『てのひらを、たいように』 サイドストーリー 'MTI' Written by けもりん ─── 'M' The First Side of 'MTI'. ───   (どうしたら良いっていうのよっ!!)  引き寄せた枕の端をつかんで、わたしはベッドに縁に叩きつけた。一度だけではな く、二度三度。さらに四度五度六度。力任せに、繰り返し繰り返し。  七度目を振り上げたところで、手から柔らかな布が滑った。解き放たれた枕の直撃を うけた室内灯が、傘に溜まった埃をギシギシと音をたてて揺れながら撒き散らす。  埃が舞い降りるカーペットの上は、散らばり放題。本棚に並んでいた本や、机の上に あったペン立て。さらにはタンスや机の引き出しごと打ち蒔かれている、下着や使って いないルーズリーフの束まで。本やノートのなかには、ページを千切り捨てられている ものさえある。まさに足の踏み場さえもないという言葉通りの状態になっていた。  切れた息を落ちつかせながら、ベッドに転がる。タオルケットはもちろん床の上だ し、シーツだってそう。枕を投げてしまった今、ベッドの上に残っているのは敷き布団 だけ。  最初の犠牲者は英語の辞書だったと思う。まだきっと、部屋の隅で転がったままのゴ ミ箱からはみ出しているに違いない。  始まりは、朝ご飯を食べた直後だった。柄にもなく夏休みの宿題をやろうと、リーダ ーの教科書を手に取った。数学はまっぴらごめんだったし、物理なんて考えたくもな い。同じ英語でも、小難しい文法をやる気にはならなかった。リーダーにしたのは、妥 協できる唯一の科目だったから。  それでも、いざ始めてみるとたちまちつっかえた。課題になっているセッションの最 初のページ。それも真ん中付近。行にすると先頭からたった8行目。そこでわからない 単語に出会った。辞書を引いてはみたけれど、訳した文章は全然意味をなさない。何通 りかの訳を試してみても、状況は一向に変わらなかった。  イライラは募るばかりだった。そもそも始める前から気が落ち着かないでいたのだ。 宿題なんて自分でやる必要のないものを始めたのも、少しでも気を紛らわせることがで きないかと考えたからだった。宿題を片づけるだけならば、いつも通り誰かにやらせれ ば良かったんだし、第一やっていかなかったからといって叱る先生なんていやしない。  バガンっ  赤い背表紙を叩き付けられたゴミ箱は、金属の円筒形。悲鳴はけたたましかった。そ してその音は、更にわたしを苛立たせた。かろうじて椅子に戻ってはみたものの、考え るだけでわかるようなことじゃない。当然のことながら、状況はなにも変わらない。   『ああもう!』  再噴火の合図は、わたしの叫び声だった。机の上を横に払って、教科書とノートをま とめて机から追い出した。続いて奥に並んでいる本たちも、支えていたブックエンドご と薙ぎ払った。   八つ当たり。   それも物に。   このわたしが。  そう思ってしまってからは、悪循環に陥るだけだった。次々に物を打ち捨てては荒れ た息を整え、落ち着いたところで再びカリカリとする。部屋が散らかっていることにさ え、次第に怒りを覚えはじめた。  けれど、なによりわたしをいきり立たせたのは、根本の原因が春野明生にあるという 事実。そして、春野のことなんかで物にまで八つ当たりをしてしまうほど、悩んでしま っているということ。このわたしが、春野せいで。   (本当に、どうしたら良いっていうのよ……)  ぐぐっと胸が締まって、目尻に熱さが広がり始める。吸い取ってくれる枕を失ったせ いで、零れるものは昨日の夜と違って頬を伝っていく。   『旧家のヤツらに記憶を封じられていたとは言えなぁ』  頭の中で、サマースクールのときに聞いてしまった圭一郎さんの声が再び響く。一緒 に浮かんでくるのは、悔しそうな春野の顔。その二つを追い出すつもりで始めた宿題 は、やっぱり部屋を散らかしただけだった。  この何日か、わたしはほとんど部屋に籠もっている。考えることといえば、春野のこ とばかり。どうしたら良いかと、自分に問い詰めるばかり。でも、答えは出なかった。 違う。考えるまでもない前から出ている答えに、間違いを見つけられないでいただけ。   (もう、今夜だっていうのにっ……)  握り締める指は、なにも掴むものがない布団をなぞる。跡が残るだろうと思えるぐら い、てのひらに爪が食い込ませる。  わたしだってはっきりとは知らない。けど、今朝の電話でのお父様の言葉と満足そう な顔を合わせて考えると、そのことに行き着く。きっと春野達は知らないに違いない。 新しい吊り橋がもう完成していることや、その吊り橋が今夜使われようとしていること なんて。  お父様が口にしていた予定では、決行は今日の深夜。明日の未明と呼んでも良い時間 帯。このところ気が緩み始めているのか、その時間帯の見張りが疎かになっていること をしっかり把握してのことみたいだった。   (このままじゃ、春野が──)  それが本当だとすれば、春野達は不意を突かれてしまうに違いない。ただでさえ数で も力でも明らかに負けているのに、その上に不意を突かれたらどうなってしまうか。そ んなこと、考えてみるまでもない。   (春野が……)  捕まってしまう。いや、それだけならいい。問題は、捕まった後。きっと、7年前と 同じことになる。それどころか、ともすればもっと酷いことに。なんにも事情を知らな かった7年間のわたしならばともかく、今のわたしが変わり果てた春野の姿に耐えられ るだろうか。わたしのことをただの同級生としか見ることができなくなった春野に。再 び春野でなくなってしまった春野に。   (嫌……そんなの、そんなの嫌ぁっ!)  てのひらが更に痛む。同じように、歯に押しつぶされる唇も。  仲直りとまで言うつもりはない。今更7年前のことを思い出して欲しいとは願わな い。やっぱり許せないと言われれば、それは仕方ないと思える。けれどせめて、理由だ けでもわかって欲しい。わたしの自分勝手な罪滅ぼしはさせて欲しい。無駄だとは思う けど、謝らせて欲しい。憎むならば、その上で憎んでもらいたい。わたしをわたしとし て。わたしは、わたし達は、それだけのことをやってきたのだから。   (嫌なのに……っ)  どうすればそうなれるのか、わたしにはわからなかった。パパに頼んでみようとも考 えた。けれど、一昨日の夕飯のときの「穏便に」と言うママの言葉を一蹴した様子を見 れば、わたしが頼んだところでどうしようもないと思うしかない。婿養子で蓮見家に入 ったパパが、ママの言うことをあそこまで強く突き放す以上、パパ──旧家の代表とし てのパパの覚悟は相当に堅いのだろう。わたしの言葉になんか耳を貸さないくらいに は。  パパが駄目となると、わたしには打てる手なんてない。普段威張っていられるのだっ て、我が儘を押し通せるのだって、蓮見家の威光があってこそだということぐらいわた しにだってわかってる。蓮見家の威光に従う人を、パパに逆らうように仕向けるのなん てできるわけがない。  唯一可能性があるのは、直接春野を助けること。どれだけ助けになるのかはわからな いけど、今夜のことを教えることはできただろうし、他にも旧家の関係者じゃないとわ からないことを調べて教えることもできたかもしれない。蓮見家の娘という立場を利用 すれば、それなりには怪しまれずに行動できたはずだ。でも──もう遅い。   「馬鹿……。間抜け…馬鹿女……っ!なにやってるのよっ、この意気地なしっ!」   「あなた、いつも思ってたんじゃないの?」   「ウジウジと考えてるなんてだらしないって」   「考えをはっきりできないなんて不甲斐ないって」   「そうやって、いつもいつも春野のこと貶してたじゃない!」   「それをこんな……。これじゃあ、人のことなんて言えないじゃないっ!」  わたしは自分を罵る言葉を吐いた。完全に手遅れになってしまっているのは、わたし のせい以外のなにものでもない。   「こんな変な意地なんか、どうして張ったのよ!」  叫んでみたものの、時間が取り戻せるわけもない。取り戻そうと願う資格だってな い。受け入れてもらえるかなんて、わたしの我が儘でしかないのだ。春野のことを考え るなら、本当に春野を助けたいなら、考えなきゃいけないことは他にいくらでもあった はず。   「時間はあるなんて言い訳して、あげくのはてに手遅れにするなんて」   「よくも、よくもそれで、蓮見家の娘なんて粋がっていられるわよ!」   「なんにも、自分じゃなにもできないくせにっ!!」   「春野さえ」   「好きな人の助けにさえなれないのに……」  自分の想い気づいたのは、いや、気づかされたのは、こうやって家に引きこもるよう になってからだ。  サマースクールの時に知ってしまった真実は、初めはただショックなだけだった。春 野がわたしを無視してるだなんていうのは完全な逆恨みで、むしろわたしが恨まれてい ても不思議じゃなかっただなんて。だから、春野を助けなければと思い始めたのは、義 務感にも似た想いから。けれど、いざ行動を起こそういうときになって、不安になった のだ。春野に拒絶されたらどうしようと。  不安になり始めたわたしには、夢を見るだけの希望さえも浮かんでこなかった。それ だけのことをしてきたという自覚があったから。コーヒーショップ、花壇、サマースク ール。わずかに思惑が違ったこともあったとはいえ、確かにわたしが、わたしの意志で やったことだ。春野自身に対してやったことはともかく、佐倉さん、吉野さん、そして 夏森さんの三人を巻き込んだことを許すとは思えない。それが春野だと思ったからこ そ、春野本人にではなくて友達に矛先を向けるという春野が一番嫌がりそうな手を、わ たしはわざわざ使ったのだから。   『でも、今回は夏森さんが──』  事の重大さを肯定する材料に使おうとして、わたしの心が悲鳴上げた。背中に全体が 内側から震えるのと同時に、膝が笑いだした。目元から涙も溢れ始めた。奥歯を食いし ばらずにはいられなくなった。その事が重大であるという事実に、わたしは耐えられな かったのだ。  春野ならば、馬鹿みたいな真っ直ぐさを取り戻した春野ならば、たとえどんな窮地に 陥ってても、許せない者の手を借りようとはしないんじゃないかとわたしは思ってい る。だからこそ、差し伸べられた救いの手であっても、わたしの手が叩き払われるんじ ゃないかと恐れたのだ。けれど、そのわたしが言い訳に使おうとしてしまうほど、大切 に思っているように見える。春野にとっては、真っ直ぐさをかなぐり捨てるかもしれな いと思えるほどに、夏森永久のことが。  愕然とした。否定したがっている自分がいることに。それと、春野に拒絶されること を嫌がっていたわたしに。  義務感であるならば、助けようとした事実さえあれば良いはず。拒否されたとして も、それは春野の都合であって、わたしが気に病むことじゃない。後味は悪いかもしれ ないけれど、義務としては果たしている。それに、それでも気が済まないのであれば、 勝手にやってしまえば良いことでもある。了承が取れなかったにしろなんにしろ、結果 的に助けになったのであれば、気は晴れるはず。余計なことをしたと、後で減らず口を 叩かれようと、そんなことは知ったことではないはず。  それなのに、わたしは怖がっていた。嫌がっていた。春野にこれ以上憎まれること を。仲直りのチャンスなんてどこにもないと、目の前に突きつけられることを。春野の 心が夏森さんにあると、認めてしまうことを。  そこまで気づいたところで、わたしは白旗を揚げるしかなかった。自覚してしまった のだから。導くことのできる、唯一の答えを。突きつけられた、絶望的な感情を。春野 への恋心を。 ───コンコンコンっ  突然、ドアが鳴った。振り返ろうとして、きっと腫れているだろう目元をどうしよう と焦る。     「まりあちゃん?」  けれど、ドアは開くことはなかった。代わりに、わたしを呼ぶママの声がした。   「そのまま聞いて」   「え?」   「良いから。ね?」   「う、うん」   「出かけてくるわね」   「え──?」   「帰りは……ちょっとわからないわ」   「ママ?」   「別に、家出するわけじゃないの。ただ、戻ってこられるかわからないだけ」   「『許して』とは言わない。母親としてはするべきことじゃないと思うから」   「でも、ね。私としては、やらなきゃいけないことなの」   「母親になる前の私がした忘れ物を、取りに行かないと」   「……黙ってたんだけどね、一昨日から穂波が捕まっているの」   「誰なのかは……わかるわよね。私がまりあちゃんぐらいの頃の、クラスメートで    もある人。ちょうど、あなたたちみたいに」   「さっき山に連れて行かれたわ。説得させるために」   「でも、駄目ね。穂波が従うわけないもの。昔から頑固だから。穂波は」   「だから、ちょっと謝ってくるわね。穂波に。ごめんなさいって」   「寂しい思いはともかく、もう辛い思いまでしたくないから」   「……まりあちゃん?」   「なに?ママ」   「ごめんなさい。許してくれなくて良いけれど、あなたに先に謝っておくわ」   「それじゃあ、パパにも宜しく言っておいてね」   「ちょっとママ──」  ベッドから跳ね起きてドアの前に向かおうとした足が、広がったノートに捕られて滑 る。そのまま、わたしはお尻から床に倒れた。ドアの向こうでは、ママが走り去る足音 が遠くなっている。  わたしは呆然とドアを眺めた。   『辛い思いはともかく、もう後悔までしたくないから』  耳にはさっきのママの言葉が張り付いて離れない。『寂しい思い』、そして『辛い思 い』。ママが被せた言葉の奥にある意味は、わたしには透けて見えた。   『嫌われても良いけど、後悔までしたくない』  きっと、そう言い換えても良かったんじゃないだろうか。無下に断られる寂しさはと もかく、いなくなってしまった後で後悔と寂しさの混じった辛さを味わうよりはと。   (……そう……ね)  ママがわたしの迷いに気づいた上で言ったのかはわからない。どちらかといえば、わ かってなかったんじゃないかと思う。ドアを開けなかったのだって、反対するわたしが 制止するのを恐れてだったからかもしれない。それに、多分、ママだって自分のことで 精一杯だったんじゃないだろうか。そういえば、お昼ご飯の時間はとっくに過ぎている のに、部屋に籠もっていたわたしになんの声もかからなかった。   (虫が良すぎるものね)  多くを望むべくもないなんて、初めからわかっていたはずだった。いつの間に欲張り になっていたのだろう。   「ああ、もう。馬鹿らしい!!」  腹はたった。   「なんて無駄な時間を過ごしたのよ」  本当に不甲斐なかった自分に対して。   「これで助けられなかったら、全部わたしのせいじゃない」  でも、迷路からは抜け出していた。   「それもこれも、全部あの忌々しい春野が悪いんだから」  目の赤さだって気にならなくなっていた。   「さあ、そうとなったら──」  キュルルるるルルっ  次にやらなければならないことを考え出したとたん、お腹から奇妙な音が鳴った。そ れはそうだ。転がっている目覚まし時計は、もうお昼を通り過ぎておやつの時間を指し ている。   「……まずは、なにか食べないといけないわね」  苦笑をしながら、わたしは立ち上がった。やるべきことは沢山ある。どうせ手遅れ気 味なのだから、焦るよりも万全を期した方が良い。できるだけ情報を集めておきたい し、ママのことだって知っておきたい。そのへんは、きっと旧家の連中やお手伝いさん にでも聞けばわかるだろう。でも、なにはともあれ、お腹を満たさないことには始まら ない。細かなことは食べながら考えようと、床に散らかった物達を踏みつけてドアのノ ブに手をかける。   「あ……」  けれど、わたしは振り返って部屋を見渡した。足のちょうどすぐ脇に、目的の物を見 つけてしゃがみ込む。   「もう少しで踏んじゃうところだったわ」  壊してしまわなかったことにホッとして、拾い上げたそれを手首に釣り下げる。   (お財布も……持ったわね)  他の忘れ物がないかも確認した。食べ終わったら、ひとまずそのまま家を出るつもり だった。夜に備えて寝ておかなきゃいけないけど、それは情報収集と作戦会議が終わっ てからだ。   「よしっ」  再び立ち上がったわたしは、勢い良くドアを押した。そこにはもちろん、見慣れた廊 下があった。 ─── 'T' The Second Side of 'MTI' ───  夕暮れ、と呼ぶにはいささか暗くなり過ぎているだろうか。彼方の空に光が残ってい るとはいえ、高台の公園から見下ろす町並みには街灯の明かりが映えている。夏も半ば を越えて、一時に比べると随分と日が短くなっていることが実感できる。   「ふ……」  夏が始まった頃のことを思って、笑いがつい口を突いた。   「まさか、こんなことになるとはな」  感傷のためか、独り言とはいえ普段よりも饒舌になっている。もっとも、感傷など似 合うわけもないのだが。  きっかけは、なんだったのだろうか。自分の中で発生したものでもなければ、まりあ さんでもない。まして乾でも。だから、一体全体なにがどうしてこの始まりが訪れたの かはわからない。  はっきりとしているのは、夏森がアイツ──春野明生──に近づくようになったこと だけだ。それがどんな影響を及ぼしたのか、いや、そもそも影響があったことなのかは 憶測の域を出ない。推測で物事を量るのが好きではない俺としては、わからないとして おくしかないだろう。憶測で物事を決めるのは、乾の得意分野だ。事実、乾はアイツが 急に変わったのは夏森のせいだと言って憚らない。  しかし、なにはともあれ変化、それも劇的なものがあったのは事実だ。確かに原因は 気にはなるが、それを知るのはカタがついた後で良いように思えている。種明かしは、 昔話の中のあってこそ面白いだろう。   「おう。待たせたか?」  背後から足音が近づいているのは聞こえていた。気に止めていなかったのは、必要が なかったからだ。   「いや。問題ない」  手摺りを握っていた手の力をやや強めて、声に答える。隣に並べという意志を込め て、振り返ることはしない。   「で?なんだ?話ってよ」  手摺りが崖の方に向かって極僅かだけ傾いたのが、乾の声と重なって俺の手に伝わ った。   「どれぐらいぶりだ?」   「あ?」   「ここしばらくは、やってなかったからな」   「なぁにを言ってんだ?おめえ」   「とぼける必要もなかろう?」   「ったく。急にわけわかんねぇぞ? 巽」   「……」   「電話でも『話がある』だけ言い残して切りやがってよ。場所ぐらい言えっての」   「必要ないと思ったからな」   「あんなぁ、俺がここを思いついたから良いようなもんの、普通はわからねえっ    て」   「だが、わかっただろう?」   「……」   「迷いすらしなかったんじゃないのか?」   「……」   「探したにしては早すぎ──」   「あ〜あ〜あ〜。言うな言うな。男同士の以心伝心なんて、んな気色悪りぃことや    らせやがって」  乾が俺の隣から離れる。   「ふん」  乾と俺が手摺りに対して平行に並ぶ場所に、俺も立つ位置を変えた。間隔は5歩とい ったところだ。   「あ〜あ。ったく。良い迷惑だぜ」  言いながら、乾は解すように首を揺する。それは準備体操のようなもの。   「そうだな」  俺はといえば、肩を大きく回した後で、胸の前で両手を組んで腰を捻る。   「面倒くせえなぁ」   「まあ、そんなこと言うな。仕方なかろう?」   「おめえのパンチ、めちゃめちゃ痛てえんだぞ?重てえしよ」   「だが、手加減はせんぞ」   「ったりめえだろうが?んなことしたら、わざわざ痛い思いすんのが無駄になっち    まうってんだ」  ぐっぐっと膝を曲げ終わった乾が上げた目には、その言葉が嘘でないことを示す不満 の色が見える。   「それと──」   「ウドの大木相手に顔面は禁止ってなあ、あまりにも分が悪りいなぁおい」  ニヤリと笑って、乾は右のつま先で後ろの地面をトントン叩いた。   「代わりに俺もプロレス技は使わんさ」  俺もやはりニヤリと笑う。そして、身体の正面で手の甲を揉んで見せた。   「バ〜カ。んな当たり前のこと、二つも三つも言ってんじゃねえ。関節なんか決め    られてたまるか。この大事なときに」  乾の重心が変化する。   「よし。それなら始め──」  言いながら構えをとりかけたところで、ふっと乾の姿が視界から消えた。かと思うや いなや、腹に膝がめり込んでくる。   「──っぐ──」  油断していたことを呪ったときには、胃をひっくり返してなお背中にまで抜ける衝撃 が、弾けようとしていた。必死になって腹筋に全身全霊の力を込める。  まさに間一髪間に合った筋肉に弾かれて、乾の体が離れた。すかさず、そのボディー に反撃の拳を伸す──が、懐に潜り込んできたときと同じように、乾の姿は視界から消 えた。   「はん。てめえのトロい拳なんて当たるわけねえだろうが」   「しばらくぶりで忘れてたぞ。乾。おまえらしい手じゃないか」   「な〜にを。頭おかしいんじゃねぇの?真剣勝負なんだろ?卑怯もへったくれもあ    るかい。それとも、もう負けた時の言い訳か?ウスラボケ!」   「ふん」  ぺっ。  罵る言葉を鼻で笑って、押さえ込み損なった分の胃液を、ツバとともに足元に吐きつ けた。そして顔を背けたまま、タイミングを見計らって一歩後ろに飛び退く。   「んにやろっ!」  飛び込んできた黒い陰は、悔しげな声を上げた。  なにも答えることなく、身体を伸び切らせた乾の中心に向けて拳を繰り出す。だが、 寸前に身体を捻られ、狙いを外されて肩に当る。   「くっ」  乾を地面に弾き飛ばしたものの、堅い物を殴った衝撃で甲がじんと痛んだ。  単純なパワーでは、勝っている自信がある。だが、こういうセンスでは明らかに乾が 上手であることを、改めて認識させられる。   「起きろ」  倒れ込んで肩を押さえて蹲る乾に、冷めた声をかけた。うめき声を出してはいるが、 それが罠であることは明らかだ。   「今更そんな手に引っ掛かると思っているのか?」  これが乾の常套手段であることは、身を持って知っている。   「ったく。やり辛れぇなぁ……。やっぱり俺が不利なんじゃねぇの?」  案の定、乾はケロリとした様子で立ち上がった。不満をこぼす顔は、あからさまに嫌 そうな表情をしている。   「心にもないことを。その手にも引っ掛からんぞ」   「へぇへぇ。やっぱりお見通しですかい。ま、元々んなことは織り込み済みだが    よ」   「ちなみに──」   「どうせ、挑発も無駄だって言うんだろ?わかってんよ。一応やってみただけだっ    ての。ちつ。引っ掛かってくれた頃は、苦もなく勝てたのによ」   「いつの話だ。それは」   「さあね。わざわざ覚えてるわきゃねえだろうが、そんなこたぁ。もう随分と昔の    話なんじゃねえの?」   「春野と知り合う前、なのは確実だな?」   「…………だ、だからどうしたよ!?」   「なに」  一言だけ残してぬっと近づいた俺は、乾の言葉の切れ端を間近で聞いた。が、繰り出 した拳が当たらないことは、すぐにわかった。乾の回避行動が先程よりも早い。   「あっぶね。おい巽。おめえ、いつの間にんな姑息な手を覚えやがったんだよ」  それでも、カウンターを飛ばす程の余裕がないところからすると、多少は動揺があっ たように見える。   「さあな。誰かさんの影響かもな。朱に交わればなんとやらというヤツかもしれ    ん」   「うっせ。この筋肉バカ」   「まあ、大して効果はなかったようだが」  そのまま挑発に引っかかってこないものかと嫌みを込めたが、さすがに本家本元には 通じないようだ。鼻で笑われた。   「当たりめえだろうが。ソレは俺の十八番だってぇの。第一──」   「確かに、今更わかり切ったことではあるな」   「ま、長げえ付き合いだかんな。わかっちまってるよな、お互いに」   「その割りには声が浮いていたぞ?乾」  最後の『お互いに』が強調されたことに動じず、逆に茶化す。その話題では、俺が有 利はなず。乾をこの場に呼び出した時点で、俺に迷うところはない。   「そ、そりゃあ今更、んなこと言われると思ってなかったからだろうが──」  再び焦る素振りを見せられたが、今度は動かなかった。どうも不自然だ。乾のこと だ、同じ手で仕返しをしようとしているに違いない。   「──っと」  案の上、乾は突然後ろに下がる。   「んだよ。今度はこねえのかよ」  そして、全く動いていない俺を確認して不満を漏らした。   「ふん。7年間、たっぷりと後ろで見させてもらったからな」   「へいへい。ほんじゃま、しゃあねえから真っ向勝負といきますかい」   「ああ」   「言っとくが、こっちも技は知り尽くしてんかんな。真っ向なら当たる気はしねえ    ぜ?」   「わかってるさ」   「そうかい。で──勝つつもりでいるのかよ。巽」   「半分はな。残りだって──」  言い終わらないうちに、俺は後ろに下げて構えていた右の足を踏み出した。今度は乾 も、タイミングを取るかように、だらりと下げた腕を肩から縦に揺すっている。  カウンターに備えて、低く屈んだ姿勢のままで肩から乾の懐目がけて突進した。乾相 手にはギリギリまで間合いを詰めるのが有効。本当は掴む方が良いのだが、今回は掴ん でもすることに困ってしまう。   「ちっ」  聞こえた舌打ちが、乾が効果的な反撃を諦めたことを示す。  かといって、むざむざとやられるような乾ではない。カウンターを取るのを諦めた乾 は、既に回避体勢に入っている。   「──負けるつもりはないさ」  返答の続きを口にしながら、折り畳んだ腕を腰の捻りを使って右肩から突き出す。同 時に、腹部に力を込める準備と、衝撃への心づもりをする。   「俺もだ」  反撃は、思った通りの方向からきた。振った腕をくぐり抜けて、空いた脇腹を横薙ぎ にする蹴り。タイミングのせいで踏み込みはやや浅いので、少しでもダメージを当てて おこうという程度の反撃だ。これならば、筋肉を締めればほとんどダメージなくやり過 ごせる。乾にしてもそのつもりだろうから、お互い可もなく不可もなくといったところ だろう。   「ふんっ」  気合の息を吐いたところに、乾の臑が当たる。問題があるまでではないが、思ったよ りも打撃に重さがあったことに少々驚いた。   (なるほど)  ニヤリと顔に出す代わりに、今踏み込んだ足を軸にして、さらに逆の足を乾の方に踏 み込む。今度は反撃の機会はないはずだ。   「うぇ──」  少なくはない余裕を持って飛びのいた乾が漏らした声からは、驚いている様子は感じ られなかった。敢えて表すとすれば、嫌なものを見てしまったという感情が込められて いたように思える。   「──っと」  一呼吸。いや、半呼吸を挟んで、乾は逆に懐に飛び込んできた。  十分に引きつけてから、一歩後ろに引く。乾の攻めに対して先に動いては、簡単に合 わせられてしまう。ぎりぎりまで引きつけることで、選択肢を奪うことが重要だ。  ヒュっ!  一歩引いたことで空いた空間を通り過ぎるフック気味のリバーブローが、上半身を唯 一覆うTシャツを揺らした。   「むっ!?」  思ったよりも踏み込みが深くない。それはが示すのは、まだ本命がくるということ。  だが、初撃も十分な力があるように見えた。少なくとも、まともに食らえば体勢を崩 されていたのは間違いない。だからこそフェイントとは見ずに躱したのだ。風切り音か らしても、その判断は正しかったと思う。   (さすがにやるっ!)  つまりそれは、コンビネーションだということ。それも、どちらかでさえ食らうこと を許さないもの。  組み立てや意図は、先程俺が仕掛けたのとさほど変わらない。だが、両方を避けるこ とが難しいという点が、決定的に違う。一撃目を捨てて、反撃を許さないように接近を 図るのが精一杯な俺に対し、乾は初撃から有効打を狙っていた。そして、その初撃を躱 してしまった今となっては、本命を避け切れない。ブロックもまともなものをできるタ イミングではない。いや、乾であれば両方とも問題なく避けるのかもしれない。だが、 俺では無理だ。さらに言えば、乾は俺のよりも遥かに鋭くキれる。ともすれば、三の 矢、四の矢までもないとは言い切れない。   (ならば──)  続こうとしているのは、首から後頭部を狙ってくる脚。辛うじて残されていた一瞬の 猶予の間に、引いたばかりの足で後ろに地面を蹴って肩を前に突き出させる。一歩踏み 込んで間合いをずらすのと同時に、少しでもダメージの薄い場所に当てさせる算段だ。 当たりどころを外してさえいれば、決定打になってしまうことはない。むろん、それな りのダメージの覚悟は必要だが、現状では一番ましな結果を生みそうな手だ。うまくい けば、乾の脚にもダメージを残せるかもしれない。  もしそれが叶うなら、多少のダメージなど痛みなど安いものだ。スタミナを奪うなり ダメージを溜めるなり、どちらにしても乾の動きが止められるかどうかが勝負の全てと なる。決定打を貰う前にそれができれば俺の勝ち、できなければ負け。  乾の左脚が唸りを発てて迫る──が、ぎりぎり間に合った。臑の足よりも膝に近い部 分が肩口を叩く。   「ちっ」   「むっ!?」  乾の舌打ちは二度目。俺が唸るのも、同じく二度目。回を重ねた分だけ、共に重さを 含む。  反応からすると、乾に手ごたえがないのは確かだろう。身長差のお陰もあって、一歩 で当たりどころをかなり狂わせることができた。間違いなく威力は殺せているはずだ。 だが、衝撃は思っていたよりもかなり大きい。先程感じたパワーの増加も加味してはい たが、これほどとは思っていなかった。   (くぅ──)  乾が離れたのを確認して、痺れる上腕を無理矢理上げて肩を回す。ダメージがあるこ とを教えてしまうが、右は利腕だ。背に腹は変えられない。いざの時に動きが遅れるの は致命的になりかねない。  幸い追撃はなかった。乾は乾で、今振った方の足を地面で叩いている。こちらの思惑 も、それなりに叶ったというわけだろう。   「んだよ。ウマくなりやがって」  吐き捨てる乾は、心底厭そうだった。   「お前こそ、随分とパワーが上がったじゃないか」  会話が時間稼ぎであるとは思ったが、未だ感覚が戻らない腕からして俺も時間が欲し い。乾にダメージがあるとはいえ、軽々しく動かず話に乗ることにした。   「……ふん。人の動き盗んでるヤツがなに言ってんだか」   「だが、まだまだか」   「ったりめえだ。んなに簡単に真似されてたまるか」   「そろそろ追いついたかと思っていたんだが」   「普段の雑魚相手に、んな面倒臭いことする訳ねえだろうが。取っておきだ取って    おき」   「そうか」   「それをちゃっかり止めやがって……。決めるつもりだったのによ」   「間一髪だったがな」   「あ?十分だろうが。っんとやりにくくなりやがって」   「なにを言う。この通り、しっかり効いてるぞ?」  ようやく動かせるようになった指を、鈍く握り開きして見せる。   「けっ。俺にダメージがあるようじゃ相打ち以下だっての。この流れを続けて、お    めえに勝てる訳がねえだろうが」   「なに。俺が一発受け切れなくなったところで終わりだ。まともに食らったら相当    キツそうだしな。お前だってもそう考えてるんだろう?」   「まあな」  乾の返事は、やはりまんざらでもないといった口調だった。   「それもこれも──」   「──いつか、こんな日がくるんじゃねぇかと思ってな」   「努力なんてお前らしくもない」  口に出されはしなかったものの、隠れて筋トレをしていたということだろう。頑張る といったことを嫌がる乾にしては、珍しいことだ。   「へんっ。俺だってそんなことはしたくねぇし、する必要もねぇよ。……相手がお    まえじゃなきゃな」   「あの日から……か」   「……あの姿見せられちゃぁな」  『あの日』。場の空気を変えた一言の示すものは、二人が共有する記憶。   「ああ」   「可愛い……かったよな」   「まったくだ。目を疑ったさ」  7年前の、夏のある日。   「嫌々だった筈なのによぉ」   「今じゃ、自分から守りたいと思うようになってるんだろ?」  帰ろうと勧める俺達の言葉には耳も貸さず、必死に涙を堪えるまりあさん。   「じゃなきゃ、今ここにいるわけがねえだろうが」   「それはそうだ」  そのときから俺は、そして乾は、まりあさんに惚れている。どちらも抜け駆けするこ となく、逆にお互いに遠慮しながら。   「なあ」   「なんだ」   「どう思う?」   「なにをだ」  そして、当のまりあさんは。   「わかってんだろ?春野だよ春野。あの忌忌しい春野明生だよ」  春野に想いを寄せている。あの日の前日から、今も変わらずに。  恐らく、まりあさん本人にも自覚はないだろう。それどころか、指摘すれば烈火のご とく怒り出すに違いない。憎いんでいるつもりなのだ。あの日から見ている俺たちにし てみれば、見え見えの想いが裏にあるにもかかわらず。   「……正直、厳しいと思う」  答えは、客観的に判断しての結果だった。俺自身の願望は入れてない。よしんば入っ ていたとしても、微々たる程度。天秤に乗せたところで傾かせることなど叶わない。   「やっぱか」   「いがみ合ってたのも勿論だが、それ以上に……な」   「夏森がどうしようもねえ、か」   「ああ」  夏森永久。転校してきてからのベッタリ振りは、まりあさんの嫉妬を一層買う程だ。 たとえこれまでの経緯がなかったとしても、春野が夏森から目を離してまりあさんに向 けるとは、到底思えない。   「ずっこいよなあいつ。夏森に佐倉に吉野……その上、まりあさんまでときやが    る」   「なんだ。お前、あの三人組にも興味があるのか?」   「吉野はともかく、後の二人はなかなかレベル高いんじゃねぇか?」   「敢えて夏森も残すあたりがお前らしいな、乾。意地っ張りでキツめの性格の方が    好みじゃなかったのか?佐倉なんか」   「うっせぇ。おまえは我が儘な吉野だろうが」   「さあ、どうだかな」  誤魔化したものの、ある程度は当たっている。三人の中で一番気にかかるのは、確か に吉野ではある。あくまでも三人の中ではの話だが。   「否定しないあたりがおまえらしいじゃねえか。巽」   「ふん」  理由はかなり簡単だ。我が儘に振り回していくれる女の方が、俺の性に合っていると いうだけだ。そう、まりあさんのように。   「まあ、もしお互いに本命がそうだったら、こんなことはしてねえわな」   「そうだな」   「大本命過ぎんだよなぁ……。他が霞むぐらいによ」   「ぼやくことじゃあるまい?一途で良いじゃないか」   「望みがありゃあな」   「なんだ?もう白旗か?」  ありえない。揚げるのなら、この7年間にいつでも揚げられた。砕けることのできな い恋を煮詰めるまりあさんを、見てきたのだから。望みがないことで白旗を揚げるなん て、ありえないことだ。俺にしても、乾にしても。だからこそ、今ここにいる。   「あ?なに言ってやがる。誰も譲るだなんて言ってねえだろ?」   「同じことだ。今更そんなことを考えてる奴に、負ける気はしない」   「お?言うねぇ。俺にだって覚悟ぐらい有らぁな」   「ならば、ボチボチ続きといこうか」   「おおとも」   「負けてから文句は言うな?」   「そっくり返すぜ。手ぇ繋いでる俺らを見て、泣いたりするんじゃねぇぞ?」   「乙女チックなやつめ」   「う、うっせい!ならてめえはどうしたいってんだよ?」   「隣で守れればそれで良いさ」   「けっ。つまんねぇやつ。もっと気の利いたこと思いつかねぇのかよ」   「夢はささやかな方が叶うもんだ」  言葉はそこで途切れた。挟まれた空気が張る。  ややあって、乾が脚に力を溜める。俺も迎え撃つ態勢を取る。  この勝負は負けられない。たとえ、相手が乾であろうとも。  明け渡すわけにはいかないのだ。  この、当たって砕ける役だけは。 ─── 'I' The Third Side of 'MTI' ───  ジャッ  巽がついた足が地面を鳴らす音が聞こえた。   「へん……っ」  十分な距離が取れていることを確認して、俺は当たるもんかとばかりの嘲る声をあげ る。  が、正直なところではかなりヤバイ。今だって紙一重で交わせたというのが現実だ。   「……ふん。そのわりは、随分と息が上がってるじゃないか?乾──っ」  理由は単純。始めてからボチボチ一時間。すっかりスタミナが尽き始めているから だ。   (ちっ)    胸の裡で舌打ちをする。消耗戦という巽の手に、すっかり嵌った。とはいっても、そ うとしかなりえないのはわかってたし、そこまでは予想の範疇。それに、俺だって特別 スタミナが足りないわけじゃない。相手が巽でなければ、問題にならないぐらいには持 っているつもりだ。   (伊達にデカくなっただけじゃねえってことか)  だが、こいつ相手ではそうもいかなかった。もちろんある程度は覚悟はしていたが、 にしてもここまで追い詰められるとは思っちゃいなかった。想定外なのは、馬鹿みたい なタフさ。それに、図体に似合わない鋭い動きと、こちらが息をつこうかという絶妙な タイミングでの追い撃ち。これほどテクを上げていたとは驚きだ。   (まあ、仕方ないっちゃ仕方ねえがな)  ちらりと巽の姿に目をやる。最後に直接やり合ったのはガキのころだ。あのころから 巽はデカかったとはいえ、今ほど俺と差があったわけじゃない。それに、力任せの戦い しか知らなかった巽に色々と教え込んだのは俺だ。   「んだよ。おまえだって……っ、随分と動き、鈍くなってきてんぞ」  そう。手応えもないわけじゃない。巽にだって間違いなくダメージは溜まってきてい るはず。その証拠に、ちょっと前からあからさまに動きが落ちている。そうじゃなき ゃ、さっき離れようとしたところで仕留めにくるはずだし、その前の蹴り自体を避けら れなかっただろう。確信があるわけじゃないが、俺と同じぐらいにはあいつもヤバそう だ。   「おい、巽よう」   「まだ凌ぐ余裕くらいはあるぞ?」   「うっせえな。おまえだって間は欲しいだろが」  短時間の回復効果は俺の方が大きい。そう踏んでの時間稼ぎをあっさりと見破られ て、俺はふてくされる。     「かといって、わざわざ喋る必要もあるまい」   「男二人で見つめ合って、息荒げてるだけよりかはなんぼかマシだっての」   「減らず口を」  やれやれと肩を竦ませながらも、巽は話を切ろうとはしなかった。   「てめえもだ」  どうやら読み通り、巽にしても思い通りに身体が動かなくなっているようだ。理解し たと、合図をニヤリと送る。   「で?」   「あ?」   「……」  状態を把握されたことを意に介する素振りを全く見せることなく、巽は寄せたままじ っと押し黙った。その目が『なにか言うことがあるんじゃないのか?』と訴えてきてい る。   (こいつめ)  内心苦笑した。問いかけていてはいるが、話の内容までわかってのことだろう。話を 切らなかったのも、きっとそのためだ。ってことは、巽としても切り出して欲しい話題 だってことか。   「なぁに……まだやんのかと思ってな」  そこまで読まれてるんなら仕方ない。ならばと、一瞬の躊躇の後で俺はボソッと口に する。   「おまえが負けを認めるというなら、いつでも止めるがな」  待っていましたとばかりに、巽から合図が同じようにニヤリと返された。   「け〜〜っ。なにを言ってんだか。んなことあるわけねえだろうが」  軽口で良いと判断して、おどけて返す。   「そうか。残念だ」  そういう巽にしても、全然残念そうには見えない。俺が負けを認めることがありえな いと、わかりきってのことだろう。   「てめえこそ降参した方が身のためじゃねえか?無駄だろ。これ以上やっても」  もちろん俺としても、巽が降参するなんてことがないことは、十分にわかってる。す る程度の想いならば、こんな七面倒くさい真似なんかしないで譲ってくれるだろうし、 その前に俺が遠慮をするわけもない。   「無駄かどうかは、やって見なければわからんさ。なぁ、乾?」   「はん。ダメージが足にきてる奴にゃぁ言われたかないね」   「ふん」  スタミナ切れを遠回しに指摘されたお返しに、わかりきっている反論をわざわざ口に すると、巽は鼻で笑った。      「……」   「……」   「で、どうするよ?」  会話が途切れて空気に重い色がつき始めたところで、俺はもう一度ボソッと問いかけ る。さっきとは違い、今度は真面目な話として。   「……」  意志はともかくとして、現実的にはこのあたりでやめておいた方が良いんじゃないか と思い始めていた。疲労にしろ痛みにしろ、これ以上はお互い回復しきれなくなる可能 性がある。  それともう一つ。   「ボチボチヤバイよな?」  タイムリミットが迫っていることを、黙っている巽に確認する。どれくらい時間が残 されているか、全然わからない。もう、いつきてもおかしくないはずだ。   「なに。どっちになるにせよ、大してかからんさ」  最後に残された理由を、乾が否定する。肩を大きく回しながら。   「そりゃそうだ」  じっと見据えられた俺は、溜息をついて緊張を解く。これで話はついた。消耗戦は終 わりだ。まどろっこしいことは考えずに、全力でぶつかる。時間的にも体力的にも、こ れが最後。ケリをつける。   「ならば──」   「最後まで付き合えってのか?ったく、物好きな奴だよてめえは」  腕をだらりと下げて、ぐりぐりと動かす。首から肩にかけての疲労を拭うために。も ちろん、再びニヤリとしながら。   「付き合うお前も相当な物好きさ」  続いて屈伸を始めた俺の前で、巽が構えを取った。   「ま、決着がつかないと気味悪りぃかんな。どっちにしても」  立ち上がった俺は、右足のつま先でとんとんと地面を軽く叩く。   「俺が勝つがな」  構えたままで、巽も再びニヤリとした。   「あ?言ってろ、ボケ。勝つのは俺に決まってるだろうが」  大きく吸い込んだ息を勢い良く吐き出す。そして、ほんの少し右に身体を開いて、軽 く重心を下げる。大きく構えはしない。自然体が俺の型だ。   「ふん」  俺の準備が整ったのを見た巽も、最後の気合いを乗せた。それが巽の型だ。  仕掛けはこちらからだ。最後は得意な戦法を取る。巽も当然待つつもりだろう。それ が巽が得意とする戦い方だ。   「うっし。んなら、いくぜ──」  後ろになった足にぐっと力を溜めて、俺は戦いの再開を合図した。顔を見られない自 分にも、わかるように。 ─── 'MTI' The Forth Juvenile Episode of "Tenohirawo, Taiyouni". ───  てのひらの上の液晶画面に送信終了が示されたのを確認して、パチンと蓋を閉めた。 反対の手首に、ストラップを通す。                    「──っ!!?」                    「どうした?」                    「……おい」                    「なん……なるほど」  やるべきことは決まった。山に入るのは夜遅くなってから。それも、きっと吊り橋が 架けられてしまってからだ。そうでないと、たぶん山の入り口で止められる。山の中 は、きっともう旧家の人間で一杯になっている。見張り自体は黙らせれば良いけど、そ の後の危険が多すぎる。橋が架けられてからなら、外から入る人に対しての注意は少 しは薄くなるはずだ。                    「ちっ、やっぱりかよ」                    「で?」                    「ほれ」                    「『公園に集合。』……か」   (もう。ママってば……)  昼前に飛び出していったママを思って溜息をついたけど、恨みには思わなかった。こ こまで大変になったのは、ママのせいもあるけど半分にはなっていないと思う。やっぱ り、わたしの動きが遅かったのが一番の原因。                    「っだぁ〜〜もう。いつもこうだぜ。                     こっちの都合はお構いなしかよ。                     ほんっと人のこと邪魔すんの好きだよな。                     まりあさんは」                    「今に始まったことでもあるまい」                    「そりゃそうだけどよ。                     こんなタイミングで寄こさなくてもよ」  上手く山に入れたとしても、その後にも問題は山積み。自由には動けないだろうか ら、いざというときがくるまで橋の近くで隠れて待つしかない。見つかったらアウトだ し、その前に春野達が捕まってしまえば終わり。                    「『俺が勝つところだったのに』……か?」                    「おめえも同じってか?」                    「長い付き合いだ」   (それぐらいは頑張りなさいよね!?)  無責任だし本末転倒だけど、そこまでは本当に春野に頼るしかない。今となっては、 それは仕方がない。                    「へいへいっと。                     あ〜あ、んだか白けちまった」                    「すまんな。無駄骨折らせて」                    「あ?怒んぞ、てめえ。んなこたねえだろ」   (……大事な、夏森さんのためなんでしょ?)  もう一度頼ったそのことは、やっぱりわたしの中心を締め付ける。                    「……同じ……か」                    「長い付き合いってことなんじゃねぇの?                     『勝ったら』、だろ。条件は」                    「そうだ」   (もし出てこなかったら、わたしのほうが許さないから)  でも、今度はそこで立ち止まらない。                    「『どちらも勝てませんでした。ちゃんちゃ                     ん』──と。ま、すっきりとはしたわな。                     ってか、そう思っとくしかなかんべ」                     「ああ」   (そのときは覚悟しなさいよ?)  立ち止まれない。                    「さってと。おい、おまえどうするよ」                    「15分ってところか?」                    「いや、10分の方が良くねえか?」                    「そうか」   (二度と許してあげないから)  他に誰もいない。                    「おまえはきっちり来いよ?                     俺は2分ほど遅れてくるかんな」                    「わかった」                    「そうと決まったらさっさと行くぜ。                     鉢合わせちまう」                    「せっかちな奴め」   (今までよりもっとイジメてあげるんだから)  時間もない。                    「……よう」                    「なんだ?」   (それがいやなら、絶対に出てきなさいよね?)  それに。                    「引き分けは──今回だけだからな」   (わたしにできることは、全部するから)  もう迷いはない。                    「乾」                    「あ?」                    「頼りにしてるぞ」                    「な〜にを今更。                     んなの、10年も前からだっての。                     じゃなきゃ預けられるわけねえだろうが。                     背中と──まりあさんの半分をよ」                    「ふん」                    「んじゃ、12分後な」                    「ああ」   「ああもうっ」  わたしは頭を振った。   「こんなの、全然わたしらしくないじゃない!」  両方のてのひらで、頬をぺちぺちと叩く。   「あなたのせいだからね?」  空は、もう赤く染まっていた。   「ね、春野──」  でも、わたしはぐっと腕を上に伸ばした。組んだ両手を、さっきまでたいようがあっ た場所に向けて。高い場所に、言えない想いを預けるように。   「さてと」  腕に従って降りてきた携帯が腿に与えた、浅く軽い痛みを合図にして足を踏み出す。   「当っ然、待たせたりなんかしないわよね」  二人への文句を口にしながら。    あの、高台の公園に向けて。                                     Fin. -----------------------------------------------------------------------------                『てのひらを、たいように』は Clear の著作です。                    当方には Clear とは関わりはありません。 -----------------------------------------------------------------------------  けもりん   URL http://www2.tokai.or.jp/kemo/   mailto kemorine@tokai.or.jp  無断での転載はご遠慮くださいませ〜。……念のため。(笑