「もう少し待ってよー」   「なに言ってるんだよ。お前に付き合って、こんな退屈なところに来てやった    んだからな。後はオレに付き合うって約束だろ?」   「あ、ねえってば!」  少女の言葉に耳を貸すことなく、少年は出て行った。机の上の本と少年の背中を二度 三度と見比べた後、少女は本に謝るようにお辞儀をして少年の後を追う。  行き先は公園だろうか、それとも校庭だろうか。どこにしても、きっと外で遊べると ころなんだろう。少女が広げた本を退屈そうに眺めていた先程からの様子からすれば、 あの少年はとても腕白に違いない。図書館という場所が似合うようには、わたしにも確 かに思えない。  やれやれと思いながらも、テーブルに置き去りにされた本へと近寄った。なにもわた しが片づける義理なんてないのだが、しても罰はあたらないだろう。居合わせたのだ し、乗りかかった船だ。  チラと見回すと、他にも一人二人と子供の姿が見えた。図書館とはいっても、所詮は 公民館に付属している図書室。たいした蔵書はない。児童書と図鑑。どちらかといえば 子供向けの本が中心になっている。さっきの二人もそうだろうが、同じ建物にある学童 保育所に通う子供たちのために作られた側面もあるのだと思う。  しかし、いくら中央の大きなテーブルにある20程の席が全てだとはいえ、もう少し 人がいても良い感じがする。最近の子供は、あまり読書をするという習慣がないのかも しれない。最近の子供たちは──などと思ってしまうのは、歳をとった証拠だろうか。 わたしがあのくらいだったのはかれこれ、半世紀にさらに四半世紀を足したくらい前の ことだ。  とすると、あの女の子は結構珍しい部類か。わざわざ他の、しかも男の子を連れてき て一緒に読もうとするだなんて、よっぽどの本好きなのか。わたしもかなり読んだ方だ とは思うが、好きだったかと問われるとなんとも答え難い。どちらかといえば、必要だ ったから読んだというニュアンスに近かったと思う。  それならこれは、あの娘の心意気に免じてということにしといてやろう。どうせ暇な のだ。  机の上に置き去りにされたその本は、ハードカバーだった。表紙の雰囲気からする と、ファンタジー物の小説といった感じだろうか。下げた目に映ったのは、黄緑を基調 にした淡い色遣いの森。そして剣を履いた若い青年。それと──   『 GRANTED VISION 』  その、タイトルとおぼしき、ラスティック体の文字だった。 =============================================================================    Fate/stay night サイドストーリー  『 GRANTED VISION 』                             written by けもりん =============================================================================   『これは、昔々。わたしのお婆さんも、ひいひいお婆さんも。そのまたひいひい    ひいひいひいお婆さんも知らないくらい、遠い昔の物語』  初めの何ページかをパラパラと捲るだけで、「ありふれたお話だわね」と書架に押し 込めてしまうつもりだった。いや、老婆を語り手として紡がれていく物語は、実際ごく ありふれた洋風ファンタジーだ。貧しいながらも騎士を夢見み国を支えたいと願う青年 が、強く賢き王と出会い、側に従うようになる物語。  ハッキリと名前が出て来ているわけではないが、元になっているであろう伝説も使い 古された有名なものだ。王の偉業と悲劇を扱う伝説。わたしも散々読んだ。しかもその 伝説を取り扱った話と聞けば飛びつくように読んだし、もちろん原書だってあたりまえ のごとく読んだのだから、それなりにフリークといっても良い。一番のというつもりは ないまでも、少なくとも最高齢の一人だとは思う。  もっとも、始めからそれだとわかったわけではない。4分の1を過ぎたあたりで、よ うやく気がついた。しっかり読む気がないのにそこまで辿り着いたのは、児童書らしく 字が大きかったのと、1ページの行数も少なかったからだ。思いのほか速く読んでしま った。ただそれだけのこと。しかも、全体のページ数も大したことないせいで、展開が 急でもあった。  本の半ば。王の運命が大きく狂う。妬みと疑念と恐れから、裏切りの憂き目に遭う。 この王の物語としては、ごくありふれたエピソード。書き込みは圧倒的に足りていない が、それは全体の短さからすると仕方のないことだ。  ただ、王の悲劇を描く物語であるならば、これはおかしい。ここが物語の中心になる 筈だ。遠征先から取って返し、国を占拠する反乱軍を鎮圧する。その最中を悲劇的に書 くことが、この本の核となるべきことである筈。少なくとも、わたしはそう思ってい た。この伝説からすれば、そうなって然るべきだ。  だが、まだ残されたページの厚さは3分の1も残っている。それに気が付いた時点 で、心がザワっとした。もしかしたらこれは、この本は、戦いの後の王を著そうとして いるのではないかと。わたしが求めていた物語なのかもしれないと。  そして、わたしは見つける。これぐらいの長さの話として書くのであれば、普通は数 行で片づける部分。いや、なにも書く必要はない。これは、王のというよりは、託され た騎士についてのエピソードだからだ。それも、決して良いものとはいえない。確かに 騎士の視点で物語を描く以上、外すわけにはいかないかもしれないが、それでも核にな どなり得ない部分。  しかし逆に見れば、このエピソードを入れたかったからこそ、騎士の視点で見た物語 になっているのではあるまいか。そう感じて、わたしはページを繰るペースを落とし た。  それは、最後まで付き従った騎士が、三度剣の破棄を命じられる場面。  一度目。    『これは──』  彼は息を飲んだ。還すべく浮かべた剣が、水面に留まったからだ。一向に沈み行こう とはしないそれは、さざ波を立てるわけでもなく、ただ輝きを発するのみであった。  致し方なく、彼は剣を手に取る。剣自身が還りたがらないのか、あるいは湖の貴婦人 が還されるのを拒んでいるのだと思ったが故に。ならば、まだこの剣は王の手に在るべ きであると思ったが故に。  であるからこそ、彼は剣を王の元に持ち帰った。決して惜しんだわけではなく、還せ なかったが故に。  だが、戻った彼は、再び還すようにと命じられる。言い訳を許さない王は、彼に繰り 返し念を押した。王命であると。  そして二度目。  『なっ!?』  彼が見たのは、先程と同じ光景。水面に浮かび、眩く金色の光を湛える聖剣。  ここに至って、彼は思いを変える。先程の考えを改める。聖剣がでもなく、貴婦人が でもない。なによりも今、王自身がこの剣を必要としているに違いないのだと。なぜな らば、剣から零れる光の様は、まるで今まさに王の手に在るかのようであった。  途端、剣の履く光が輪郭を淡く歪めた。切っ先を下にして、緩やかに姿を消そうとす る。  『さ、させるか──!!』  その様を見て、惚けていた彼は弾かれるように柄に手を伸ばした。その腕に襲うの は、認めざる人間に騒がされることを拒絶する貴婦人の怒り。精神と神経を蝕み、絶望 に陥れる魔力の奔流。  だが──彼は怯まない。もう一方の腕どころか両脚までも湖に浸し、全身に怒りを浴 びる。それでも彼は屈しなかった。王が囚われている死の呪いを思えば、この程度は生 温いと思い耐える。剣を振るう王のために一命を賭すなど、これまでにいくらでもやっ てきたではないかと。  かくして彼は、聖剣を水辺から引き抜いた。その手の内、剣が帯びる光気が再び増し てゆく。  『ご婦人。誠に申し訳ないが、剣はもう暫し借り受ける。届け次第戻る故、御不   満とあらば我が身は好きになされるが良い』  そう言い残して彼は馬に跨ると、王の元に疾らせた。一刻も早く、正しい主に返すた めに。  辿り着いた彼を待っていたのは、変わらず大樹の幹に身を預けた王。その目は閉じら れ、上下している筈の胸も鎧に隠されてわからない。だが、彼は王の存命を疑わなかっ た。聖剣の輝きが、なによりもそれを物語っているからだ。夜半を過ぎた森の暗闇の中 を駆け抜けてこられたのは、空に浮かぶ月の銀色と、腋に抱えた剣から漏れる金色のた めに他ならなかった。  未だ眠る王の傍らにかしずいて、王の手に柄を通し包ませる。あどけない甲を覆うべ き銀色の小手は、どこかで失っていた。だが彼は、それを良しと思った。夢の中にいる であろう王に届かせるには、この方が良いと。  (そういえば)  ふと、彼は思った。先程、始めに剣を還せと命ぜられたとき、王は夢を見ていたと言 った。良い夢であったと。それは、いったいどんな夢であるのか。  願わくば、言葉通り幸せな夢であって欲しかった。続きを見ようと目を閉じた二度 は、夢の中にあっても剣を振っているのだから。  ややあって。  霞に淡く広げられていた金色が、剣に収まるように身を引いてゆく。立ち上がってい た彼は、もう一度折った膝を大地につけた。そして、消える光とともに訪れるであろ う、王の目覚めに備える。王の手の内に在る剣が光を消すときは、戦いの終わりが告げ られるときに他ならないことを、数え切れないほど隣で見てきたが故に。   『比度は、佳き夢の続きをご覧でしたか?』  目を覚ました王に、彼は柔らかく問いかける。恐らくは違うのだろうとは思いながら も。   『……ベディヴィエール、か。いや──わからん。はっきりと憶えてはないが、    続きではなかったように感じる。だが……良いか悪いかと問われれば、良い    夢だったのかもしれぬな。どうしてだか良い気分だ』   『それはなによりでございます』  驚きながらも、彼はその返答を心より喜んだ。せめて良い夢を。例えそれが剣を振る う夢であろうとも、良い夢であって欲しい。そう願って、持ち帰ったのだから。例え再 び叱責されることになろうとも。   『して、ペディヴィエール。此は何ぞ?』  王は自らの手に握られたその剣を一瞥して、彼に問う。   『訳あって、再び持ち帰った由にございます』   『王命であると申しつけた筈だが?』   『承知しております。ただ──』   『言い訳は聞かぬとも』  元よりと彼は思う。言い訳などする気はない。これは真実だ。王は始めに言った。見 たことを聞かせよと。ならば、それに従うまでだと。   『ただ、佳き夢の共連れになればと』  彼は彼の真実を王に告げる。それが彼の眼が捉えしものであったが故に。  二呼吸程の間の後。王は手にした剣を上げ、三度彼に命じるのだった。喜びと感謝 を、少しだけ顔に形作って。  そして──三度。彼は湖岸に立つ。だが、彼は気づいていた。今回は還ると。剣に輝 きが宿ることは、もはやないのだと。これ以上、振るわれることはないのだと。そのよ うな夢を見ることはないのだと。差し出されたときの、満足気な王の顔から。  果たして、彼の予感は現実となる。二度の光景が嘘であるかのように、なんの逆らう 力もなく──ただトプンと揺れる音のみを残して──剣は澄む水の向こう側へと墜ちて いく。  貴婦人が現れることはなかった。辺りを覆うのは、穏やかな静寂。彼は水面に向かい 深く一礼し、背を向けた。ささやかなれど、一つの望みが叶ったことを伝えるために。 見る夢が如何なものか知る由はないまでも、最期まで独りであることはないと思うが故 に。  疾る。ただ疾くと願って。自らの全てを祈りに換えて。想いさえすれば届くのは必至 であると感じた故に。  そして、彼は看る。王の最期を、満ちたりた顔で逝く王を。                  ◇◇  「─────っ」  本に降りかかろうと頬を伝ったものを、顎の先で慌てて袖に含ませた。  不覚。全く持って不覚だ。文章も、展開も、なにからなにまで稚拙であるのに。如何 に子供向けとはいえ、到底小説などと呼べる代物ではない。いいや、子供向けならばこ そ、堅苦しい文体は不釣り合いだ。第一、何故タイトルが英語なのか。わざわざラステ ィック体まで使って、無駄なことこの上ない。  作者はズブの素人に違いなかった。風の噂にさえ、小説家になっただなど聞いてない のだ。そんな奴の書いたモノに、ここ何十年来閉じていた涙腺をこじ開けられるなど、 何が許したってわたしが許さない。  だのに意志に反して視界が滲んでいるのは、ここに書かれているモノがなにである か、わかってしまったからだ。知ってしまったからだ。  確証を持って、本を閉じる。紙の束が合わさる軽い音がして、開いていたページに乗 っていた空気が押し出された。  その大気の流れは、吸い込んだままの息を吐き出すのを促すかのようだった。お陰 で、肩の上に張り付いていた悔しさとか怒りとか期待とか喜びとか、とにかく色々なも のが足元に滑り落ちて、なんだか清々しい気分で溜まりに溜まった息を放せた。  そしてわたしは、ゆっくりと、今までの人生よりも長いような気がするほどゆっくり と、嗄れた掌の上で本を裏に返してゆく。  そこには、やはりあった。表紙に描かれた世界の続き、淡く黄緑色の木漏れ日に覆わ れる森の続きが。  しかし、これはどういうことだ。よくもまあ、こんなものを描いたものだ。全く話と 合ってないではないか。白銀に光る鎧はともかくとして、流れるようなブロンドの髪と 奇麗な面立ちは、絶対的によろしくない。主人公である騎士が気づかないなど、この姿 ではあまりにも無理がある。たとえ知らない人が見たとしても、『彼女』と呼称したく なるに決まってる。  ただ、これもあいつが物書きじゃない証拠といえる。しかし、物描きではあったかも しれない。イメージを100%他人に伝えることが不可能である以上、この姿は他の誰 にも描き得ない。  特質を考えれば、絵描きになったことは十二分に有り得る話だ。魔術的視覚で存在の 形と本質を読み取り、新たな存在へと写し取る。それは、あいつの十八番──という か、ただの馬鹿の一つ覚えではなかったか。  夢──なんだろう。きっと。そして、真実だ。あいつの見た夢ならば、間違いない。 こと、このことに関しては。たとえ鞘がなくたって。  それにだ。関係者のわたしが思うのだから、ここに書かれているのは真実だ。わたし は、わたし達は二度の理由を目の当たりにしている。いや、一度目は直接にではないが 人生に大きな影響を与えてくれたのだから、両方ともの関係者だと言って良いだろう。  だが、だとすればこれは酷い。あんまりだ。たいした朴念仁だ。ここまで見えたので あれば、どうしてわかってやらないのだ。道理で連絡ひとつよこさずに、わたしの前か ら姿をくらますわけだ。  お陰で魔術師としての人生は散々だった。御山の力を狙って投げ槍気味にした結婚 は、たった一代──それも、一度の結び付きの結果だった──で、わたしの血に受け継 がれる魔術回路を奇麗さっぱり消し去ってくれた。天敵として食われるのがわたしの方 だなどと、思ってもみなかった。まあ、夫としては悪くない奴だったが。早く逝ってし まいさえしなければ。  いや、わたしのことは良い。過ぎたことだ。今更どうなることでもない。それより彼 女のことだ。これを彼女が知ったら、むーっと怒り出すに違いない。いや、だからこそ 知られたがらないか。バレたとわかったら、真っ赤な顔をしてがーっと否定するだろ う。それどころか、聖剣の力を開放しかねない。もし、万が一、聞き出そうとするなら ば、間違いなく令呪に頼るしかない。この場に及んでも、表に出そうとしなかったぐら いなのであるから。  ただ──まあ、わからなかったのも無理はないか思う。あいつの夢は、この光景を見 るだけのものだったのだろう。佇む二人の様子を、ただ眺めるだけだったのだろう。な らば仕方ない。第一、これを理解することを期待する方が間違っているというものだ。  それに──   (まあ、わからない方が良かったかもね)  クックックッと、わたしは低い笑い声を上げた。なにも図書館だからとか、そういう ことを気にしたのではなくて、これが今のわたしの精一杯の大笑いだからだ。あの頃の わたしなら、きっと高い声でゲラゲラと腹を抱えて苦しんだに違いない。  だって、おかしいじゃないか。これほど笑えることはないじゃないか。笑わずにはい られるか。これを笑わずして、なにで積年の恨みを晴らせというのだ。   「あのっ」  恐る恐るといった感じがする突然の声に反応して、わたしはドアの方を振り返る。知 らないうちに、四年生ぐらいの女の子が隣に立っていた。この子は──そうだ、さっき この本を読んでいた子だ。   「なんだい?お嬢ちゃん」  返事をして、なんと爺婆臭い言葉遣いかと思った。だが、年相応といえば年相応なの はわかっている。   「その本──」  ああ、そうだろうなと思った。聞く前から、この子は片づけに引き返して来てくれた んだと感じていた。   「好きかい?」   「え?」   「好きかい?このお話は。わたしはとても気に入ったよ」  だから、なんの脈絡もなく問いを投げかけた。返事は聞くまでもないことだとわかっ ていたから。   「ありがとうございますっ!!」   「?」  しかし、返された答えはわたしの問い以上に脈絡を失ったものだった。自分の好きな 物を、人が好きと言ってくれるのが嬉しいことは認めよう。だからといって、それは満 面の笑みを浮かべる程ではなかろう。   「それを書いたの、曾おじいちゃんなんです」   「な────」  ちょっと待った。どういうことだ?書いた?それを?あなたの──曾おじいさんが? でも、だってそれは。   「本屋さんで売ったりはしてないですけど」  言葉に釣られて開いた奥付には、聞いたこともない出版社が書いてあった。そして、 見覚えのある名字──名前は違った──が。   「…………」  混乱した頭の中を、一つの答えがグルグルと回る。ペンネームにしても、滅多に思い つくことのない名字だと。しかし、突然カラカラに乾いてしまった喉は、聞きたいと思 っていることを音に変換してはくれなかった。   「あ、あの?」   「──お嬢ちゃん?」  やっとの思いで、わたしは一言を絞り出した。   「はいっ!?」  きっと声はガラガラだ。それに、怖い顔をしてしまっているのだろう。彼女が驚いて しまっている。  でも、それを気にする余裕はない。聞くことは決まっている。ならば、再び喉が閉じ てしまう前に声にせねばなるまい。   「お名前は、なんて言うのかしら?」   「おーい!!凛、なにやってるんだよー!」  廊下からの声が、わたしの声に重なった。その響きに思わず顔を上げる。   「ちょっと待ってよー」  声の方を振り返って答えたのは、目の前の少女。その後で、彼女はわたしの方に向き 直った。   「凛──藤村凛です」   (────はぁっ!?)  彼女の名乗りを受けたところで、ようやく頭が追いついた。しかし、危うく声を出し てしまいそうになる。それどころか、さっきからわたしの内で凝り固まっていた緊張ま でが、バラバラと崩れていくようだった。  名前もだが、それ以上にあまりにも予想外の名字。いや、全く知らないのであれば、 驚いたりはしなかったかもしれない。驚いてしまったのは、耳に憶えがある響きだった からに違いない。  可能性としては、なきにしもあらずだ。それまでの名字も残したかったのだと考えれ ば、奥付に記されたペンネームにも合点がいく。あいつの考えそうなことだ。   「ひょっとして、あなた。曾おばあさんの名前は──」   「? わかりません。私が生まれた頃にはもう、いなかったんです」  だが、思わずしてしまった問いに彼女は首を振った。  さすがにそこまで世界は上手く出来ていないらしい。それはそうだ。実際にそうだっ たとしても、わたしだって曾祖母の名前までは覚えてないのだから、わからなくても当 然だ。   「──そう……よね」   「お知り合い……だったんですか?」   「昔、この街で同じ名字の先生に教えて貰ったことがあったのよ。だから、も    しかしたらなんて思ったの」   「そうですか……」   「じゃあ──」   「あ、でも、」   「──どうぞ?お先に」  先にと促そうとする彼女を言葉で制した。わたしの話は、別に後からでもよいのだ。 どうせ、こっちだって知っているわけはないのだ。旧姓だなんて、その概念も持ってな くともおかしくはない年頃じゃないか。   「『凛』っていう名前は、曾おじいちゃんが付けてくれたんだって聞いたこと    があります。おじいちゃんも、私が生まれてすぐに死んでしまったみたいで    すけど。──ごめんなさい。おばあちゃんの方ですよね。お知り合いなのは」  もう一度、わたしは言葉を失った。  そうか。やっぱりか。これは、あいつが書いたのか。この少女は、あいつの曾孫とい うわけか。状況証拠でしかないが、そう思うには十分過ぎるほど集まっているだろう。 あのバカが。なんて名前をつけてくれるんだ。  しかも、残して逝ってしまうだなんて、なんてことをしてくれる。そういう歳だなん てことはわかってる。しかし、これでは文句の一つも言えないではないか。どうしてく れるのだ。会ったら散々怒鳴り散らしてやろうと思っていた怒りの矛先は、どこへ向け れば良いというのだ。   「…………」  さっきとは違う。乾いてなどいない。それなのに、どういうわけだか再び喉がいうこ とを聞こうとしなくなっている。乾くどころか、溺れるのではないかと思える程に濡れ てしまっているというのに。   「あ、あの……」   「……ごめんなさいね。どうも涙もろくなっちゃってねぇ……。歳は取りたく    ないものだわね」  なんとか落ち着きを取り戻して、わたしはそう言った。嘘だ。さっきでは全く縁遠い 物だった。だが、心配もされているようだし、この方が良いだろう。   「おじいちゃんとも、お知り合いだったんですか?」   「わたしと同じ教え子なの。藤村先生の。きっと──ね」   「そうなんですか────っ!?」  言葉の意味することに気がついたのか、少女は目を丸くする。   「ええ。よくもまあ、先生と生徒で結婚だなんてしたものだわね」  本当に、よくもまあだ。きっと強引に決められたのだろうが、あいつも拒否はしなか ったんだろう。相も変わらず情けない──と、もういないのに相も変わらずはないか。   「凛ーっ!!!」  廊下──もうドアの真ん前だ──から、もう一度呼び声がした。ちょっと怒っている ように聞こえなくもないけど、その怒りの質は放っておかれていることに対する不満な のだと感じる。   「ごめんなさいね。わたしが引き留めてしまったのよ」  部屋の中に姿を現した男の子に、少女に代わって謝罪の言葉をかける。こんなことで 喧嘩なんて、して欲しくないしする必要もない。   「……誰?この婆ちゃん」   「曾おじいちゃんと曾おばあちゃんの知り合いだって」   「お前の曾じいちゃんって、あの本を書いた?」  そう言って少年は、わたしの手にある本にちらりと目配せをする。   「うん」   「ふ〜ん。しっかし、お前、あの本好きだよな〜。どこが面白いんだよ、アレ」   「どこがって……」   「だってアレ、王様のお話だろ?しかも、めっちゃくちゃ強い。ええと……な    んだったかな。他の本で読んだことがあるんだ……えっと……」   「アーサー王、じゃないかい?」   「あ、そうそう。アーサー王。良く知ってんな、婆ちゃん」   「ええ。それはもう、有名なお話ですもの」  意外そうな顔をする少年を見て、口元をふふふと緩める。きっとわたしは、あなたの 何十倍もの物語を知っているのよと。   「めっちゃくちゃ強くてさ、エクスカリバーっていう剣で、ばったばったと敵    を倒すんだ。最後だって、裏切った大勢の仲間の中に一人で乗り込んで、全    部やっつけるんだぜ?その王様が、その本みたいに女々しいわけないじゃん    かよ。情けない死に方してるし、それに──」   「この絵が女の子に見える?」  得意気に話をする少年の言葉に、横槍を入れた。あなたの言っていることは嘘ではな いけれど、間違っているのよと。   「お、おう」   「そうね。確かに、これじゃ女の子だわね。でもね──」  『でも』どころじゃい。わたしは、わたし達は知っているのだ。   「──本当に女の子だったかもしれないじゃない?」  証明など出来はしない。だが、絶対的な真実だ。直接確かめたのだから。   「へん。そんなことあるもんか。女だったら王じゃなくて女王じゃんか。それ    に、女は男が守るもんだい!」  しかし、わたしの言葉を少年はきっぱりと否定した。その否定は正しくない。正しく はないが、気持ちの良い断定だった。自身に満ちた、まっすぐな意志。  ならばと、わたしは首を小さく振るに止めることにする。やれやれと。まあ、彼にだ ってわかる筈はないのだしと思って。   「ま、いいや。凛、先行くから、すぐ来いよな」   「う、うん……」   「あらあら。ですってよ?男の子ねぇ」  彼にとっては大して重要なことでもないのだろう。普通はそうだ。もう1500年以 上も前の王様のことなんか、普通はこだわる必要なんてない。そんなことよりも早く遊 びに行きたいとばかりに、あっさりと話を切ってドアから出て行ってしまった。その背 中を、わたしは苦笑いで送る。   「お婆さんは……」  しかし、残った少女がぽつりと呟く。緩めたわたしの目尻とは逆に、彼女の瞳には真 剣な光が宿っている。   「……」  なにか、それも大切ななにかを言おうとしているのだと感じ、わたしは小さく頷く。 その間に一度目蓋を閉じ、再び開く。そして、彼女の瞳にある光を見据えた。続きを 言っても大丈夫であると伝えるために。   「本当に、そう思いますか?」   「──っ」  息を呑み込んだ。驚きはしなかった。ただ、喜ぶのは早いと慎重になっただけ。ぬか 喜びにするには、大き過ぎる喜びだと思っただけ。   「女の子なんじゃないかって、思いますか?」   「──どういうことかしら?」  『女の子』。出てきたその単語で、ほぼ真意を理解した。でも、それでもまだ、彼女 の言葉が出るのを待つ。   「その王様が女の子だって思いますか?私は、本当に女の子だったんじゃない    かって思ってるんです。どうして女の子が王様になったのかはわかりません    けど」  ──それは──いや、いい。彼女が引き抜いた剣のことなど、ここでは関係ない。そ れよりも、だ。   「可愛い絵……ですものね」  頷かないで欲しい。そう思いながら、選んだ言葉を絞り出した。そこまで辿り着いて いるなら、この罠にはかからないで欲しい。それではあいつと同じになる。せっかく至 った真実を、しっかりと見逃したあいつと。   「いいえ。違います」  少女ははっきりと首を振った。これまでにない口調には、薄い不満の色も見え隠れす るようだった。   「想い──です。王様が最期に願った」   「……そう」  ──ああ、この子は。この子は、至っている。あいつが見逃した真実、あいつの夢の 欠片から、わたしが見つけた真実まで。   「彼女はきっと」   「きっと?」  問いかけはしたものの、本当は聞くまでもない。そうだ。この子にはわかってもおか しくなかったのだ。まだ少し幼いけど、この子にはその資格は十二分にある。   「きっと──」  だって、これは。   「──会いたいって願ったんじゃないかなって。もう一度だけ」  これは──わたしたち女の子の、恋する女の子の願いなのだから。  にっこりと、今度こそはちゃんと微笑もうと思った。でも、上手く出来たかは、やは り自信がない。なにせさっきまでよりよっぽど酷く、目を開けているのが難しいぐらい になっているのだ。   「お、お婆さん?」  いけない。ちょっと慌てさせてしまっているか。彼女からすれば、そんな理由なんて ないのに。   「ありがとう──凛ちゃん」  わたしは彼女の名を呼んだ。   「わかってくれる人がいて、きっと、アイツも幸せだと思うわ」  そして、そうも付け加えた。そこまでこの少女がわかってくれる筈はない。きっと勘 違いをしてくれるのだろうとは思ったけれど、言わずにはいられなかった。   「いいえ。こちらこそ嬉しいです」  その返事は、思い通りに勘違いをしてくれたことを示しているだろう。アイツ──そ れは、本を書いたあいつではなくて、本に書かれたアイツだ。あいつの心を、全部持っ て行ってくれたアイツ。それでいて、1500年前の恋を選んだアイツ。アルトリアと いう名の、遥か遠い時間の彼方に生きていた少女。   「ええと……あの……」  時間が経つのが気になっているのだろう。言いにくそうにしながら、彼女はチラチラ とわたしの手にある本に目を向けている。   「この本なら、わたしが片づけておきますよ」  赤くない服の袖口で目元を拭いながら、彼女に言う。   「でも」   「早く行かないと怒られちゃうわよ?最後に読んだのはわたしなんですから、    わたしが片づけるべきでしょう?それにね、とっても楽しかったから、そ    のお礼。ありがとう」  口にした言葉も嘘ではないけれど、一つ考えついたことがあった。そっちの方が理由 としては強いかもしれない。   「それじゃあ……お願いします。こちらこそ、ありがとうございました」  そう言い残して、少女はクルリと背を向ける。名前に負けず良い子だ。背格好と比べ ると、随分と大人びてもいるし。もっとも、わたしと似てるとは言い難いかもしれない けれど。わたしは、もう少し冷めていたと思う。  少女の背がドアの向こうの廊下に消え──ようとしたとき。  少年が出て行ってから、それなりの時間が経っている。少年が廊下で待っていたのだ ろうか。それとも、いないのをわかってて呼んだのか。そんなこと、わかる筈もない。   「待っててば、士郎ーっ!」  だが確かに、彼女はその名を叫んだ。   「──おばあちゃん?」  再び隣から少女の声がした。むろん、さっきの少女ではない。もっと幼い声だ。ちょ っと不思議そうな感じをしているのは、わたしがぼーっとしていたからなのだろう。   「面白そうなのはあったかい?」  それは、連れて来ていた曾孫だった。仕事だなんだと忙しくしてる孫夫婦に代わっ て、こうして遊びに連れ出すことが多いのだ。   「ううん。なかった」  そうだろうと思っていた。普段からあまり本を読んだりする子ではない。今日だって 来る前からあまり乗り気ではないみたいだった。それなのに来ることになったのは、来 月から通うことになってる小学校のすぐ隣だったからだ。学校までの道を歩いて、ちょ っと寄り道をする散歩程度に考えて家を出てきた。特に良さそうな本がなければ、その まま帰ってもと思っていた。  でも、せっかくだ。良い思いつきだとも思うし。   「そうかい。それなら──」  この本を読んであげるとにしよう。いや、この是非読んであげなければ。絶対に知っ ていて欲しいことなのだから。  本棚に返すのは、それからでも良いだろう。きっと、沢山の人に見て貰いたがってる 筈なのだし。そうでなければ、聞いたこともない出版社から発行されている本が、こん なところにあるわけがない。   「さっきのおねえちゃんは?」  けれども、それよりも先程の少女が気になるらしい。興味津々といった目で、わたし の服を引っ張る。   「この本を書いた人の曾孫さんですって。──凛ちゃんっていうの」  それは、とても嬉しいことだった。益々この物語を聞かせておかねばと思う。   「おばあちゃんとおなじだ!」   「そうね。わたしとおなじね。きっと小学校のお姉さんよ?仲良くなれると良    いわね──アルトリア」  呼んだその名前は、もちろんあの娘から取ったものだ。孫がどこからかイギリスの娘 を引っかけて来たのを良いことに、わたしが強引に名付けた。   「うん」  だから、それを願う。三人のうち、少なくとも二人の名は偶然じゃない。あいつが付 けたって言ってたじゃないか。なら、あいつの願いでもあることを期待しても、良いで はないか。  それならば、これで満足しよう。  わたしとあいつとアイツではないけれど。  形だけは、夢見たものであるのだから。  幸せな人生の幕切れを迎えられると思おうではないか。  今となっては、元の形で叶えることは出来ない願いなのだから。   「それじゃあ、このお話を聞いて頂戴? 凛ちゃんも大好きだって言ってた    わよ?」  そう言って、わたしは手近な椅子を引いた。彼女が好きだと言えば、きっと興味を持 ってくれる。  その椅子は、少女が座っていた席だ。わたしはそれに腰を下ろす。そして、隣の椅子 を引いてアルトリアを載せる。そこは一番始め、士郎と呼ばれた少年が退屈そうに座っ ていた場所。  伝説が真実だとは限らない。むしろ伝説であるからこそ、ねじ曲げられて伝わってい るものであろう。人の中を伝わるうちに、話には好き勝手に尾ヒレがつけられるもの だ。  だから、全ての物事には疑いの目を向けることが肝要だと思っている。特に魔術師に とっては。自分の感じた真実こそ、世の理。そう心掛けなくては、魔術師はやっていけ ない。  そして。これが、この物語が──あいつの夢が──わたしにとっての真実だ。間違い なくこれが、あの娘の最期の願いであったと、そして叶ったのだと感じるが故に。  さらに。  こうも考えて良いのではないだろうか。これは──真実というよりは願望かもしれな いが。  たとえわたしが、もう一度マスターに選ばれたとしても。  たとえ鞘が、この手にあったとしても。  絶対に、あのお腹を空かせた娘は喚べないのだと。  なぜならば。  鞘に収めるべき剣はもう、彼女の手にないのだから。  彼女の最期の願いは、聖杯などに頼らずとも叶ったのだから。  英雄アーサーではなく、少女アルトリアが願いを叶えてしまったのだから。  夢の中で辿った、二度目の戦いの後に。   「『これは、昔々。わたしのお婆さんも、ひいひいお婆さんも。そのまたひい    ひいひいひいひいお婆さんも知らないくらい、遠い昔の物語』」  初めの段落を読み終えたところで、ふぅと息を吐いた。やっぱり下手な文だと思い、 ほろ苦い息になる。その息にちょっとだけ妬みが混ざったのは否定出来ない。  だがまあ、それも良いだろう。それぐらいはさせて貰いたい。   (やっぱ、羨ましいわよ──セイバー)  罰を当てられては堪らない。  あの娘はもっと、幸せだったに違いないのだから。                                     Fin. ==============================================================================                    Fate/stay night は TYPE-MOONの著作です。               けもりん は TYPE-MOON とは一切関わりはありません。 ============================================================================== -----------------------------------------------------------------------------  けもりん   URL http://www2.tokai.or.jp/kemo/   mailto kemorine@tokai.or.jp  無断での転載はご遠慮くださいませ〜。……念のため。(笑 -----------------------------------------------------------------------------