「はい。おまたせ〜」  ダイニングで待つ私にニッコリと笑いかけながら、亜沙先輩がキッチンから出てきま した。胸よりも少し下、両手で持ったトレイと一緒に。 「──っ?」  息が胸の奥で詰まってしまったのを感じながら、私はテーブルの下でスカートを握り ました。  ――白いティーポットと二人分のティーカップ。それと――小さなお皿に乗ったケ ーキ。  私が思い描いていたのは、そんな光景でした。 『味見、お願いできる?』  お昼過ぎに突然かかってきた電話で、そう言って呼ばれたのです。指定された時間も おやつの頃でしたし、それに電話口で亜沙先輩は言ったのです。稟くんも一緒の方が良 いですかと聞いた私に、『楓ちゃん向きのだから』──と。  だから、てっきりデザートなんだと思ってました。稟くんも決して嫌いではないので すけど、どちらかといえば女の子が喜びそうな、甘いものなのだと。  でも──私の予想は完全に外れていました。  いえ、本当は頭のどこかで理解していたのかもしれません。だって、亜沙先輩の運ん できものがなんであるのか、器を遠目に見ただけでわかってしまったのですから。  トレイには――いくつかの小鉢と、大きめの平皿が一つ。とてもデザートには使わな いような、和風の食器です。無理に考えればところてんとかかもしれないですけど、き っと違うのでしょう。  だって、私の周りの空気に走った緊張を見て、亜沙先輩はその場で一つ小さく頷いた のです。きっとそれは改めての決心で、私に向けた瞳に強い光を宿すために必要だった からなのだと思います。 (……相談、でしょうか?)  この場にいない稟くんに向けて、心の中で問いかけます。  良く考えれば、もっと早くわかったかもしれません。電話のときにだって、少しは怪 しんでも良かったのでしょう。もし稟くんが助けを求めるのだとしたら、相手はきっと 亜沙先輩なのですから。  稟くんならば、好意をハッキリと表に出しているシアさんやネリネさんには、私との ことを話したりはしないでしょう。それと、笑いながら稟くんを励ましてしまう麻弓さ んにも。  だから――きっと稟くんはわかってくれています。本当に私が、稟くんの想いを受け 入れる気がないことを。私の稟くんへの想いが、本当にそれだけ強いということを。だ からこそ、本気で悩んで亜沙先輩に話したのだと思います。それは、とっても嬉しいこ とです。  でも―― (亜沙、先輩ですか……) 稟くんが狙っていたのだとしたら、ちょっと驚きです。稟くんは絶対に気づいていない と、そう思っていましたから。だって、亜沙先輩本人だって気づいて――いえ、気づか ないふりをしていたのだと思うのです。 (……やっぱり、ですね)  無言のままテーブルに並べられていくメニューは、肉じゃが、きんぴら牛蒡、ポテト サラダと――賽の目のような揚げ物でした。  そしてそれは、あの日、リムちゃんを連れてお買い物に行った日に、カレハ先輩とも 一緒に作ったメニューなのでした。 ---------------------------------------------------------------------------    SHUFFLE! サイドストーリー  『Luxury Amulet』                           芙蓉 楓                       Written by けもりん --------------------------------------------------------------------------- 「……で? ど、どうするのかな〜?」  フライパンに張られた油の中の鶏肉が、シャワシャワと気持ち良さそうな音をたてて います。  茹でたジャガイモを切り終えた手を止めて見ると、変わらずコンロに向かったままの 亜沙先輩の後ろ姿がありました。きっと一番美味しい瞬間を見逃すまいとしているので しょう、その背中からも真剣さがうかがえるほどの緊張感が漂ってきます。 「そうですね――いつもよりちょっと濃い色が良いと思います」  包丁の背でジャガイモをまな板からボールに入れながら、私は答えました。  さっき聞いたのだと、亜沙先輩は普段は塩コショウで下味だと言ってました。でも、 今日のは塩コショウではなくお醤油に漬け込む、私のやりかたです。だとすると──亜 沙先輩の感覚よりは色が着くはずでした。  私の持っているボールの中は、ポテトサラダです。これは逆に塩コショウをメインに して、マヨネーズは少なめに。そしてなにより、ジャガイモのシャリシャリ感を残すた めに、ちょっと堅めに茹でたのを荒く潰すのです。唐揚げの下味もですけど、それが稟 くんの好みなのでした。  今日はいつもの私の作り方で──と、リムちゃんを連れてのお買い物の帰り道に、亜 沙先輩とカレハ先輩と三人で決めたのです。私が普通だと思っていることでも、亜沙先 輩たちにとっては珍しいことも多いみたいで、おかげでさっきから質問されっぱなしに なっています。 「……そ、そう? 楓って案外――うっわぁ〜」  でも──今回の会話は、どうも話が変です。かみ合ってない気がします。 「ええ……っと?」  ヒントを求めるように向けた視線の先では、カレハ先輩もさっきまでとは違う輝きを 瞳に宿らせているようでした。なんでしょう――なにか、身の危険のようなものを感じ てしまいます。 「……ボクの選んだのも――だよね? 確かにリムちゃんに薦めたけど、さすがにアレはどうかと思うんだけど……」  そんな私に話の内容を教えてくれたのは、『選んだ』と『リムちゃん』――その二つ のキーワードでした。 「も、もしかして……」  昼間のお店でのことを思い出しながら、亜沙先輩に聞き返します。それならばカレハ 先輩の瞳の光にも納得できますけど――やっぱり『もしかして』です。  その場の勢いでリムちゃんのと一緒にレジに持って行ってしまいましたけど、稟くん と待ち合わせた駅前まではずっと無言だったのです。稟くんがリムちゃんに買ってきた ぬいぐるみには、実はとっても助けられました。おかげで違う話題ができましたし、意 識を切り替えることができましたから。 「えっ――唐揚げのことだったっ!?  そ、そっか。確かに塩コショウよりは茶色くなるよね?」 「は、はい……。お醤油の色が出ますから」 「そ、そうだよね。色、濃くなるよね。あ、あはははは……」 「そ、そうです。濃いめのきつね色になりますから」 「えっと、じゃあもうちょっとかなぁ……」  向け合ったままの背中の間を気まずい空気で一杯にして、私たちは口を閉じました。 亜沙先輩の唐揚げが遊ばされている油の音と、私のポテトマッシャーが当たるグラスボ ウルの音が、キッチンに急に大きくなります。とても顔を合わせられませんけど、カレ ハ先輩はきっとニコニコしながら私たちを見ているのでしょう。  でも――その時間が長く続くとは、私には思えませんでした。  だって亜沙先輩は、気になっていたのをずっと我慢していたんだと思います。初めに 聞いてきたのだって、とても思い切ってのことだったはずです。もしかすると帰り道か らずっと悩んでいたことを、口にしたはずなのです。だとすると、その決心の強さも半 端ではなかったのだと思います――勘違いぐらいで引き下がることができないくらいに は。  だから油の音が唐揚げ一つ分二つ分と減っていって――最後の一つ分が消えたあと。 ちょうど、私の手元のボウルでもいつもよりも潰しすぎたかもしれないジャガイモが生 まれてしまったとき。 「……だめ?」  濃い色の唐揚げが盛られたお皿を私の隣に置いて、亜沙先輩はもう一度聞いてきたの でしょう。言葉が短くそれだけをだったのは、私の『もしかして』の意味をわかってく れたからなのだと思います。 「だ、ダメってことはないですけど……」  私が言い淀んだあとの沈黙には、今度は助けてくれる音はありませんでした。私なの か亜沙先輩なのかわからない、トキントキンと私たちを追いつめようとする音だけが聞 こえています。 「ふふふ♪ 恥ずかしがることじゃありませんよ?  気になるんですよね、亜沙ちゃん?」  そんな中で決定的な一言を発したのは、これまでずっと口をつぐんでいたカレハ先輩 です。 「ぅ……その……まぁ……」 「恥ずかしがることでゃありませんよ?  そうやって赤くなってる亜沙ちゃんと楓さんも可愛いですけれど♪」 「そ、そんな……」 「――それで?」 「は、はいっ?!」  瞳にキラキラが入った、でも三人の中で一番の余裕を持った声です 「どうされるんですか?」 「え、ええと……唐揚げでなくて、ですよね?」 「ええ、もちろんですわ♪」  もうとっくに意味をなさなくなった誤魔化しでは、もちろん通じるわけもありませ ん。すっかり負かされてしまうまでに、そんなに多くの時間はいりませんでした。 「あ、亜沙先輩はどうするんですか?」 「わ、私? わ、わ、私はそんなにびっくりするようなのじゃないしっ?!」 「あら。そんなこともなかったと思いますけど――でも確かに楓さんのに比べたら、  亜沙ちゃんのは大人しかったですものね」 「ぅぅ……だったらカレハも買えば良かったのに……」  必死に反論する亜沙先輩も、旗色はとても悪いみたいです。明らかな焦りが、頬の周 りに赤く浮き出てきます。 「私はもういくつか持ってますから♪ なかなか使う機会はないのですけど……」 「つ、使う機会なんてボクだってないってば」 「あらあら。良いんですか、そんなこと言ってしまって?  それに、いつかに備えて一つくらいは持っているのも、乙女のたしなみですよ?  たとえ今はなくても、機会なんていつ降ってくるかわかりませんから♪」 「カレハがそうだって言うから、一つは買ったんじゃないっ!」 「でも、私の勧めたのじゃありませんでしたから。  亜沙ちゃんは可愛いのですから、もっと冒険していただきたかったのですけど……」 「だって……ねぇ?」 「え、ええと……なんて言うんでしたっけ、あのヒラヒラした――」 「ベビードール、ですわ♪」 「それも、カレハが勧めてくれたヤツって……」 「はい……確か……」  頭にそれを思い浮かべた私の頬が、とたんに熱くなりました。おのお店でも売られ ているのは知ってましたけど、それは特別な人向けなのだと思ってました。  なのにカレハ先輩は、迷わず手に取って、亜沙先輩に手渡して――。 「うん……透けてた」  間近で見た亜沙先輩には、もっと刺激的だったのかもしれません。いつも元気な亜沙 先輩が、口数を減らしてしまうほどに赤みを増してしまっています。 「あれくらい刺激的な方が、きっと殿方は喜ばれますよ♪」 「だったらカレハが……」 「ですから、私はもういくつか持っていますので♪  今日のお店にあったのも可愛かったので、どうしようかなとは思いましたけど……」 「うっわ……」  そんな中で、カレハ先輩は目を輝かせているだけでした。恥ずかしがるそぶりは全く 見せずに楽しそうに話す姿に、私も亜沙先輩も唖然です。 「それに、あれでしたら私よりも亜沙ちゃんに似合うかなと思いましたし」 「そ、それを言うなら、ボクなんかより楓の方がっ!  第一、楓に選んだのって、ボクが買ったのより随分大人しかったんじゃ!?」 「そ、そんな。わ、私だってあんなの似合わないですし、それに買った――ぅぅ……」  すごいなと思いますけど、とても真似できそうにありません。カレハ先輩が私に選ん でくれたのは、淡いクリーム色の大人しいデザインのでした――横が解くことできそう なリボンになっていること以外は。それでも、恥ずかしくて口に出せそうもないです。 「いえいえ。楓さんはあれで良いと思いますよ? 亜沙ちゃんとは違いますから」 「うー」 「いつも明るくて元気なのが亜沙ちゃんのイメージですから、逆に普段とのギャップ  で迫るのが効果的だと思います♪  いつもとは違う小悪魔的な魅力で、グッと引き寄せるのです」 「じゃ、じゃあ、楓はどうなのよ」 「楓さんにはお店で言いましたけど、今までより一歩だけ――が良いと思いましたの。  楓さんならば、それだけで十分なはずですから。  なので亜沙ちゃんが選んだ赤いのは、ちょっと冒険させすぎかなとも。  自分のと同じくらい――と考えた気持ちも、わからなくないですけれど♪」 「そ、そんなんじゃないってば」 「でも、それよりもっと驚いたのは、楓さん自身で選ばれたものですけどね」 「え……っ?」 「う……ん。それはボクも思った。だって……ね?」 「さすがに私もあれはまだ……」 「そ、そんなっ!?」  二人に乗せられるようにして私が買ってしまったのは、三枚です。亜沙先輩が選んで くれた赤くて大人っぽいのものと、カレハ先輩が選んでくれたクリーム色の。今になっ て冷静に考れば、その場の雰囲気に負けてしまった気もします。  でもとにかく、もう一枚は、私が選びました。  二人に連れて行かれたコーナーにあった中で、一番大人しそうなのを選んだつもりで す。大人の女性向けの一角なので、それなりにドキドキしてしまうデザインではありま す。 「白、それも純白で――レース付き……。  考えようによっては、どんなのよりも大胆だもんね」 「ええ♪ 楓さんの意気込みを見せていただいてしまいました……」 「そ、そんなつもりは全然――確かにカレハ先輩が言われたみたいに、  ちょっとだけ頑張ってみようとは思いましたけど……」 「へぇ……。つまりそれが楓の一歩、なんだ」 「あ、亜沙先輩っ!?」  でも――カレハ先輩の頬まで赤くしてしまうようなものでは、なかったはずでした。 とりとしたニヤニヤを向けてくる亜沙先輩に、つい叫んでしまいます。 「あらあら亜沙ちゃんダメですよ? そんなに楓さんを困らせては♪」 「それもそっか。それで使えなくなったんじゃ悪いしね♪」 「えっと……つ、使う、ですか?」 「そんなこと、ボクに聞かないでよ。ね?」  私に聞いてきながらも、亜沙先輩のニヤニヤは止まってくれませんでした。それどこ ろか、カレハ先輩までキラキラと期待で一杯の瞳で私を見ます。しかもお二人の言うこ とは―― 「はい♪ 楓さんの場合は、わかっていただけないとダメですから」 「そうそう。ボクと違ってね」 「え……あの――――えええっっっ?!!」 間違いなく稟くんと私のことを指しているのでした。 「あ〜あ、熱い熱いっ♪」 「う、ううぅ……」  私は俯きました。  かもしれないだと思っていたボウルの中のジャガイモは、今では完全に潰し過ぎにな っています。けれど、私はさらにマッシャーを動かし続けます。 「……でも、それだけではありませんよ?」 「ん?」  耳だけは、どうしても二人の会話から離せないままで。 「楓さんを困らせてはいけない理由、です」 「そうなの?」 「はい。亜沙ちゃんにはあれこれ言いましたけど、  本当に使うときに一番重要なのは自分で選んだってことですから」 「えー」 「だって――――」          ・・・・・・・・・・・・・・・            ・・・・・・・・・・・              ・・・・・・・                ・・・                 ・  テーブルに並べられていた料理を食べ終えて。私は箸を静かに置きました。 「――どう、かな?」  それまで食べる私を黙って見つめていた亜沙先輩が、明るい、でも強い決心と自信の 混ざった声で聞いてきます。  私は――答えられませんでした。それどころか、置いたばかりの箸から目を離せませ んでした。 (……やっぱり、ですか)  食べる前と同じ呟きを、なにかがグルグルと回っている心の中に吐き出します。  ――白滝を入れずにちょっと甘めの味付けの肉じゃが。  ――牛蒡:人参が9;1、胡麻はなしのきんぴら牛蒡。  ――潰し過ぎずにマヨネーズ控えめコショウ味のポテトサラダ。  どれも美味しくて、この前に話した稟くんの好み通りの作り方でした。そしてどれも 私が作る味に似て――いえ、本当は私のが亜沙先輩のに似ているのです。  けれど、それだけならば良かったのだと思います。私と同じなのであれば、美味しい と答える余裕くらいはあったのだと思います。  でも、違いました。  肉じゃがの甘みは、お砂糖ではなく多めに入れられたタマネギの自然なものでした。  きんぴら牛蒡には、スライサーを使わずに包丁で刻んだしゃきしゃきとした歯ごたえ がありました。それと、時折レンコンのアクセント。  ポテトサラダにはシャリシャリ感を出すためでしょう、男爵だけでなくメイクイーン も使われているみたいです。  どれもが稟くんの好みでありながら、どのお料理にも亜沙先輩の工夫で私のよりも美 味しく作られていました。  そしてなにより私に声を失わせたのは、きつね色の四角いもの――カジキマグロの唐 揚げでした。  もちろん下味はお醤油に浸けたのだと思います。中の方までしっかり味が滲みていま す。けれどもそのお醤油はただのお醤油ではなくて、舌に吸い付いてしまうような旨味 を持ったお醤油でした。  そしてそれは、材料が鶏肉ではなくカジキマグロであることに良く合っていました。 これならきっと間違いなく――稟くんの好きな料理の、かなり上位に入ってくると思い ます。もしかすると、私のを全て押しのけてしまうほどに。 「昆布……ですか?」 「……うん、基本はね。でもそれだけじゃないよ――もちろん教えないけど」  もう一欠片の笑みも含まれていない亜沙先輩の声に、ようやく私が絞りだした真っ直 ぐではない答えが跳ね返されます。 「で、どうなのかな?」  そして――いえ、『それでも』の方が良いかもしれません。真っ直ぐではなかったに しても、俯いたままの私を問いつめる亜沙先輩は、私の答えをわかっているはずです。 「…………」  だから私は黙り続けました。  奥の歯をしっかりと噛みしめて、渦巻いているものの中に崩れて吸い込まれて行きそ うな心に力を入れます。きっと亜沙先輩が私に言わせたい、私が言おうとしない、決定 的な一言を決して漏らすまいと。  でも、それが許されるわけもありませんでした。 「……ま、良いんだけどね。  楓が答えてくれないなら――あとは稟ちゃんに直接聞いてみるから」  逃げるように伏せたままだった私の視線を完全に笑みの消えた瞳に釘付けにする、亜 沙先輩の声が私に届いたのです。  ――聞いてみる?  ――直接……稟くんに?  わざとらしい溜め息と一緒にぶつけられた二つの言葉が、必死に耐えている私を巻き 込むようにして暗い渦の中に流れていきます。 「稟ちゃんが随分落ち込んでるみたいだから、  お料理でも作って励ましてあげようと思ってるんだ――今日、これから行って」  言われていることの意味は、もちろんわかっています。わかっていますけど――亜沙 先輩の口から出ていることを認めたくないのでした。  亜沙先輩のお料理を稟くんが食べるのは構いません。今までにだってありましたし、 この前だって一緒に作って一緒に食べました。  それに、稟くんへの気持ちが込められたお料理ということでも、それだけならば構わ ないのです。それだけならば、シアちゃんにだって作ってもらったことはありますし。  ダメなのは――亜沙先輩が稟くんのためにという意志を持って作っていることなので す。  だって私は、ずっと恐れていたのです。まだ一緒に家庭科室でお料理をしていたころ から。もし亜沙先輩が稟くんを――と。 「嫌、とは言わないよね。ううん、言わせない。  楓もわかってると思うけど、稟ちゃんを落ち込ませているのは楓なんだからね。  そんな楓に、嫌って言う権利なんてないから。  できれば大人しくどこか行ってて欲しいけど、それは楓に任せるわ」  なんとか横に振るだけでも――と頑張ろうとしていた首さえも、許してはもらえませ んでした。  私も亜沙先輩の言うとおりだと思います。私が止める権利なんて、どこにもありませ ん。こうして先に教えてくれていること自体、亜沙先輩にしてみればしなくて良いこと のはずです。  けれど、私が声を押しとどめていることさえも、そこまでが限界でした。 「――ただし」  改めて気持ちを入れ直すかのように挟まれた間の中に、背中を上から下に滑り落ちる ものを感じます。  でもすっかり気おされてしまった私を打ちのめしたのは、そんな予感を遙かに超えた 衝撃でした。 「ボク――今日は『アレ』着てるから、そのつもりでいて?  聞きたくなければ、シアちゃんなりネリネちゃんなりに泊めてもらってね」 「ぇ―――」  縁に引っかけていた最後の指が外されたかのように、目の前が暗く閉ざされていきま す。感じるのは身体の中を駆け落ちるなにかではなくて、私自身がどこか深いところへ まっすぐ落ちていく感じでした。  お料理だけでも私にとっては一大事です。この味を作られてしまっては、稟くんが私 のを選んでくれるかの自信はありません。なのに、それ以上を亜沙先輩はしようとして いるのです。  そして――亜沙先輩のスタイルに敵う自信は、お料理以上にないのです。そんな亜沙 先輩であれば、稟くんの中から私を追い出すことができてもおかしくないと思います。 ただでさえ稟くんは落ち込んでいて――亜沙先輩はあれを身につけているのです。カレ ハ先輩が選んだものほどではなくとも、確かにいつもの亜沙先輩からは考えられない艶 やかな黒の下着を。 「嘘じゃないよ? 着てるっていうのも、そのつもりだっていうのも」  私は――小さく頷きました。頷くしかありませんでした。  嘘でないのは、言われなくてもわかりました。覆っている暗闇を突き通して責めたて る亜沙先輩の目の中の強さが、私に嫌というほど教えてくれています。 「で? 一応もう一度聞いてみるけど――どう?  できれば楓の料理の方が稟くんが喜びそうなわけじゃないってことを確認してからに  したいんだけど?」  だから、もう完全に追いつめられてしまった私に投げかけられたその言葉は、きっと 最後の降伏勧告でした。ここで私が答えを出さなければ、あとは実力行使が待っている はずです。着ているのならば、私に負けることなんて考えてないはずですから。  稟くんが他の誰かを好きになっても良いと思っているのは、本当のつもりです。リシ アンサスさんでも、ネリネさんでも――もしかしたらリムちゃんでもです。恋人でいら れなくても、私は本当に稟くんのお世話ができれば良いですから。  みんなは大丈夫なのです。だってみんなが稟くんの生活に入ってきたのは、もう私が お世話をするようになってからです。稟くんにとっても私にとっても、そしてみんなに とっても、私が稟くんのお世話をするのが不思議なことではないのです。  でも、亜沙先輩は違います。まだそれが当たり前ではなかった頃の私と稟くんを知っ ているのです。亜沙先輩にとっては、私も稟くんも、それぞれ一人の仲の良い後輩なの です。唯一、稟くんの隣に私の居場所を心配しなくてはならない人――それが亜沙先輩 なのです。 「――――」 「あ、そうそう。言い忘れてたんだけど」  だったら――としようとした最後の抵抗は、亜沙先輩が割って入られてしまいまし た。そのまるでちょっと古めの外国の探偵ドラマのようなタイミングで、私に決定的な 言葉を突きつけたのです。 「良く料理は愛情っていうけど、ちょっと違うよね?  込めてあればどんなのでも美味しくなるってわけじゃなくて――食べる人にとって  好きな相手の愛情じゃないとね、こういう場合」  言いたいことは、完全に封じられてしまいました。好きにならないでくださいと言っ てしまった私には、それ以上続けられませんでした。たとえ頑張って続けたとしても、 きっと亜沙先輩を止めらないでしょう。そうやって言ってくるということは、亜沙先輩 は稟くんから聞いているのでしょうから。 「――美味……しいです」  叫ぼうと大きく吸い込んでいた息を小さな呟きに変えて、私は力なく顔を伏せます。 これ以上、亜沙先輩の顔を見ていられなかったのです。亜沙先輩の顔には、きっと笑顔 が戻るはずですから。それも、とても嬉しそうな。  けれど、 「そう。で? それだけで良い?」 涙が混じりかけた私に答えた亜沙先輩の声は、とても静かでした。 「だったら、そろそろ帰ってもらおうかな。準備しないといけないしね。  またあとでね――もし家にいるつもりなら」  とても静かで――嬉しいというよりは沈んだ声で言いながら、テーブルの上のお皿を 一つ一つトレイに戻していきます。見つめるテーブルの上から取り除かれていくお皿が トレイで重ねられる度に、心なしか残念そうな音がカチャカチャとダイニングに響くの でした。  そして最後に載せられた一枚が一際寂しそうに鳴ったあと、亜沙先輩が背中を向ける 気配が伝わってきました。それと、 「……言わないんだ?」 奥歯を噛みしめたような呟きが。 「――?!」 「今ならまだ、信じてあげられるんだけどな。稟ちゃんと楓の仲に免じて」  思わず顔を戻した気配が逆に伝わったのか、背中を向けて立ち止まったままの亜沙先 輩が続けて言いました。 「そこまで言いたくなかったけど、そういうことになったらボク、ダメだと思うから。  とても安心なんかしてられないと思うもん――大好きになっちゃった稟ちゃんのに  楓がいるなんて。――たとえ稟ちゃんがどう思っても」 「――――っ!?」  その言葉は、私の心に深く刺さりました。私がまだどこかに残していた希望を全部貫 いて、一番痛むところに届いています。『付き合うことになったら私には稟くんのお世 話はさせない』――亜沙先輩が言っているのは、そういうことなのでしょう。  でも、それだけではありません。  亜沙先輩はもう一つ――いえ、むしろ最初から本当に言おうとしていたことがあるこ とに、私は初めて気づきました。それが今日私を呼んだ理由であることにも。 「だから――もう一度聞くよ?」  そう言った亜沙先輩が、ゆっくりとこちらを向きます。これまでの真剣な表情さえも 不真面目に見えてしまうほどに、思い詰めた顔でした。 「――本当に、ボクの方が美味しいって思ってくれる?」  嘘――じゃないのだと思います。着ていると言っていたのも、稟くんを慰めるつもり だと言っていたのも。私の答えが変わらないのであれば、きっと本当にこのあと家にく るつもりなのでしょう。そして本当に、私に負けない関係を作ろうとするのでしょう。  でもそれは、私が答えを変えなければ――です。だからこそ、さっきからずっと私に 聞き続けているのだと思います。反抗心を持ちやすいように、わざと冷たく当たりもし て。 (……稟くん、許してくださいね?)  私が心の中で稟くんにまた問いかけたのは、答えを求めてでした。  けれども、求めたのは稟くんにしてしまったことへ対しての許しではありません。そ の許しは、誰にどんなに言われても、私から求めてはいけないと思うのです。稟くんが 自分から言い出してくれないのであれば、やっぱり許してもらう気にはなれません。  だから――許してもらわなければいけないのは、今から私がする、二つのことに対し てなのでした。  一つめは、こうして亜沙先輩を泣かせるのを半分稟くんのせいにしてしまうこと。今 までせっかく気づかないふりをしてきてくれた気持ちに気づかせて、それでいて辛い想 いをさせてしまうことにです。相談をする人に亜沙先輩を選んだ稟くんの鈍さかずるさ に、半分くらいは責任を負わせて良いと思います。 「……亜沙先輩の作った方が美味しいと思います」  だから私は、本当に正直に答えました。間違いなく亜沙先輩のお料理は美味しかった です。  でも二つめは―― 「そう……じゃあ――」 「でも――」  また後ろを向こうとする亜沙先輩を遮って、私は言葉を続けました。 「――でも?」 「私の方が美味しいって言うと思います――稟くんだったら」  自信はありません。嘘――というよりは、単なる願望です。 「理由を聞かないと納得できない――って言ってみるけど?」  でも。 「簡単ですよ――良く言いますから。料理は愛情だ――って」  それが私の望みであることは、もう隠せませんでした。  やっぱり私は――稟くんのことが好きなのです。そして、やっぱり稟くんにも好きに なってもらいたいのです。それを求めてしまっている自分がなによりも許せませんけど ――でも確かに私は望んでいるのです。 「――なーんちゃって♪ 信じた? 信じた?  あーもー、どうしようかと思っちゃった。なかなか正直になってくれないんだもん。  あ、変な言い方だけど、嘘じゃないってのは本当だからね?  嘘じゃなくて演技、演技♪  あのままだったらボク、本当に稟ちゃんと朝を迎える覚悟だったんだから。  まあ、稟ちゃんが誘いに乗ってくるかはわからなかったけどね」  答えを聞いた亜沙先輩に、突然いつもの明るさが戻りました。  でも、それは不自然です。『いつもと同じ』では、おかしいのです。あれは、一歩を 踏み出す勇気のために、身につけているはずなのですから。 「……乗ったと思いますよ?  本気で心配しちゃいましたから――私のときも迷わずでしたし」  だから私は、いつも通り答えました。その『いつも通り』が、亜沙先輩が求めている ことなのだと思いました。 「え……そうなの? やっぱり稟ちゃんもケダモノなんだ。  じゃあボク、みすみす餓えたオオカミに美味しそうな身体を差し出すところだった?  うわ……ボクまで土見ラバーズとか呼ばれちゃうとこだったのかぁ……。  さすがにね、そういうことしちゃうと意識しないってわけにいかないしね。  あー、危なかったー」 「はい。危なかったです」 「じゃあ、ちゃんと稟ちゃんの悩みを聞いてあげてね?  せっかくボクがここまで危ない橋を渡ったんだしさ。  きっと今夜にでも話してくれると思うから――なーんて言っちゃって良いのかな。  ま、良いよね。どうせ稟ちゃんだし」  稟くんには、本当に酷いことをしてきてしまいました。許してくれなくて、当然だと 思っています。いえ、そう簡単に許すべきではないと思います。  やっぱり嫌なのです。許しを受け入れてしまう私も、好きになって欲しいと思ってし まう私も。  でも―― 「――逃げないであげてね?」 もう目を背けることはできません。  こうして亜沙先輩にまで辛い思いをさせてしまっているのです。どんなに嫌な自分に なってしまっても、認めないといけいないです。これまで逃げていたことに、まっすぐ 立ち向かわないといけないのです。  それはとても辛くて、とても怖いことです。やっぱり逃げ出してしまわない自信は、 今のところありません。  なので、 「大丈夫です――帰ったらすぐ着替えますから」 もう一度頼ってみたいと思います。あの日、いつもよりも重い静けさに覆われたリビン グで、稟くんの前に立ってスカートに手をかけたときのように。 「ボクたちのちょっと豪華な鎧に、かな?」 「いいえ――」  否定したのは、亜沙先輩の言ったことの、ほんの一部分に対してでした。  だってそれは私の身体を覆ってくれるものではなくて――私の勇気を護ってくれるも のなのですから。 「――お守りに、です」  洋服の下で、いつか必要がなくなる日まで。                 Return to Fuyo Kaede's story of SHUFFLE! .... ==============================================================================              SHUFFLE!は Omegavision の著作です。              けもりん は Omegavision とは一切関わりはありません。 ============================================================================== ------------------------------------------------------------------------------  けもりん   URL http://www2.tokai.or.jp/kemo/   mailto kemorine@tokai.or.jp  無断での転載はご遠慮くださいませ〜。……念のため。(笑 ------------------------------------------------------------------------------  ……ラグジュアリーとランジェリー。語呂が似てますよね♪(ぇ  アーマーとアミュレットも(こっちは語源一緒?)♪(マテ  そんなわけで、今回もかなり強引な題名とお話の展開なのでした。  ちょっと校正が足らないので、ちまちま直していきます。