First Attack
〜BLESSサイドストーリー〜
〜坂本レナ〜
シャキン――
ステンレスの噛み合う軽い音が、左の耳元で鳴った。
ヂャギッという、圧力に負けた髪の毛が上げる断末魔も一緒に聞こる。
目の前の鏡の中に、アンバランスな髪の長さをした私が映っている。
膝の上には、マガジンラックから無雑作に引き抜いてきたファッション雑誌。
開きもしない表紙の上においた手で、外した髪止めの黒いゴムを遊ぶ。
――見慣れない顔。
鏡に映る自分を見て、私はそう思っていた。
元々、鏡の前に座り込むようなことをする方じゃない。
せいぜい出掛けにチラッと見て、変じゃないかを確かめる程度。
美容院だって、前に来たのはいつだったろうかと考えなくてはならない程度
にしか来ない。
だって、必要なかった。
興味だって。
少しぐらいまとまりが悪くたって、編んでしまえば同じだった。
それに、いつもはぼんやりとしか見ることはない。
あるいは、華やかさなどまるでない眼鏡をかけているか。
――良い?
鏡の中からそう問いかけてくるのは、既に変わっている左側の私。
――後戻りは出来ないんだからね?
それを受け取るのは、右側の私。
変わることにまだ躊躇いを覚えている、鏡の外の私。
――そのために、コンタクトにだってしたんでしょ?
なけなしの……というわけではないけど、貯金を取り崩したコンタクト。
清水の舞台から飛び降りたつもりで眼科に飛び込んだのは、つい先週のこと。
つけ始めたのは今日。
痛みに似た違和感があるのは。まだ慣れてない所為だと思う。
見え方が違うからか、首の後ろも今日一日で随分と凝ってしまった気がする。
――プリムローズちゃんを見習いたいんでしょ?
『プリムローズ』
説得を続けているのが彼女であることを、私は自覚していた。
(変わりたいんでしょ?)
もう一人の私。
人の前ではロクに話すことも出来ない私が作り出した、『Masquerade』
───町内ローカルネットワーク中の出会いチャット───での私。
きっかけは失恋だった。
初めて好きなった人が恋人を見つけたチャットという世界を、壊してしまい
たかった。
もちろん逆恨みも良いところ。
『Masquerade』が同じチャットであるだなんて思ってなかったし、
万が一そうだったにしても。チャットの所為ではないことはわかっていた。
だから、滅茶苦茶なキャラクターで場を白けさせてしまおうなどというのは、
本当に完全な逆恨み。
始める前から惨めに感じていた。
だけど、結局今も続けている。
自己嫌悪に陥りながらも八つ当たりをしているうちに、楽しくなってしまっ
たから。
皆と言葉を交わすこと自体が。
確かに嫌われ者になっていると思ってる。
私だって、こんな人がいたら嫌いになると思う。
自分でタイプしたコメントを見ていて、気分が悪くなるときだってある。
でも、それは私が望んだことなのだからしょうがないし、それで良い。
だって、あの場での私ならば、あんな軽口を叩くことができるのだから。
話の中に踏み込むことが出来るのだから。
実際には、クラスの中でもほとんど話ことさえも出来ないのに。
シャキン――
音が真後ろからやや右側に移る。
(やっぱり、良かったんだよ)
今度は、右側の私が話しかけてきた。
(少しだけど、明るくなれたと思うし)
姿の変化は、まだ頭に隠れるところまでしかきていない。
(立ち直れたし)
相手は、右側の私自身。
――プリムローズちゃんのお陰なんだから。
左側からも茶々が入る。
(新しい恋、出来たんだし)
考えもしていなかったものが生まれたのは、4ヶ月ほど前だった。
今年の夏一番だった暑さに耐えかねて、アイスコーヒーをたかりに行っ
た日。
お兄ちゃんのお店のドアに手をかけたままで、時間が止まってしまった
とき。
一目惚れだった。
紙袋を片手にしたお兄ちゃんに不意に声をかけられるまで、左奥の窓際
の席に見入ってしまっていた。
視線の先に気がついたお兄ちゃんの、「ひ・で・あ・き・だぞ?」とい
うニヤついた声が今でも忘れられない。
必死に否定したけど、もちろんそんなものは無駄だった。
「紹介してやろうか?」
変わらずにニヤニヤと笑いながら扉を押そうとするお兄ちゃんに、慌て
て背を向けて走り出すことしかできなかった。
自分の感情も良くわからなかったし、知らない男の人と話すなんてこと
ができるとは、とうてい思えなかった。
けど、おかげで知ることができた。
名前と――この街にいる理由を。
帰ってきた後で、お兄ちゃんが話してくれたのだ。
彼が――幼馴染みを探しに、この街に帰ってきているのだということを。
そして、つい一ヶ月前の『Masquerade』。
(それに、見てるだけじゃなくなったんだから)
新しく加わった、『探求者』さん。
幼馴染を探しているというその人の言葉に、キーをタイプする指が震えた。
いつもの調子で軽口を叩くことを躊躇った。
自分から嫌われようとすることを躊躇った。
即座に回線を切ろうかとも思った。
だけど、次に私のとった行動は、プリムローズとしてのものだった。
プリムローズとしてのコメントを打ち込んだ。
それが『Masquerade』での私だったから。
自分の望んだこと。
それ以外の何物でもない。
今更戻れるとは思わなかったし、戻ったらチャットの輪の中に踏み込むこと
ができなくなると思った。
人との会話を楽しいと思える場所を、失いたくなかった。
だからその日、ディスプレイに映されていく滲む文字を必死に追った。
秀晃さんの世界に、私を生まれさせるために。
――シャキンシャキン
音が続く。
左右の長さは、既に揃っている。
「短いのも、お似合いだと思いますよ?」
美容師のお姉さんが、優しげな笑みを浮かべながら話しかけてきた。
お店に一人だけいた女性の人にお願いしたのは、男の人に髪の毛に触れられ
るのには、さすがに抵抗があったから。
「そう・・・ですか?」
「今までより随分と華やかなイメージになると思いますよ。今までのが、ち
ょっと大人し目でしたしね」
「ありがとう・・・ございます」
お世辞半分なのだろうとは思ったけど、素直にお礼を言った。
似合わなかったらどうしようかと、本当は少し怖かったから。
たとえその言葉がお世辞だとしても、不安を払うぐらいの材料にはなる。
「イメージチェンジ、ですか?」
「……はい」
少しの逡巡の後で、私は正直に答えた。
そして少し迷ってから、もう一言を添える。
「クリスマスに備えて」
ちょっとした決意表明だった。
言葉の意味を捉えてくれるかはわからなかった。
それでも、この人にも知っておいて欲しいと思った。
土壇場になって、逃げ出したりしてしまわないように。
逃げ腰な私を、しっかりと追い払えるように。
決心をもっと固めるために。
今まで逃げるたびに握り締めていた二つの編み込みは、なくしてしまった
のだから。
「あ、もしかして……?」
ピンと閃いたのか、お姉さんが微笑みながら問いかけてくる。
意味ありげな視線は、その閃きがきっと間違ってないことを示している
と思う。
だから私は――その言葉に黙って頷いた。
鏡の中の二人と一緒に。
はじめて話しかけるための勇気を確認するかのように。
当たって砕ける覚悟を決めるために。
イブまであと二週間の日。
店内には、流行のクリスマスソングが流れていた。
To be...
BLESS はBasiLの著作です。
BasiLは、当方とは一切関わりはありません。