ほとんど自由落下に近い速度で、受話器を下ろした。  「……」  黙ったまま、前のめりに倒れそうな身体を受話器についた両手で支える。プラスチッ クの軋む、硬い音がした。  目眩がした。真っ暗になってるのに、世界がぐるぐると回っている。歯も小刻みに鳴 っている。  それでも、「重いと言うほどの体重はないはずだけど、さすがに壊しちゃうかもしれ ない」──なんていう変なことには頭が回って、もたもたと手を離して電話台の方に載 せ替えた。  荒く、けれどの浅くなっていた息を、なんとか整えようと深呼吸をしてみる。けれ ど、胸の途中に閊えている熱い痛みが、それを邪魔してくれた。  仕方なく、私はゆっくりと頭を上げた。このままここにいてもしょうがない。ここで こうしていてもしょうがないし、部屋に戻ろう。枕に顔を埋めれば、思いっきり叫ぶこ とだってできる。  手のひらで押しつぶしていた薄っぺらな藁半紙を、折りたたんでポケットに押し込ん だ。そして一歩一歩、決して上手く動いてくれない足を無理に働かせて、階段に向か う。  途中、一回一回の肺の収縮で、胸がキリキリと痛んだ。まるで、千本の針が胸のなか にあるみたいだ。  三段目に足を乗せようとしたところで、私はよろめいた。右手を壁についたけど、体 を支えてくれるだけの力はない。勢いあってもたれた肩が化粧壁を削って、ぱらぱらと 粉が落ちる。  (──怒られちゃうかな)  相変わらず頭だけが変に冷静になっていて、そんなことを考える。でも、私はそのま ま足を上げた。冷静にはなっているけれど、気に止める余裕なんてない。しゃがみ込ん だりなんかしたら、一人で立ち上がる自信さえもなかった。  そして私は、やっとの思いで階段を昇り切った。  ===================================================================   それは舞い散る桜のように サイドストーリー  「re-start」 Renewal                           〜 雪村 小町 〜                          Written By けもりん  ===================================================================  体を右に向けて、正面にある部屋のノブに寄りかかるように手を掛ける。全体重でノ ブをもぎ取られそうになって、ドアがギシリと悲鳴を上げる。その音が、やけに大きく 聞こえた。  部屋の中に押し込んだドアと一緒に、私は倒れ込むように部屋に入った。両膝を突い た姿勢のまま、よたよたと身体の向きを変えて両手でドアを押す。  ガチャン  (もう少し──)  目指すベッドは、もう目と鼻の先。そうは思ったけど、閉じるドアの音を聞いた私 は、力なく額をドアに付けた。その反動で降り零された涙が、畳に落ちてパタパタと音 を立てる。滲む視界の中に、シミが一つ二つ──続いて次々に増えて行く。  ───どこまで聞いたのかさえも、覚えていなかった。  覚えているのは、大声で聞き返したということ。そしてそれが、肯定されたというこ と。答える先輩のお母さんの声は、苦々しかった。  「あ……ペン、忘れて来ちゃいました……」  突然、メモを取るのにつかったシャープペンシルを電話のところに忘れて来たことを 思い出した。思わず口に出す。きっと、その方が楽だったから。そしてどうしてか敬語 になってしまったのは、今の私が話しかけたい相手が先輩だったからだと思う。  「取りに行かないと……いけませんね〜」  色の無い声を出す。できるだけ感情を表に出さないように。変に冷静に思い出せたこ とではあったけれど、さっきまでと違って関係のないことじゃなかったから。  「いただいたばかりですもんね……」  それは、昨日。3月13日に、先輩からもらったものだった。本当は一日早いのだけ ど、今日のことをしつこく念を押す私に、先輩が差し出したものだ。嫌々──だったの かもしれないけど。  「なくしちゃったりしたら、どんな目にあわされるかわかったもんじゃないです   し」  できるだけ淡々と、口を動かした。そうじゃないと、今にも溢れ出していきそうだっ たから。かといって、黙ってるのはもっとダメ。少しずつゆっくりと、刺激しないよう に抜いて行かないと、爆発しそうだった。  でも──駄目だった。私の最後の抵抗は、ないも同然だった。  「……せっかく……っ、先輩がっ、お返しに──」  ぐんぐんとふくらんでいく胸の閊えが喉の奥からせり上がってきて、私の言葉を細切 れにして押し出していく。  「初めてのお返しを、くれたんですからぁ──っ」  4つ、そして8つ。  「『大切にします』って、お約束したんですからっ」  後に続いて、畳の染みがとめどもなく増えていく。  「最後の思い出に……なるかもしれないんですからぁっっ!」  頬には、すっかり流れと呼んで良いものを感じるようになっていた。  「……ぅ……っ……」  胸の痛みを奥歯で噛み殺しながら、私は手をスカートのポケットに滑り込ませた。  そこには、かさかさとした感触があった。裏向きに四つ折にされていたそれを、ポケ ットから引き出して目の前でゆっくりと開く。それは、今日学校で配られた進路希望調 査書だった。  『第一希望:』に続く下線の上、滲んだ視界の中に『桜坂学園』の文字が見える。薄 く、今にも消えそうな字で。H6だなんて、見たこともない芯のせいだ。  そして、隅には『6』で止まってしまっている三桁の数字。それが電話番号であるこ とは、書いた本人だから思い知っている。  『・・・ちょっ・・・0467・・って!? どこなんですか、それ!?』  本当は聞くまでもないことだった。いや、どこであるかなんて聞いたってしょうがな いことだった。実際に何という市なのかは知らない。けれど、そんなことには意味は無 かった。  私は知っている。市外局番が、基本的には東から順に大きくなっていくようにつけら れていることを。だってそれは、いつだったか先輩が自慢げに聞かせてくれたことだっ たのだから。  だから私は、すぐに理解した。慌てて聞き返した。信じられない気持ちと、信じたく ないという気持ちに我を失いながら。先輩のお母さんが嘘なんて言うわけはなくて、答 えが絶望邸なものであることを知りながらも。  0467──それが、今の先輩の電話番号。つまりそれは、先輩がどこか遠く、それ も休みの日に戻るどころか、お正月にだって帰省するのを躊躇うぐらいの場所に行って しまったことを示していた。私にはなにも言わずに。  耐えかねなくなった私の手の中で、進路希望調査書がクシャリと潰れた。私はそれを、 後ろに向かって放る。どこに落ちるのかなんて知らない。とにかく八つ当たりがした かっただけだ。  ややあって、畳にぶつかる軽い音が後ろから聞こえた。それが合図だった。  「どうしてっ──ですかぁっ!?」  私は叫んだ。  抑えていた力がくたびれて、内側からの圧力に一気に負けた。 (どうしてなんですかぁっ!)  もう一度。  けれど今度は口がパクパクと開いただけで、声は出なかった。  「……ぅあ……ぐ……っ」  代わりに喉の奥から出ていくのは、涙に濡れた呻き。  (雪村が悪い娘でしたか? お邪魔でしたでしょうか?)  けど、そのまま続ける。  (確かに雪村は先輩に比べればお馬鹿です。成績なんて真ん中よりも下です。です   から先輩と同じ学校だなんていうのは、到底無理な話なのはわかっています。け   れどなにも……)  一度涙を飲み込んだ。想いを抑えるためではなく、吹き出させる準備の為に。  (なにも、そんな遠くに行ってしまわなくても良いじゃないですか……。追いかけ   ることぐらい、夢を見させてくれることぐらい、させてくださいよ! それに、   どうして教えてくれなかったんですか。昨日だって、何にも言ってなかったじゃ   ないですか。それなのに、それなのに、どうしていなくなっちゃうんですかっ!?   こんなに急に、どうしてですか? 本当に、せめて、さよならを言わせてくれる   ぐらいしても良かったじゃないですか! 先輩は、雪村の気持ちだって知ってい   るはずです。確かに調子に乗っていました。一番近いんだって思ってました。そ   れはそうですよ。だって、もう何年も隣にいたんですよ? 幼馴染なんですよ?   勘違いだってしたくなりますよ。でも、嫌だったのならば、どうしてもっと早く   突き放してくれなかったんですか? 雪村の、私の気持ちは、もう後戻りできな   いところにまで来てしまっているんですよ? ひどいです。あんまりです)  一気にまくし立てると、吐き出すのと吸い込むのとが不均衡な呼吸のせいで頭の中が 悲鳴を上げた。目眩とともに、目の前が白く霞む。引っ掛かりのない木の板から、額が ずり落ちる。下がった頭の重みに負けて、爪が追うように扉をなぞった。私はそのまま 引きずられるようにドアの前にうずくまった。  (嫌いですっ。もう。先輩なんて、大っ嫌いです。  それでも止まらない。いや、止められない。  (一生、恨んじゃいます。しりませんよ? 私の恨みは、怖いですよ? 七兆年先   までも、恨み──つづけますよ? だから、お願いですから、戻って来て……く   ださいよぉ……)  肩で粗くする息の合間に、切れ切れに叫んだ。  (せめてちゃんと、お別れを……言わせてくださいよ……。こんなんじゃ、こんな   んじゃ私、私……終わらせられないじゃないですかぁっ!!)  握った手の腹で、力一杯畳を叩いた。その衝撃でか、張り詰めていたなにかが弾けた のを感じた。詰め込まれていた痛みが、体中を包んでいく。力が抜ける。体から、そし て心から。  ふらりと立ち上がった。さっきまで立ち上がろうとしてもできなかったのは嘘みたい に、簡単に身体は起きあがった。でも、まるでなにかに操られるようだと、自分で感じ たくらい。  一歩二歩。歩くというよりはよろめいて、ベッドに近づいていく。そしてなににも抗 うことなく、ベッドに沈み込んだ。顔が、ようやく求めていた枕に被る。  でも──涙は出なかった。泣こうと思うのに、その元気すらでないみたいだった。私 のどこかに、穴が空いてしまってしまっている──っていう感じ。  「とっくの昔から、あきらめる覚悟はできてたんです」  ポツリ。  意識をしていない呟きが、私の口から漏れる。  「もちろん嫌です。けれど、もし、先輩が私のこと嫌いなら──」  それは、本当のこと。  「他の人を好きになってしまったのなら」  けれど、覚悟だけで絶対に嫌だったこと。  「ちゃんとあきらめるようと思ってたんですよ?」  そんな日は絶対に来ないって、不安になるたびに自分に言い聞かせてたこと。  「だって、だって、私は先輩のことが好きなんですから」  それでもいつも考えてしまっていたこと。  「私のことなんてどうでも良くて、先輩に喜んでいただけるのなら、どんなことだ   ってできましたのに」  でも、絶対に口には出さなかったこと。  「言っていただければ、そばにいることだってやめられましたのに……」  言ってしまえば、現実になる日があることを自分で認めてしまいそうだったから。  「それなのに、どうして何にも言ってくれないんですか……」  元気な私でいることが、二度とできなくなりそうだったから。  「どうして置いてけぼりにするんですか。嫌ですよ……こんなの……」  だから、言わなければいけない日を、ずっと恐れていた言葉。  「……幕ぐらい引かせてくださいよ……」  そして私は──そこで意識を失った。                  ◇  ◇  目を覚ますと、うつ伏せになっていたはずの体は横を向いていた。電気もついていな い部屋の中、窓にかかっているカーテンが茜色に輝いているのが見える。  目の周りが腫れぼったく感じた。でも眠ったせいだろうか、落ち着くことができてい た。体を起こして、脚をベッドから降ろす。  ジクッ  染み込むような痛みが、それでも胸を包んだ。理由はわかっているから、溜息をつい た。それしかできないと、わかってしまっていたから。  伏せた目には、灰色の固まりが飛び込んできた。私の足下に、寂しそうに佇んでい た。さっき握り潰したそれを手を伸ばして拾って、今度はゆっくりと開く。  縦、横、斜め。無数に走っている折り目が、カササと鳴る。  その向こう側に、皺くちゃになった文字が目に入った。私はじっと、それを見つめ る。 そしてしばらくして、  「……嫌……」 思わず出た言葉に、自分で驚いた。でも、驚いたけど、不思議には思わなかった。  「……やっぱり嫌です」  だから、もう一度繰り返す。今度は、私の意志を込めて。  「先輩と離れるなんて、そんなの嫌です」  更にもう一度。  「良い娘になんて、なれません!」  強くきっぱりと言い放った。  「そんなの、先輩だって良くわかってますよね?」  ニコリと、自然に笑みが出た。  「……わかりました」  宛先のない言葉を言って、スクと立ち上がる。  「先輩がその気ならば、私にだって意地があります」  心は決まっていた。  「随分と我慢してきたんですから。もうしません、そんなこと」  さっきまでなにを馬鹿なことをやっていたんだろう──と、自分でも不思議だった。 私らしくもないことを、どうして考えたりしたのだろうか。先輩と出会う前の私にま で、戻る必要なんてなかったのだ。そんなことをしたら、先輩は嫌がるに決まってるん だ。  「七兆光年先までだって、追いかけて見せます。絶対について行きます」  その言葉を最後にして、私はバッと机に着いた。机の上に広げた藁半紙に右手を押し 当てて、皺を取るように伸ばしていく。  それから、手を目の前のペン立てにあるボールペンに伸ばした。  「……」  けれど、私はその手をハッと思いついて止めた。ボールペンなんかじゃ、全然もの足 りないんだと。  (うん)  頷いて、手を戻す。そして、机の引出しを勢い良く開けた。急に起こされた中の物た ちが、ガチャガチャと不満げに鳴く。  けれど私は、なにも気にしなかった。迷わずに、一本の黒いペンを掴み取る。それ は、なんにでも書ける油性マジックだ。  外したのは、『極太』と書かれた方のキャップ。  波打つ紙面に離れそうになるペン先を、しっかりと押さえつけた。消しゴムをかける ことなく、薄いシャープペンシルの文字の上に重ねてぐいぐいと文字を書いていく。絶 対に、消えないように。  「参考書、買ってこなくっちゃ」  夕日の色に映し出された灰色の藁半紙の上にデカデカと描かれた文字を見て、頷きな がら言った。その藁半紙を、いつも使っている下敷きに挟む。そこには、こっそりと買 った、鉢巻き姿なのにやる気のなさそうな先輩の姿があった。  第二希望以下は、空欄のままだ。そんなところに書く物なんて、思いもつかない。だ って、私の希望は先輩の傍だけなんだから。  ふと見ると、机に無数の黒い点がついていた。  (シャーペンも取ってきませんとね)  ちょっと気恥ずかしくなって、私は誤魔化すように心の中で呟いた。そして椅子から 腰を上げる。  最後にもう一度机に戻した私の目に映ったのは、カーテン越しの夕日に染められた四 文字だった。                                    Fin. ==============================================================================                 それは舞い散る桜のように は BasiL の著作です。                 けもりん は BasiL とは一切関わりはありません。 ============================================================================== -----------------------------------------------------------------------------  けもりん   URL http://www2.tokai.or.jp/kemo/   mailto kemorine@tokai.or.jp  無断での転載はご遠慮くださいませ〜。……念のため。(笑