---------------------------------------------------------------------------    マリア様がみてる サイドストーリー   『流星群四重奏(カルテット)』                        藤堂 志摩子                        Written by けもりん ---------------------------------------------------------------------------  見上げていたのは――星空だった。吸い込まれそうな暗闇に、光の粒がまばらに灯っ ている。  私の頬を撫でて過ぎる夜風は、もう三月だというのに研ぎ澄まされた冷たい刃のまま だ。ふれた肌に、痛みにも似た痺れを残していく。  金属の手摺りに際限なく温度を奪われている指先には、すっかり感覚はない。  それでも私は――ただ空を見上げていた。  どうしてそうしていたいのかも、なぜそうしているかもわからない。  けれど、動く気にはなれなかった。  栞さまを待って真冬のホームで待ち続けたお姉さまの気持ちが、わかる気がしたから なのかもしれない。噂で聞いただけでしかないけれども、お姉さまも今の私と同じだっ たのかもしれない――なんて思えてしまう。いっそのこと、このまま全部を寒さに削り 取られてしまっても悪くないのかも――と思ってしまっている、今の私と。  このままなら苦しまないで消えられる。確かに寂しくて悲しいのだけれど、今はまだ 苦しくない。本当に苦しさを感じてしまうのはきっと、もっとあと――ふとした日常の 一コマに足りていないことを感じたとき。だから、きっと今が一番楽。  消えることに全く未練がないわけじゃない。他にだって大切なことはあるし、人生の 中では決して珍しくない感傷なんだとも思っている。きっと躓くべきところじゃない。 世界の全てがなくなってしまうわけではないのだから。  でも今の私にとっては、他のことなんか些細に思えてしまっている。すべてかなぐり 捨てて、一緒に消えても良いと思えてしまうほどに。だって少なくとも世界の半分なの だから――お姉さまである、佐藤聖さまは。 「お姉……さま…」  自分でも気づかないうちに呟いていた声が、白い霞になって空に上がっていく。  大都会とは言えないまでも都市に近い夜空に、星は決して多くない。名の知れた一等 星と、条件のとても良い日に二等星の明るいものが見えるくらい。見上げている空がい つになく綺麗なのは、季節外れの澄んだ冷たい空気のおかげなのだろう。媒体として伝 う音さえも凍って落ちてしまったかと思えるほど厳かに、星たちだけが瞬いている。  そんな大気に、私は包まれていた―― 「志摩子」 その耳慣れた抑揚を含んだ粗密波が、凍えた世界を乗り越えて私の中に染み込んでくる まで。  誰の声であるのかなんていうのは、振り向くまでもないことだった。  心を直接くすぐられている――たとえ落ち込んでいても、思わず微笑みたくなるよう なムズ痒い感じ。琴線を悪戯半分に弾かれているような、そんな感覚を与えてくれるの は、たった一人しかいない。 「お姉――さま……」  『どうしてここに?』と続けようと思った言葉は、口から出る代わりに喉につかえて しまった。  ――いるはずない。学校の屋上で出会うことなんて、二度とないはず――お姉さまは 卒業して、私の前からいなくなってしまったのだから。 「ん〜。ちょっとヤボ用」  けれど頭の後ろを掻きながら面倒そうに話す姿と声は、目の前にいる人が間違いなく お姉さまであることを私に教えてくれていた。 「大げさだなぁ、志摩子は。もう会えないとか思ってた? 会うくらいはいつでもでき  るってば」  まだ、たった一週間とちょっと。なのにもう気が遠くなるほど永く聞いていないよう に思える声に揺らされて、心をぎりぎりまで満たしていたものが目元にまで溢れてく る。 「ああもう、泣かない泣かない。志摩子はそんなに弱い子じゃないでしょ?」  そんな私の様子を見たお姉様が、苦笑いに変わる。泣くだなんて思っていなくて困っ てしまった、きっとそんな苦笑い。  乱暴に左右に振った首で、私は言葉に代えて返事をした。  ――強くなんてない。もし強く見えているのだとすれば、それはお姉さまがいてくれ たからだ。いつでも力強く支えてくれたお姉さまがいたから、安心して自分で立つこと ができていただけ。  だから今はもう、涙をこらえるなんて無理だった。慣性に従って宙に舞っていた髪 は、湿り気を見つけて頬に張りついてしまっている。  なのに、   「あるの」 断言するお姉さまの瞳は、自信で一杯だった。まるで私を完全に信頼してくれているか のような、揺るがない瞳。 「妹なんだから、私の。そんなにヤワな娘を妹にした覚えはないわよ? だから――  一つお話をしてあげるわね」  そしてなだめるように私を諭すと、その瞳を上――さっきまで私が見ていた星空―― に向けた。 「――星のお話」 「お姉……さま?」  聞き返してしまったのは、お姉さまと星に脈絡が感じられなかったから。 「うん。星。ほら、あそこの赤い星見える? ちょっとオレンジ色っぽい明るいヤツ」 「あれ、でしょうか?」  それでもつられるように視線を空に戻した私は、当たり前のように話を進めるお姉さ まに流されるまま、おずおずと空を指した。その先には、まばらに見える周りの星たち よりも一際明るく、赤い星が光を放っている。 「うん、あれあれ。アンタレス」  すぐ隣に、いつの間にかお姉さまが移っていた。かがみ込んで私の指の先に視線を合 わせるお姉さまの、声と柔らかく舞った髪が耳元をくすぐる。 「アンタレスって……蠍座ですよね? 確か」  その星のことは、ついこの前に地学の授業で習ったばかりだ。「本当は課程の範囲外 だけど、テストも終わったからね」と言って、先生が趣味の話を始めたときのこと。  だから、わざわざ必要のない確認をしたのは、瞬時に頬を赤くしそうなほど暴れ始め た鼓動を隠すため――とはいっても、きっとお姉さまにはお見通しだと思うのだけど。 「そう。蠍座の主星。大体600光年向こうにある」  けれどもお姉さまは、気づいていたのか、いないふりをしているのか、意識している そぶりを微塵も感じさせず立ち上がった。思わず追いそうになった目を、私は気づかれ ないようにそっと戻す。 「ざっと6000兆km。光でも600年かかる距離ね。  まあ、だから600光年っていうんだけど」 「……」  大した情報を得ることのできない言葉を聞く裏で、私はお姉さまの態度に少しだけ落 胆していた。  裕巳さんが相手だったら――きっと狼狽えたところを茶化すはず。それよりも耳元に 顔を寄せること自体、茶化すのが目的でに違いない。  それなのに私が相手では、そんな他愛のないこともしてくれないのだろうか――なん て考えてしまっていた。もちろん、私と裕巳さんは違っていて、お姉さまはそれをわか ってくれているからこそだというのは理解できている――頭では。 「で、志摩子はなにしてた?」 「――え?」  お姉さまの言葉から意識を離してしまっていた私に、その問いは唐突だった。  答えに窮してお姉さまの顔を見る。  話の繋がりが見えてない。変な考えをしているうちに、いくつか話を聞き漏らしてし まったみたいだった。 「600年前。志摩子はなにしてた?」 「――えっ!?」  今度の小さな叫びは、驚きの声。  聞かれていることはわかった。けれど、つながりが見えないどころの話ではない。  600年前――なにをしていたか。  もちろん生まれる遥か昔のことだ。  その頃から生きている人なんているわけがないし、様子を知ることができる資料さえ 十分に残っているとは言えない。  そんな途方もないことを聞くお姉さまの意図が、全然わからない。もしかしたら、な ぞなぞやとんちの類いなのだろうか。いったい、どんな答えを求めているのだろう。 「お姉さま?」 「そうねえ……日本はまだ銀閣寺を建てた足利義満さんがご存命の頃かな」  考えても仕方ないと判断して聞き返す私に、お姉さまは間を開けることなく答えた。 「私は……何してたんだろうね。すくなくと『佐藤聖』なんて人間は、この世のどこ  にも姿や気配どころか細胞だって存在してなかったのは確かかな。  質量保存の法則っていう便利なものがあるから、水素とか炭素とか、そういうレベ  ルでは存在してたはず。だから、その辺の雑草の一分子だったかもしれないし、も  しかすると義満さん本人の一部だったかもしれない。  まあ、アミノ酸ができていたかどうかはわからないけど」  一旦言葉を止めたお姉さまが、そこで私の目を見る。まるで、私が混乱したままであ ることを確かめるように。 「でね。あのアンタレスの光は、その頃にようやく出発してるの。地球に向けて」  そして期待通りであったのか、目元に嬉しそうなたわみを作って続けた。 「つまり、私のアミノ酸の一欠片さえも存在が危うい時期の光を、私たちは今受け取  っているわけなんだけど――逆に言うと、今アンタレスにいれば義満さんの今際の  際が見られるわけ。もちろん地球の光が届いてるわけもないし、何年かはずれてる  だろうけど。  ――わかる?」 「え、ええ」  突然促されて頷いたものの、私はまだお姉さまの考えがわからないでいた。  もちろん言葉の意味はわかる。それに、論理の組み立ても。  でも、それは机上の空論で、現実に考えるにはあまりに馬鹿げている。そしてそれは お姉さまもわかっているみたいで――だとすると、わざわざ私に話す理由がますますわ からない。 「それはちょっとしたタイムマシン――って言いたくなるけど、そうじゃないと私は  思ってる。観測者が時間を遡るんじゃなくて、逆。過去は今現在でも、物差しで測  れる距離っていう名の物理量で示せる世界のどこかにある」  けれど、話しているお姉さまから感じる雰囲気は、いたって真剣なものだった。こう いうときのお姉さまがただの冗談をいったりしないことぐらいは、ロザリオを架けて過 ごした一年間に知ることができたと思う。 「物理学者に言わせればテンで的はずれなことかもしれないけど、私はそう思ってる。  だから――少なくとも私にとっては、今どこかで義満さんにお迎えが来てる」  そうするとなにか他に言いたいことがあるのだろうけど――そのなにかがわからな い。 「ついでにもう一つ、神様のお話。まあ、リリアンらしくマリア様でも良いのだけど  ね。とにかくマリア様だろうがアラーだろうがゼウスだろうが弥勒菩薩様だろうが  ――と、そんなことお寺の娘さんに言ったら悪いかもしれないけど、ちょっと我慢  してね」  聞いている私は、きっとあいかわらず不可思議な顔をしているのだろう。そういう意 識もあるし、私に口を挟む隙を与えずにお姉さまも矢継ぎ早に話しを進めて―― 「とにかく、『神様』に類するモノが存在するかどうか。志摩子はどう思う?」 と思っていたところに、話が振られた。 「いる……と信じてます」  心でも読まれているんだろうかと訝しがりながら答える私は、でもお姉さまが見通し ていてくれたことに内心喜びを感じた。  同時に感じたのは、さっき持ってしまった嫌やな考えに対する恥ずかしさ。だって、 やっぱりお姉さまは、見通せるぐらい私のことをわかってくれていたのだから。 「敬虔なキリスト教徒だもんね。ああ、けなしてるわけじゃないからね?」 「わかっています」  だから、続く問いかけには、あらかじめお姉さまが予想している通りであろう言葉 を、予想しているだろう笑顔と共に返す。 「うん」  ほんの短い一言だけど、確かにそれはお姉さまからの誉め言葉だった。ちゃんと冷静 になれた私への、『たいへんよくできました』。 「で、不真面目な似非キリスト教徒な私としてはね、間違いなく存在してると思う。  本当に全知全能の力を持って物理的に存在しているかどうかはともかくとして、  存在だけは確実にしてる」  嬉しくてただ話を待つ私であることも、お姉さまはちゃんとわかってくれたみたいだ った。ゆっくりと優しく、聞こうとしている私の心に一つづつ置いていくような口調で 言葉を紡いでくれる。 「何故かっていうと、私と志摩子が出会ったから。神様っていう存在があるがために  実現している宗教っていう枠組みの、本当に端っこに属するリリアンで、志摩子と  出会ったから。少なくとも、この時点で神様は私や志摩子の人生に影響を及ぼして  いて――つまり私の世界に影響を及ぼしているってこと。なら、存在してるはず。  悪い例になっちゃうけど、神様がいるってせいだけで戦争だって起こるんだしね。  だから、神様は十分に私たちの世界にいる」 「……ぁ――」  そこまで聞いて、思わず声が出た。    私の中で、話が繋がっていく。  それも、劇的かつ急速に。  きっとお姉さまが言いたいのは、存在するとかしないかなんて、その程度のことだと いうことだ。いると思えば影響があるし、影響があるんなら、それはもう絶対的にいる って言って良くて、あとは私の認識一つだと。  つまり―― (いなくなったりなんて、しないのですね――私さえ、お姉さまの存在を認識すれば)  言葉にはしなかった。する必要はないと思ったからだ。 「わかった? うん。さすが志摩子。それなら良い。そういうこと。  私の世界には神様だっているし、義満さんは崖っぷち」  簡単に解答を示すお姉さまの目が、ニコリと笑う。  それが、ちゃんとできた答え合わせの合図だった。                  ◇  ◇                   不意に、金属どうしが擦れ合って軋む鈍く重い音が、背後から聞こえてきた。 「ごきげんよう。志摩子さん」  続いて私を呼ぶ声と一緒に、お姉さまではない気配が近づいてくる。 「ごきげんよう。──静さま」  その声が誰のものであるかに気づくまでには、ほんの僅かな間で十分だった。  振り向くと、コンクリートに嵌められた鉄の扉を背に、制服姿の静さま立っていた。 「ごきげんよう」 「ごきげんよう。ロサ・ギガンティア」 「ああ。もう卒業式終わったんだし、聖なり佐藤なり呼んでよ。年寄りは隠居の身な  んだから」  はっと思いついて見ると、お姉さまも制服を着ていた。リリアンの――もう見ること はないと思っていた制服を。 「あら。3月の31日が終わるまではリリアンの生徒──ではありませんでしたっ  け?」 「学園長が言うには、ね。そんなこと誰も実感してないってば」 「心にもないことを仰ってますね? ロサ・ギガンティア?」 「――ばれてる? まあ、それまでは志摩子の優しいお姉さまだからね。名実共に」  私に同意を求めてきたお姉さまの笑みは、「ふふん」という音が一番似つかわしい気 がした。  きっと『優しい』を無理にでも押し通すつもりで浮かべた微笑みなのだろう。  けど私にとっては、優し過ぎるぐらいのお姉さまであることは、そんなことをされな くても十分すぎるほど真実だった。 「ありがとうございます」  なんと答えれば良いのかわからなくて、私は頭を深々と下げた。それぐらいでは全然 表し足りないけれど、お姉さまに少しでも感謝を伝えておきたくなってのことだった。 「まぁた志摩子は――」  ギョバンっ! 「うわ〜。すみませんすみません!」  照れくさそうに苦笑いをするお姉さまの言葉を遮って、場違いなけたたましい音と声 が響く。静さまがゆっくりと開けた扉を、一気に開け放したのだろう。遅れてコンクリ ートに打ち付けられる扉が、更に耳を突く音を立てた。 「ごきげんよう。祐巳ちゃん。  それにしても、相変わらず美味しいタイミングを逃さないねぇ。祐巳ちゃんは」  とても『らしい』登場をした祐巳さんに、大笑いを直前で堪えたお姉さまが声をかけ る。 「ごきげんよう、ロサ・ギガンティア。う〜。いじめないでくださいよ」  場を包んでいたしっとりとした空気が一気に吹き飛んだように感じながら、私は呆然 とそれを見ていた。  余韻を感じていられないのが残念ではあったけれど、嫌と感じたわけじゃない。ぼー っとしてしてしまったのは、むしろ雰囲気の切り替わりについていけなかった私の気持 ちのせいだ。 「いじめてなんてないって。ただ、良いキャラだな〜って褒めただけ。ね? 静さん」 「口元がニヤケてますけど? ロサ・ギガンティア」 「む。それもバレたか」 「ええ。それはもうあっさりと」 「それじゃあ仕方ない」 「だ、そうですよ? ごきげんよう。祐巳さん」 「あ、ごきげよう。静さま。ごきげんよう――志摩子さん」 「え、ええ。ごきげんよう。祐巳さん」 「あれ。どうしたの志摩子さん。なんだかぼーっとしちゃってない?」 「そ・そう? そんなことないと思うけれど」 「う〜ん。そうかなぁ……」  否定はしてみたものの、まだまだ私は混乱したままだった。祐巳さんも納得ができな いのだろう、しげしげと顔を覗き込んでくる。 「くすくす。志摩子さんも面食らったんじゃないかしら? 祐巳さんの騒々しさに」 「ええ〜。なんですかそれ。それじゃあ私、まるで瓢箪から出た駒のようじゃないで  すか。心外だなぁ。そんなことないよね、志摩子さん?」 「ええと、その、あの……そうね。そんなことない」 「う〜っ。志摩子さんまで……」 「あっはっは。祐巳ちゃん、祐巳ちゃん。また百面相してる。やっぱり良いなぁ祐巳  ちゃんは」  フォローのつもりがしどろもどろになってしまった私の言葉に頬を膨らませる祐巳さ んを、お姉さまが更に茶化す。いつもの祐巳さんとお姉さまそのままだ。 「うっ……。ま、まあ、そんなことはおいときましょうよぅ」 「私は別にかまわないけど? 祐巳ちゃんが負けを認めるってなら」 「ええ。もう負けでもなんでも認めますよ。惨敗にならずにすむうちに」 「ということだけど、良い?」 「ええ、私は。負けてもらったほうが面白そうですから」 「はいはい。なんでも言っちゃってください。骨を切らせて身を断たせてもらいます  から」 「祐巳ちゃん、祐巳ちゃん。それ逆。先に骨切らせたら惨敗しちゃう」 「え……?」 「よっし。完勝」 「ふふふふっ」  それにしても、お姉さまも静さまも、随分と冷静だ。私には静さま――いや、お姉さ まがいること自体が驚きだというのに、みんなは全く普通に話している。  それもそのはずだったということを教えてくれたのは、次のみんなの言葉だった。 「そういうことで、そろそろやろうか。志摩子」 「ええ、そうですね。こうして揃ったわけですし」 「待たせてごめんね、志摩子さん」 「やる……ってなにをですか?」  その話は、そもそもこの場にいることが、申し合わせてのことだと聞くことができる ものだった。 「祐〜巳〜ちゃん〜?」 「あのっ、そのっ、知らない方が喜びが大きいと思ったので」 「確かにそうかもしれないですね」 「でも、なんの準備もなく、おいそれとできるかなぁ……」 「志摩子さんなら大丈夫じゃないかしら? 楽器に触れるのが初めてってことでは、  ないでしょうし」 「まあ、祐巳ちゃんにもできるぐらいだからね」 「あら。さすがにその言い方はひどいかなと思いますけど」 「あはは。ごめんごめん」  もちろん、私にはなんのことだか全然わからない。 「あの……」  一向に見えない話に耐えかねて、私は楽しそうなお姉さまたちの話に口を挟んだ。置 いていかれているような気がして、ちょっと寂しいかったのかもしれない。 「ん? なに?」 「それで、いったいなんのことをお話になってるんですか?」  なのに―― 「はい。これ」 ポンと音がしそうなぐらいにあっさりとお姉さまに手渡されたのは、一挺のバイオリン だった。 「祐巳ちゃんがね、みんなで演奏しようって」 「え……」  手渡したのと同じくらいにさらりと言うお姉さまを見る目を、私は思わず見開いた。  もちろんというか、さすがにというべきか、バイオリンなんて今までに弾いたことど ころか触ったこともない――というより、どうしてバイオリンで、しかもお姉さまはど こに持っていたのだろう。 「まあ、良いじゃない。やろうよ。せっかく祐巳ちゃんが声をかけてくれたんだし」 「寂しそうだからですって。ね?」 「静さま、それは言わないでってぇ〜!」  難しい顔をしている私を見て、お姉さまが優しく微笑む。片目だけをつむったのは、 私に『騙されたと思って』と言いたかったのだと思う。言い出した祐巳さんのために も、わざわざ来てくれた静さまのためにも、そしてなにより私のために。 「合奏っていうのはただの思いつきなんだけど……ロサ・ギガンティアも面白そうだ  って言うから……」  決まりが悪そうにして、祐巳さんはお姉さまを横目でちらりと見る。祐巳さんが―― と言うよりは、もしかしたらお姉さまとの共犯、いや、祐巳さんが相談をもちかけたと ころにお姉さまが上手く乗った結果なのかもしれない。 「あ、私のせいにする気? 今までの恩をアダで返そうっていうの? それはいただ  けないなぁ」 「べ・別にそんなわけじゃ」 「そう? あ、さては恩なんてトントンで、返す分なんてないって思ってるとか?」 「怒りますよ、ロサ・ギガンティア。そんなわけないです――って、話の腰を折らな  いでくださいよ」 「あはは」 「もう。『あはは』じゃないですよ、『あはは』じゃ」  証拠というには薄いかもしれないけど、祐巳さんに笑いかけるお姉さまの目元は、本 当に楽しそうだ。こういうときのお姉さまは、なにかが自分の思い通りにいったときに 多い。とっくに、ちょっとした悪戯みたいなことが。 「ともかく、そういう訳でロサ・ギガンティアと静さまにお願いしてみたんだけど  ……迷惑だったかな? やっぱり」 「そんなことはない……けど」  だから、祐巳さんに再度促されて言葉が澱んだのは、なにも社交辞令を言おうとした からじゃない。  お姉さまが一枚噛んでいるということは、どんなつもりであれ、自分から私に会おう としてくれたのだ。それだけで十分に嬉しいのだから、迷惑だなんてことがあるわけな い。それに、お姉さまはきっと沈んでいる私を助けるために祐巳さんの提案に乗ってく れたのだと思う。祐巳さんの――卒業式以来沈んでしまっている私を元気づけようとい う提案に。  だから私が迷ってしまったのは、バイオリンなんて弾いたことがなんてないからだっ た。それは祐巳さんもわかっているはず――というよりも、こんなことを言ったら祐巳 さんに悪いかもしれないけど、祐巳さんが弾けることが驚きだった。それと、静さまは ともかくお姉さまも。  楽譜くらいは読める。  でもピアノとかとは違って、やってみれば出来るというものではないのだと思う。き っと、音を出すこともままならないはずだ。たとえ静さまが教えてくれるにしても、す ぐになにかを演奏できるようになるとは到底思えなかった。 「良かったぁ。迷惑だったらどうしようかって、実は心配しちゃってたんだ。  そういうわけで、ロサ・ギガンティア、静さまっ!」 「あいよん」 「ええ」  それなのに、お姉さまも静さまも、まるで気にすることなく話を進めていく。静さま は私のよりも少し大きめの楽器で、お姉さまはバイオリンと言うのは明らかに大きすぎ るものを膝で挟むように抱えていた。 「本当は志摩子さんたちで第一と第二かなとも思ったんだけど……」 「ま、アドリブじゃ弾けない人に、メロディラインは譲ってあげないとね」 「そういうわけで、ゴメン。志摩子さん。人に言われるとなんか悔しいんだけど」  頬を膨らませながら苦々しくなんていう器用な笑い方をする祐巳さんの手には、私と ちょうど同じくらいの弦楽器。私のがバイオリンだとすると、きっと祐巳さんのもバイ オリンだ。つまりきっと、祐巳さんの言っていた第一と第二。 「まあ、なんとなくだけど、こっちの方が私に合ってる気がするし、気にすることも  ないんじゃない?」 (チェロ――とビオラ……?)  誘われているのが弦楽四重奏であると理解したのは、そのときだった。メロディライ ンは、たしか第一バイオリンが担当するパートだったと思う。心の中でお姉さまと静さ まの持つ楽器の名前を呟いていてみる。 「確かに、そういうイメージありますものね。ロサ・ギガンティアは」 「いぶし銀っぽくてね」  静さまの意見には、私も賛成だった。お姉さまには、バイオリンよりもチェロの方が 似合うと思う。でも、お姉さまの言葉には、ちょっと不満があった。  いぶし銀――というのではない。確かにお姉さまがそれを好きなのはわかっている。 でもその役は、いると良いけれど、いないことが許されないわけではない。主な役割 は、アクセントになることだと思う。  だから、お姉さまは違う。お姉さまは――。 「ん?」  自然に一歩を踏み出してしまっていたことに気づいたのは、こちらを向いたお姉さま の声でだった。 「――私もそう思います。華やかに前に立つよりも、後ろから守ってくれる感じがし  ますから――」  言いながら、私は手にしていたバイオリンを喉元に当てる。私にとってお姉さまは、 決して欠いてはいけない存在なのだ。3つの音色を支えてくれる、チェロの存在のよう に。 「ありがと。褒めすぎのような気がしなくはないけど、素直に受け取っておく。志摩  子がお世辞を言うとも思えないし」 「はい」  もう、気にならなかった。お姉さまが支えてくれるのであれば、きっと私にも弾ける と思えた。不安なんて、すっかりどこかに消えていた。 「ようっし。じゃあ、始めようか。祐巳ちゃん、準備OK?」 「もちろんです。まかせといてください」 「ん」  祐巳さんからの返事に短い声で答えて、お姉さまが弦に当てた弓をゆっくりと引く。 手元から零れ始めたのは、やっぱりゆったりと優しく、力強い音だった。  お互いに示し合わせるように頷き合って、祐巳さんと静さまも続く。お姉さまとは違 う音色が二つ、私に伝わってくる。その中に混ざっている「よっ」とか「はっ」とかい う声が、とても祐巳さんらしい。  ――知らない曲だった。  けれど私も、喉元のひんやりとしたニスの感触を確かめなおして弓を構える。  曲だって関係ない。ただ思うがままに弾けば、お姉さまが――だけじゃなくて、静さ まと祐巳さんが支えてくれるのだという予感に、疑いは全く持たなかった。  そして私は音を重ねた――お姉さまのあとを追いかけるように、時にはお姉さまを誘 うように。  あるいは――お姉さまに誘われるように。            -----------------------------------------             ---------------------------------             -------------------------             -----------------             ---------  気がつけばそこは、音色に釣られて降りてくる星達の引く尾に覆われた、四人だけの 世界になっていた。屋上と空を隔てる柵も、校舎に入る扉も見えなくなっている。  その世界から流星雨に飲み込まれるように一つの音が消えたのは、曲の主題が終わっ たすぐあとだった。  消えたのは――ビオラ。静さまの音。  目を向けると、そこにはもう静さまの姿もなくなっていた。 (え――)  いつの間に――と驚いた私は、祐巳さんに視線を移した。主旋律を辿っていた祐巳さ んの第一バイオリンも、静さまに続いて役割を終えたところだ。  目が合った祐巳さんは、笑顔で小さく頷くと足元から姿を消した。  慌ててお姉さまを見る。  でも――お姉さまの音は残っていた。変わらずに、温く私を包んでくれている。手を 止めてしまった私の音を、まるで残された小節の中にある時間を楽しむかのように待っ てくれていた。  ――唐突に理解した。  静さまと祐巳さんが一足先に消えたのは、きっとお姉さまと私だけの時間を作ってく れるためだったのだと。  わかってる。終止線は、それでももう近い。私に残された音も少ないのだろう。同じ くお姉さまも。 、  私は、再び弓を弦にあてた。別れを惜しむのではなく、いつの間にか温かく私を包む ようになっている空気の最後の一揺れまでもを楽しむために。  曲が終われば、お姉さまも消えてしまう。そして、私も。  だから――楽しもう。そう思った。  そう気づかせてくれたのは、二人になった私たちを空の高くから見守ってくれてい る、赤く輝く一等星だった。                  ◇  ◇                  「あちゃ。ごめん。起こしちゃった?」  まだ上手く働かない頭を上げると、ストーブの前に座り込んだ祐巳さんが、机の向こ うで私の様子を窺っている。  部屋の隅では、据え付けられた金属製のだるまストーブが、室外にまで引き出された 煙突から野太い呻り声を上げていた。 「志摩子さんってば、雪なのにストーブもつけずに寝てるんだもん。風邪ひいちゃう  と思って」  祐巳さんの言葉につられて窓の外を見ると、鉛色の空から白いものが次々と舞い降り ていて、樅の木の葉が僅かに白く色づいている。  私が薔薇の館に着いた時には、空は暗かったがまだ降ってはいなかった。来るときか ら降っていたような祐巳さんの話からすると、私が着いてからすぐに降り出したのかも しれない。  決めてあった集合時間は、午後二時。今の二年生だけに色々と負担をかけるわけにも いかないから、新年度に向けてちょっとした決起集会を三人でしようかと言うことにな っていた。  でも私は、早めのお昼ご飯を済ませて、正午には薔薇の館に着くように家を出た。  予感があった。きっと、我慢できないだろうって。  その姿を見せて、みんなに余計な心配をかけたくはなかった。だから、落ち着くまで は一人でいられるようにと、約束の時間よりも早く行くことにしたのだ。  覚悟はしていたつもりだった。だから、もしかしたら静かな時間を一人で過ごすだけ で良いかもしれないとも考えていた。  けれど、部屋の扉を開けるなり飛び込んで来た光景に、私の心はあっという間にくじ けさせられた。雑多に置かれていた品物の数々が欠けた部屋から受けた衝撃に、お姉さ まの影を感じられなくなった部屋の空虚さに、私の覚悟はなんの抵抗もできなかった。  そして私は、部屋の真ん中にある大きな机によろよろと近づいて、いつも座っていた 椅子に崩れ落ちることしかできなったったのだ。空っぽになってしまっていた隣の席 に、覆い被さるように身体を伏せて。  そのあと、いつの間にか寝てしまっていたらしい。 「ゴメンね。起こしちゃって」 「ううん、別に。そんなことない」 「あ、椅子にでもかけておいてくれれば」  起き上がった私は祐巳さんの言葉に従って、肩にかけられていた祐巳さんお気に入り のダッフルコートを二つに折った。そして伏せていたのとは反対側の椅子の背もたれに かける。  ストーブがまた、一際大きく鳴いた。 「もうっ。どうして寒いとこうなるかなぁ」  しゃがみこんで火力調節つまみと向かう祐巳さんの背中を見ながら、今度は自分のコ ートから腕を抜く。打ちひしがれてしまった私には、コートを脱ぐ余裕さえなかったら しい。ふぅとため息をつきながら、三つ折りにして机に置く。 「で? オリオン座がどうかしたの?」  衣擦れの音が止んだことを察してか、祐巳さんが背中を向けたままで聞いてきた。 「え……?」  なんのことだろう――と、私は頭を巡らせる。昨日のこと一昨日のこと――けれど思 いつかない。オリオン座の話なんて、祐巳さんとしただろうか。 「アンタレスがどうの──って言ってたみたいだけど。夢でも見てたのかな?」  けれど、ベテルギウスと勘違いをしているらしい祐巳さんが口にした星の名前が、消 えかけた記憶の欠片を私の頭に甦らせた。           『うんうん、あれあれ。アンタレス』 「あ……」  思わず声が出たのは、同じ夢での四重奏も思い出したからだった。 (どう……して?)  醒めてから思い返してみると、改めて不思議な夢だったと思う。いくら夢とは言って も、全く意識のなかになかったことを見ることなんてあるのだろうか。絃楽四重奏どこ ろかバイオリンなんて、弾くイメージなんて持ったことはないし、特別興味があるわけ ではない。 「祐巳さん」 「へつ?」  考え込んでいた私がかけた声が不意だったのか、祐巳さんが調子の外れた返事をす る。 「――――なんでもない」  「こんな曲知ってる?」と言って口ずさもうとした旋律は、頭の中に浮かんできてく れなかった。  だから結局、私は考えるのを止めた。夢の中だからとしてしまうのが、きっと一番良 いような気がしたからだ。  曲を覚えていないことは残念だった。でも、はっきりと覚えていることもある。その 理由がはっきりとわかることが。 「ただね――」 「ただ?」 「ありがとう。温かかった」 「お易いご用で」  祐巳さんの「へへへっ」と笑って照れくさそうにする様子は、あまりにも様になって いた。思わず私が笑いだすと、祐巳さんも釣られて笑い出した。  『暖かい』ではなくて『温かい』。  声には現れない二つの言葉の違いに、祐巳さんが気がついてくれたかはわからない。  でも、どっちでも同じかもと思えた。  確かに暖かくもあったのだ。  身を切りつける風から私を守ってくれたのは、きっと祐巳さんが掛けてくれたコート だったのだから。 「ごっめーん。遅くなっちゃった……って、二人してなに笑ってんのよ?」  そんな部屋の中に突然、背後から聞こえたドアノブの回る音と、息せき切らした由乃 さんの声が飛び込んで来た。 「ううん。なんでもないの」  答えながらも、私は笑うのを止めようとはしなかった。止める必要は、どこにもなか ったからだ。  部屋は暖かい。  それに―― (『義満さんは崖っぷち』、ですよね) 三月の夜空に瞬くことのないアンタレスは、確かに今、私の胸の裡に輝いているのだか ら。  ボーッ  笑う二人と拗ねる一人を窘めるように、ストーブはまた、低く温かな呻り声をたて始 めた。                                    ── Fin. ==============================================================================                   マリア様がみてる は 今野緒雪 氏の著作です。        けもりん は 今野緒雪 氏 および 集英社 とは一切関わりはありません。      また本SSは、一部 Wing & Wind および Talk To Talk を参考にしています。               Wing & Wind および Talk To Talk は Clearの著作です。                  けもりん は Clear とは一切関わりはありません。 ============================================================================== ------------------------------------------------------------------------------  けもりん   URL http://www2.tokai.or.jp/kemo/   mailto kemorine@tokai.or.jp  無断での転載はご遠慮くださいませ〜。……念のため。(笑 ------------------------------------------------------------------------------  志摩子さん視点……ってこんなで良いのかなぁ。(苦笑  ルビが振れないと、ロサ・ギガンティアとかって表記難しいですね。  や、それ以前に祐巳って聖さまのことを白薔薇様で呼んでたか不安です。  ちなみに夢の中で三人が弾いた曲は「流星群の向こうに(c)Clear」のArranged by  けもりん です♪  9000HIT時の切りリク品で、SSは曲の方が上手くできなかった誤魔化しのオマケ♪(ぉ  結構昔のものなので、リメイクは結構手間取りました。  曲データも残ってはいますが……や、黒歴史なのでお蔵入り予定☆  出すとしても、リハビリついでにリマスタリングしないと……。(汗 ------------------------------------------------------------------------------