも仕方ないのだろう。  ただ――今日のところは、あまり長期戦にするのは良くなさそうだ。  きっと、久々に見てしまった夢のせいだ。ここ一年は見ていなかったあの日の夢のせ いで、いつもよりも呪いの効力が強まってしまっているのだろう。そのぶんだけ私の機 嫌も悪いのだから差し引き0だと思うが、大事を取るに越したことはない。二度目の過 ちなど、考えたくもない。  「美しいお嬢さん――」  いつか聞いたお決まりの台詞が、目の前で繰り返され始める。  涼しい顔をして聞く手の中には、じくと汗が滲んでいた。けれどそれは、六月にして は良く晴れた今日の、爽やかな日差しのせいに違いない。 ... to start of SHUFFLE! story. ==============================================================================              SHUFFLE!は Omegavision の著作です。              けもりん は Omegavision とは一切関わりはありません。 ============================================================================== ------------------------------------------------------------------------------  けもりん   URL http://www2.tokai.or.jp/kemo/   mailto kemorine@tokai.or.jp  無断での転載はご遠慮くださいませ〜。……念のため。(笑 ------------------------------------------------------------------------------ ○題名の Meaningless Reason は、回りくどい「言い訳」の意訳のつもりです。  書き始め当初は Meaningless Dejavu だったんですが……どっちの題名の方が良かっ  たかなぁ。  テーマは「言い訳」方なので、Reason にしてみました。