キュッ
左方向に廻した蛇口が、小さな音を立てる。
その音を確認して、僕は正面の鏡に顔を向けた。
そして、今日も怒った顔をちゃんと作れることを確認する。
ボクは怒ってないといけないから。
みさきを支えてあげたいから。
みさきの・・・言い訳を支えてあげたいから。
だからボクは、無理に怒った顔を作る。
そのことが笑顔を作ることよりも辛いことであるのは、もう散々思い知った。
「頑張らないとね」
鏡に映ったボクの目を見つめて呟く。
一番つらいのは、みさきのはずなのだから。
そう。
ボクは気がついている。
みさきの気持ちに。
みさきも、ボクと同じように怒っている振りをしているだけだということに。
本当は狭川先輩が好きだということを、必死に押さえつけていることに。
それは、ボクもしてきたことだから。
笑うのか怒るのかの違いはあるけれど、やっていること自体は変わらない。
そして理由も。
だから、今のみさきの状態もわかる。
この何日かはボクと話しているときでも、みさきがボーっとしていることが多くなった。
誰かを探しているのだということには、すぐに気がついた。
そして見つけた瞬間、表情を硬くする前に、嬉しいという気持ちになってしまっていることにも。
それが、限界を表していることも。
みさきを送り出した日のボクと、同じところまで追い込まれていることも。
「捨てたもんじゃないと思うけどな、片想いも」
頭に萩谷先輩の言葉が浮かぶ。
ボクはそう思うことができた。
萩谷先輩に背中を押されることで。
けど、みさきはそう思えるだろうか。
恋人を経過した二人の間にも、それは成り立つのだろうか。
「片想いでも良いよ」
ボクもみさきに言ってあげたいと思っていた。
けど、ボクにはやっぱりできないでいた。
(聞いてあげることも・・・できてないもんね)
みさきだって、話せば少しは楽になると思う。
だけど、みさきは何にも話してくれない。
ボクも聞くことができないでいる。
萩谷先輩があの日電話をくれたことが、どんなに勇気が必要だったことなのかわかる。
そして、励ましてくれたときの痛みも。
「だめだめっ」
弱気になっていたのに気がついて、頭を強く横に振る。
とにかく今は、みさきが話してくれるまでは、みさきのしようとしていることを支えてあげなくては。
ボクがみさきの背中を押してあげられるようになるまでは。
「よしっ」
大きく息を吐いて、気合を入れる。
教室ではみさきが待っているはずだ。
最近では狭川先輩が教室までくることはなくなったけど、もしかしたらのこともある。
(おいてきてしまったけど、次は連れてこなくちゃ)
そう考えながら、出口のドアを押した。
「よっ!」
トイレから出たとたん、正面から声をかけられた。
もちろん姿もある。
「・・・萩谷先輩」
「ちょっと、時間いいかな?」
「何しに来たんですか?」
「話しがあってさ」
「狭川先輩のことですよね?」
「ああ」
「だったらボクには話すことはありませんから。第一、こんなところで待つなんて、趣味悪いですよ!」
「悪いけど時間の余裕もなかったんでな。みさきちゃんのいるところで話すわけにもいかないだろ?」
「だから、話すことなんてないですってば!どうせ狭川先輩から頼まれてきたんですよね?」
突き放すように言って、萩谷先輩を避けるようにして教室へ歩き始める。
「そんな訳ないだろ!」
「裕樹は何にも言わないよ。これは、俺が勝手にやってることだ」
後ろからの強い言葉に、背中を向けたままボクは立ち止まった。
「そう・・・ですか・・・。でも、ボクは話す気はありませんから」
「梓ちゃん!」
「それとも・・・」
低くそう言って、ボクはクルっと萩谷先輩の方に体を向ける。
「あ、もしかしてもしかして、ボクに愛の告白ですかぁ?」
精一杯の笑顔のボクは、目の前が滲んでいた。
「やっぱり・・・そうなんだな・・・」
「・・・・・・・」
ボクは何も答えない。
萩谷先輩がわかってくれたから。
「梓ちゃん。裕樹は、ちゃんとみさきちゃんのことが好きだぜ」
「みさきちゃんの背中を押してあげられるのは、梓ちゃんだけなんだ」
「梓ちゃんには辛いことだと思うし、無理を言ってるのもわかってる」
「だけど、頼む」
あわせた両手の下に、萩谷先輩が頭を下げる。
「・・・ありがとうございます」
小さくそういい残して、ボクは萩谷先輩に背中を向けた。
そして、教室に向けて歩き出す。
両手で目を拭いながら。
もちろんボクは、明日の朝に教室でクラスメートにされることを知らない。
そして、そのときにボクが顔を真っ赤にして、慌てて否定するということも。
それが本心でないことも。