「じゃあ、ありがとう。行ってみるわ」
そう私に言い残して、オレンジ色のスーツが、体の横を通り過ぎた。
私は見送ることもせずに、全力で反対の方向へ駆け出した。
文化祭で混雑している廊下を、人にぶつかるのさえも気にかけずに。
(大丈夫)
自分に言い聞かせる。
(大丈夫。あの人は、気がついてなかった)
今、私は道を聞かれた。
一年何組だったかが、出し物をやっている教室の場所への。
彼女にしてみれば、私に声をかけたことには何の意図もないはず。
だって、彼女は私のことを知らないのだから。
(まさか、ほんの10分ぐらいで憶えられたとも思えないし)
気づかれようがないのだ。
私からは一方的にわかるけれども。
けれど、彼女がどうしてここにいるのかがわからない。
子供はまさかいないだろうし、兄弟がいたとしてもわざわざ文化祭になんかに来るだろうか。
年だって、もう随分と離れているはずだ。
祥平くんと付き合っていたときには、既に働いていたのだから。
「・・はぁ・・・はぁ・・・ん・・。だい・・・じょうぶよ・・・」
もう一度、私は自分に言い聞かせる。
切らせた息を落ち着かせながら。
廊下の端にあった階段を一気に駆け上がって、屋上へ通じる鉄の扉の前で。
膝についていた手を上げ、ドアのノブを廻そうとする。
ガチャガチャ
けれど、ノブは動かなかった。
いつもは開いているのだが、きっと文化祭中は封鎖しているのだろう。
屋上に出るのを諦めた私は、その場にしゃがみこむ。
屋上に来たかった訳ではなかったから、別にここでも構わなかった。
ただ、あの人に見つからないところであるならば。
階段の下からは、文化祭の喧騒が聞こえてくる。
別に関係ない。
出席をとったりしないのであれば、今日だって私は来なかった。
(来ても・・・仕方ないもの)
一緒に巡る友人はいないし、それに、元来こういうイベントはどうやって楽しんだら良いのかわからない。
わからないから、好きだとは思えない。
今年出展しようと思ってたのも、楽しもうとか考えてたのではない。
自分を追い込むため。
あのカメラを使う口実を無くすため。
そうすれば、祥平君のことも忘れられるかと思ったから。
けど・・・
(良かった・・・)
展示の場所が確保できなかったことが、今は良かったと思える。
(あの人に・・・見られてたかもしれないしね・・・)
見られていたら・・・どうなっていただろう。
展示しようと準備していた写真の中に、祥平君が撮った写真もある。
それに、私が撮った祥平君の写真も。
その写真は、できるだけ隅っこに貼るつもりだった。
できるだけ目立たないように。
何気なく。
そうしないと、沢山の人に気がつかれてしまうから。
目線が来ていない、その不自然な写真を。
祥平君に向けた、ささやかな告白を。
「ん?・・・白倉・・・か?」
ドアに背中をつけてしゃがみこんでいた私に、少し下から声がかかった。
「ああ。やっぱり」
顔を上げた私の目に映ったのは、川瀬さんだった。
「悪いけどさ、そこ、どいてくれないかな?」
「あ、うん。けど、鍵閉まってるみたいだよ」
「え?・・・ったく。そうなのか・・・邪魔したな」
「ああ、そうだ」
思い出したように、川瀬さんは振り返った。
「あのさ、白倉さ、なんか出そうとしてたよな?」
「文化祭?」
「ああ」
「うん・・・。だけど、申し込みの〆切が過ぎていて・・・」
「そうか・・・。ん・・・悪かったな。力になってやれなくて」
「なんで?」
「多分、実行委員がネジ込もうと思えばできたと思うんだけど・・・まあ、悪かった」
「ううん。良いの。今は・・・できてなくてホッとしていたところ」
「そうか?」
「うん」
「それなら良いんだけどさ、なんか、随分落ち込んでるみたいだったから」
「ありがとう」
「例はいらないよ。あたしの所為にされるもの癪だったからだから」
「所為だなんて・・・」
「写真・・・だったけ?」
「え?」
「展示するの」
「あ、うん」
「そういえば白倉、席でカメラいじってたりしてたもんね」
「うん」
「好きなの?カメラ」
「ん・・・好きっていうか・・・」
「あ、いいよ。言いたくないことは。あたしも詮索されるの好きじゃないし」
「ありがとう」
「でもさ、見てもらいたいこととか、言いたいこととかがあるんだよね。きっと」
「・・・え?」
「白倉ってさ、なんかこう、こういう行事とか好きじゃないように見えるのよ。それなのに、展示しようと思ったぐらいなんだから」
「・・・・・・」
「まあ、これも答えたくないことなのかもしれないけどさ。ま、じゃね」
「・・・見て・・・欲しい・・・こと・・・」
川瀬さんが去った後に残されて、私は一人呟いた。
その言葉を噛み締めるように。
階段の上についている小さな窓の向こう側に、空を見つめながら。
その後、私は思うようになる。
借りてしまっていたカメラを、あのフィルムをあの人に返そうと。
だって私が見て欲しかったものは、祥平君が確かにこの世にいたことの証なのだから。
そしてそれを一番心に刻み付けてくれる人は、間違いなくあの人なのだから。
だから、あの写真は。
祥平君が最後に残した写真は、あの人が持っていなくてはならないのだから。
そして、あのフィルムで写した最後の写真も。
祥平君があの人を愛していたという確かな証なのだからと。
それはもう少しだけ先のこと。
まだ今日の光が、僅かに残っている頃のことだ。
けれど今、私は思った。
「川瀬さんにお礼を言わないと・・・」と。
そして立ち上がって、階段を一つ一つ下り始めた。