「あ、祐一。お風呂空いた?」
入ろうとした部屋から呼びかける声で、濡れた頭に乗せたバスタオルをグシャグシャと動かす手を止める。
目をやると、テレビ前のソファーにゴロリと転がって首だけを上げている名雪と目が合った。
喉元をしきりに膨らませては萎ませている緑色の姿が、左側のブラウン管に映し出されているのを視界の端で確認する。
「なに見てるんだ?名雪」
時間帯と曜日から思い浮かぶ番組はある。
前に住んでいた街でも放送していた番組。
さすがは天下の国営番組。
日本全国津々浦々、何処ででも見られるようだ。
「なにって、『生物動物奇行』だよ?祐一、知らない?」
番組の終わりを告げる少年合唱団の歌は、名雪の言葉が正しいことを物語っている。
「・・・今日の語りは木下パンサーか?」
その歌に混ざって聞こえる、のほほんとした声を聞きつけて再び問を投げた。
「なんだ。知ってるんじゃん。今日はパンサーさんだったよー」
「そうか」
「うん」
「・・・・・・」
視線をニコニコと笑う名雪に黙ったまま固定して、求めていた答えとは違うことを訴えた。
「ん?」
しかし返って来たのは、まるで頭の上に黄色いクエスチョンマークが見えそうな返事。
「で、なんで見てるんだ?名雪は」
俺は渋々と想いを言葉にした。
「蛙さんたち、みんな必死なんだよ」
「は?」
話が見えない。
「ケロケロって鳴いてるのは、恋の歌なんだって」
「・・・・・・」
いや、本当は見えてはいる。
ただ、見えるべき話ではないというだけだ。
そして当然のことながら、見たいものでもない。
「頑張ってるんだよ〜」
「いや、まぁ、そりゃそうだろうが・・・」
頭の食い違いを諦めて、ガクリと肩を落とす。
「祐一、蛙さん嫌い?」
「嫌いっていうか、名雪は好きなのか?」
「蛙さん?」
「ああ」
なげやりな相槌を打った。
「う〜ん。どちらかと言えば苦手だよ〜」
「それなのに見てるのか」
「本物が襲ってくるんじゃなければ、平気だから」
「そんなもんか?」
「うん。癒されるよ」
「・・・蛙にか?」
「可愛いよ?」
名雪の両手に両手に支えられて、ソファーの上に二本足で立ち上がらされた緑色の縫いぐるみが俺を見つめた。
「・・・そうか・・・」
決して賛成できない意見に嘆息して、テレビを背にするソファーに腰を落とす。
どっと疲れた気がするのは、風呂のせいだけではないだろう。
「なんだか祐一、おざなりだよ」
体を起こして座り直した名雪が、左隣でふくれる。
「個性的な趣味をしてるな」
俺は皮肉たっぷりに、お決まりの台詞を返した。
「良く言われるよ〜」
「・・・・・・」
わざととは思えない満面の笑みに変わった従姉妹を見て、再び嘆息する。
「さーて。私もお風呂に入るよー」
そんな俺を尻目に、緑色固まりを抱き締めた名雪が立ち上がった。
「なにか見る?」と差し出されたリモコンに対して、首を振って答える。
そして、電源ボタンを押したリモコンを置いてトテトテと出口へ向かう、名雪の背中を見送った。
背中からは緑色の足がはみ出ている。
「あ、名雪」
けれど、名雪の体半分が廊下に消えようかという時になって声をかけた。
この部屋にきたそもそもの理由を思い出したからだ。
「なに?祐一」
「風呂上がりで喉が乾いてるんだけどさ、なんか飲み物貰って良いかな」
振り返る名雪に、「できれば冷たい方が良いんだけど」と付け足して言う。
「冷蔵庫・・・なにもなかった?」
「俺、居候なんだし、勝手に開ける訳にもいかないだろ」
「そんなこと、別に気にしなくて良いのに」
「そうは言ってもなぁ・・・」
「お母さんも良いって言うと思うよ?」
「あっ。お母さ〜ん」
視界の端に秋子さんの姿を見つけたのだろう。
名雪が廊下の先に向かって声をかけた。
それとともに、近寄ってくるパタパタとスリッパの音。
「なにかしら?」
そんなに離れていない場所にいることが、弱く聞こえる返事からわかる。
「祐一が冷たいものないか言うんだけど」
「牛乳で良ければ冷蔵庫にあったと思いますけど・・・?」
「ほら」という形をした名雪の瞳が、姿を表した秋子さんから俺に向けられた。
「あ、いえ。勝手に開けるのも悪いと思ったんですけど」
「なに言ってるんですか。家族なんですから。変な遠慮はしないでくださいね」
少し諌めるような口調の秋子さんの隣で、哀れな縫いぐるみが名雪の手によって頷かされている。
「そう言っていただけると嬉しいです」
ソファーに座ったまま、秋子さんに向けて軽く頭を下げた。
「名雪、お風呂?」
「うん」
「次、私が入るから蓋は開けといて良いわよ。出たら呼んでね」
「わかったよ〜」
そう言って部屋から出て行く名雪と入れ替わりに、秋子さんが半歩部屋に入る。
「祐一さん?」
その秋子さんが、改まった様子で俺を呼んだ。
「はい」
雰囲気の違いに気づいて、俺も姿勢を正して答える。
そしてグッと息を飲んで、穏やかに見つめる秋子さんの口から出る次の言葉を待った。
時の流れが加速度的に緩やかになっていく。
と―――
「パッジャマぱじゃま〜」
そんな二人の間、音が消えた居間に、突然へんてこな歌が割り込んだ。
発信源は、もちろん階段を上がって行く名雪。
「・・・」
「・・・」
合わせていた二人の目が、お互いに丸くなる。
部屋の中だけで閉じていた空気が、まわりの世界に溶けだし始めた。
「本当に遠慮なんてしないでくださいね?余所余所しくされるのが、一番悲しいですから」
歌声に半ば呆れた笑みを浮かべながら言う秋子さん。
けど、目は笑っていなかった。
込められているのは、心遣い。
それと、優しさ。
「わかりました」
俺は大きく頷いた。
心からの感謝と共に。
「―――でないでしょうしね・・・」
頷きに合わせて目を離した間に秋子さんが呟いた言葉が、微かに耳に入った。
「え?」
はっきりと聞こえなかった部分に、「名雪」という名前が混ざっていたような気がして、思わず聞き返す。
「そういうことで、取るのは自分でお願いしますね。私はまた洗濯してますから」
だが、なにごともなかったかのように言い残して、秋子さんはクルリと廊下に向かう。
「ありがとうございます。いただきます」
言いそびれそうになったお礼を、慌ててその背中に投げかけた。
「どうぞ」
顔だけこちらに向けて、秋子さんは笑顔で答えてくれた。
「さて」
秋子さんのスリッパの音を耳で送って、ソファーから立ち上がった。
明かりの消えているキッチンに入って、冷蔵庫のドアを開ける。
「牛乳・・・と。さすがに麦茶はないか」
いくら風土が違うとは言え、真冬にそんなものを飲む地域があるとは思えない。
ましてこんな雪国でだ。
「他に・・・」
明るい庫内をさっと見回す。
「・・・おっ」
右奥の隅に並んでいる短い缶を、目ざとく見つけた。
サキソフォンを咥えた髭のおっさんが描かれた6本の缶。
それも、よく見ると全部色が違う。
「・・・よしっ。貰ってしまうか」
既製品であることに気が咎めながらも、秋子さんの言葉に甘えることにした。
風呂上がりと言えば定番はコーヒー牛乳。
一番近そうな色をした缶に手を伸ばす。
そんなことはないとは思うけど、もし叱られたのならば謝ろうと考えながら。
「おっふろおふろ〜・・・」
その時、近づいてきていた歌声が一瞬止んだ。
聞こえていた感じからすると、ちょうど居間の入り口のあたりだろうか。
二階から降りてきた時には、T字に分かれる廊下の突き当たりになるあたり。
「?」
不審に思い、顔を上げる。
壁で隔たれたその場所は、もちろんキッチンから姿が見えるはずはない。
ほんの一呼吸の後。
「・・・しっかり温ったまるよ〜」
ふたたび始まった歌声が遠ざかっていった。
なにごともなかったかのように。
カシュォ
冷蔵庫の前。
首を捻りながら引いたプルトップの音は、いつもよりも高かった気がした。