「ったく、しょうがないなぁ・・・」
ガンガンと打ち付ける音にも一向に反応がないドアの前で、ボリボリと頭の後ろを掻いた。
「おおぃ、舞人兄。いないの〜?」
あきらめながらも、もう一度ドアを叩いた。。
でも、やっぱり部屋の中は静まり返っている。
「今日返してくれるって約束なのに・・・。忘れてるのかなぁ・・・」
拳をドアに押し付けたまま、ため息混じりにつぶやく。
そろそろ5時。
もう学校からは帰ってて良いはずの時間だ。
「ま、舞人兄らしいや」
クリアし終わってるゲームだし、急ぐ必要があるわけでもない。
「今日はあきらめよっと」
どうせ母さんにバレたときに、大変な目にあうのは舞人兄だ。
呼び出されて、たっぷり説教された挙句、風呂でも磨かせられるに違いない。
「あ〜あ。自業自得ってやつだね」
ドアから離した両手を頭の裏で組んで、冷たく言い放つ。
「ま、なるべくバレないように頑張ってみるからさ」
(あの母さん相手に、隠し切れればけどね)
こういうときの母さんは、異常に勘が鋭い。
クスッと笑みを浮かべながら、ドア越しに誰もいない部屋の中に向けて話かける。
「さって、それじゃあ帰ろう・・・」
手を組んだまま、くるっと振り返る。
「・・・・・・・・かなっと」
けれど、言いかけた言葉を最後まで口にするのに、少しの間が必要だった。
雲に反射した柔らかな橙の光に、思わず息を呑む。
いつのまにか赤く染まり始めていた空に、見入ってしまった。
「・・・・・・」
言葉を行動に移すこともできかった。
言い終わった後も、呆けたようにその空から目が離せない。
いつも遠くに見える空なのに、もっと遠くにあるように見えた。
そして、不意に光ごと滲む。
「何・・・だよ、これ」
戸惑って目尻を拭う。
けれど、景色のゆがみは一向に直らない。
それどころか、だんだんとひどくなる。
「・・・っきしょ・・・」
涙腺が理由もなく緩んでいた。
目をぎゅっと瞑る。
泣く理由なんてない。
泣くつもりなんてない。
泣きたくなんてない。
必死に涙を押しとどめようとする。
でも、無駄だった。
遠い光が、まぶたを通り抜けて染み込んでくる。
体を通り抜けて、奥にしまいこんだ心にまで。
一番弱いところだけを選んで、くぐり抜けてくるみたいだった。
精一杯張った虚勢も、できる限り残していた余裕も、かき集めた我慢も突き通して。
そしてまぶたの隙間からは、、入りこんできた光に押し出されるように涙が滲み溢れた。
「・・んだよぅ・・・」
もう一度、ごしごしと目をこする。
「悲しくなんか・・・、寂しくなんかないのに」
奥歯を噛みながら出した声には、すっかり涙が混じっていた。
と、そのとき。
部屋の中から、ドタドタと音が聞こえた気がした。
ハッと振り返った目に、ドアの横の窓で明かりがチチチッと瞬くのが見えた。
「・・・え?」
続いて、ドアのすぐ向こうでガザガザと何かがこすれる音。
(まさか・・・)
「ん〜。なんだ?誰かいるのか?」
眠たそうに間延びした、聞き覚えのある声も聞こえてきた。
(ちょっ・・・ちょっと待ってよ!舞人兄)
泣きたくなった。
とっくに涙は出ていたというのに。
それが止められないのはわかってる。
それに、止められたとしても、目は真っ赤に違いない。
とっさに、ドアに体を押し付けた。
その目を舞人兄に見せるわけにはいかなかったから。
息を潜めて、中の様子を窺う。
「な〜んだ。だれもいないじゃないか。ぷじゃけるな」
ややあって聞こえた、舞人兄の声に力を抜きかけた。
けど、
カション
ドアの中でした、ほんの小さく響いた音を聞き逃さなかった。
(うわ。やっぱ舞人兄だぁぁ)
そう思うが早いか、脱兎のごとく駆け出す。
『一難去ってまた一難』
その家訓に感謝する。
「と、見せかけて!!!」
三秒後のその光景が、一瞬で予知できた。
階段をめがけて、全速で疾る。
壁の角に手を巻きつけて、トップスピードに乗った体を急旋回させた。
そのまま、階段に身を躍らせる。
背中を「と、見せかけて!!!」という、予想通りの声が掠めた。
(まに・・・あったぁ・・・)
一気に駆け下りた階段の半ばあたりで、今度は本当に気を抜いた。
惰性で階段を駆け下りる。
その先に、その姿は現れた。
スーパーの白いビニール袋を手にして、階段の右側から突然に。
「あ・・・」
「え?」
目が合って、僕の声とその人の声が重なる。
チェックのピンク色をした制服を着ていた。
その人の動きが止まる。
けれど、僕の足は止まらなかった。
佐伯家の家訓にも、『二難去ってまた一難』なんていうのはない。
下から五段目が、僕の足が捉えた最後の段だった。
次の瞬間、暖かいものに包まれた。
同時に、柔らくて良い香りが僕を包んだ。
ややあって、階段の下に広がるコンクリート畳に顔から突っ込む。
いつもの舞人兄や瑛にやられたときのように、顔が地面に張りついた。
なんてことはない。
「よっと」
動じもせずにベリッと顔を剥がす。
「ったたたぁゃ〜〜」
顔を上げた先には、さっきのお姉さんが尻餅をついていた。
腰のあたりをさすっている。
手に持っていたビニール袋は、僕とお姉さんのちょうど真ん中あたりで、中身をはみ出させていた。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
そう声をかけようとしたら、再び目が合った。
一瞬の間ができた。
「うわー。ごめんなさい。大丈夫?大丈夫?」
声をかけるタイミングを見失った僕は、逆にお姉さんに駆け寄られてしまった。
「頭打ってない?怪我は?痛いところは?」
「大丈夫です」と答える暇も与えてくれないまま、お姉さんは僕の腕を取る。
「よいしょっと」
そしてその腕を引いて、僕をその場に座らせた。
「あっ・・・」
お姉さんが短く声を上げる。
僕の額にかかっている前髪が、右手の指先にそっと押し上げられた。
お姉さんの顔が近づく。
息遣いが聞こえそうなぐらいに近くに止まる。
そしてそのまま。
「え・・・」
思わず両方の手を閉じた。
指の先が、ザラッとしたコンクリートをなでる。
・・・・・・。
少しの間、沈黙が流れた。
僕は耐えかねて、目も閉じかけた。
そのとき、
「ごめんね。おでこ、擦り剥いちゃったね」
すッと離れた顔を、申し訳なさそうに影がよぎる。
言われてみれば、ヒリヒリした感覚がある気がする。
「あ、でも、深くは無いみたいだから・・・」
右の手を僕の額に当てたまま、左手で窮屈そうに右のポケットを探る。
取り出されたのは、真っ白なハンカチだった。
「あと・・・あった!」
キョロキョロとあたりを見回すと、四つに折りたたまれたハンカチの角を咥えて、空いた左手で白いビニール袋を引き寄せる。
ズズリっとビニールとコンクリートが擦り合わさる音がした。
はみ出ていた大きなペットボトルに手を移す。
そして一瞬戸惑った後、額の右手を離して蓋を捻る。
ハンカチを左手に持ち変えると、ペットボトルの口につけて傾ける。
容器の中で動く水の泡が、ぼ〜っと見つめる僕の目にも写る。
白いハンカチに黄色い液体が広がっていく。
「しみるかもしれないけど・・・」
そういって、もう一度僕の額に右手が添えられた。
さらに、冷たいく濡れたハンカチが額を拭う。
「っ・・・」
わずかにピリッと痛みが走った。
「ごめんね。もうちょっと・・・」
ハンカチが丁寧に動かされる。
さっきまでスーパーの冷蔵庫にでも入っていたのだろうお茶の冷たさが、額に心地よかった。
「よしっと」
口にハンカチを戻して、次は胸のポケットから手帳を取り出した。
そして、表紙の裏側に挟まっていたものを、片手で起用に引き出す。
「ん」
ハンカチを咥えたままの口から、小さく声が漏れる。
それは、ピンク色の小さな四角い絆創膏だった。
一瞬の戸惑いの後に、僕の額にそれは貼られた。
そして、両方の手が僕の額から離れる。
そのときに、さっきは気がつかなかったけど、右手の手のひらが大きく擦り剥けているのが見えた。
親指の付根あたりから、真ん中付近に渡って伸びる無数の白い濁った線に、血が滲んでいる。
「あ・・・」
思わず声を上げる。
僕の視線の先に気がついたのか、その人はさっとその右手を体の後ろに引っ込めた。
左の手では、口からハンカチを外す。
うっすらとお茶の色に染まったハンカチには、かすかに赤黒い点が着いていた。
「ごめんね〜。こんな可愛い絆創膏で」
「あ、それと、帰ったらちゃんと消毒してね?」
「しまった」といった感じの苦笑いと一緒に、矢継ぎ早に言葉が紡がれる。
「お姉さん、手・・・」
「え?あ、うん、これ? あはは、私ってば、ついこの間まで住んでたのド田舎だから、こんな傷は慣れっこなんだよ」
「うん。だから、全然へっちゃら。家もすぐ上だしね」
「でも・・・」
「それと・・・君が、とっても痛そうにしてたから」
「え?・・・あっ」
そんなつもりはさらさらなかった僕は、一瞬なんのことだろうと考えた。
額の痛みからすれば、お姉さんの傷の方がよっぽど酷いように思える。
そして、あることを思い出して絶句する。
さっきまで泣いていた。
だからあんなに慌てて階段に飛び込んだんだった。
(ってことは・・・)
顔が熱くなっていくのを感じる。
合っていた赤い目を、隠すように伏せた。
「でもね、あんまり泣いちゃダメだぞ?男の子なんだから」
「・・・泣いてばかりいると、良いことも逃げちゃうしね」
僕は顔を上げた。
ほんの少しだけだけれど、声のトーンが落ちた気がしたから。
「だから・・・ね?」
お姉さんは、満面の笑みを僕に向けてくれていた。
まるで「これでいいのよ」と言わんばかりに、片目を閉じて。
「あ・ありがとうございましたっ」
僕は弾かれたように飛び起きた。
そして、それだけを言い残して駆け出す。
それ以上そこに居られなかったから。
お姉さんの笑顔の意味が、わかってしまったから。
額に張られた絆創膏が、傷のためにでは無いことが。
「はっ・・・はっ・・はぁ・・ふぅ・・・」
曲がり角を三つ曲がるまで、僕は足を緩めなかった。
顔は火照っている。
心臓も早鐘を打っている。
息が切れるまで走ったのは、それらを走ったせいにしておくために。
「全部・・・っ、舞人兄のせい・・・だからね」
途切れ途切れ、筋違いの八つ当たりを呟いた。
そして、絆創膏の上に手を当てる。
「痛かったんだよね?泣いちゃうほど」
その言葉と、笑顔を思い出す。
手の下の絆創膏が、熱くなったように感じた。
瑛や瑞音と遊んでいるときも感じたことがなかったものが、僕の中に生まれているのがわかる。
収まり始めた鼓動が、リズムを増していく。
頬の赤らみもきっと同じだろう。
「〜〜〜っ」
僕はまた走り出した。
どうしたらよいのかわからなかったから。
僕の中で生まれた何かを、抑えていられなかったから。
そして、それから3ヶ月。
「紹介してくださいよ」
瑞音と並ぶその人の口から、舞人兄にかけられた言葉を聞いてしまうまで。
僕の初めての恋が始まった。