準備
〜それは舞散る桜のようにサイドストーリー〜
〜雪村小町〜

  「よいしょっと」

開けた窓から、ベランダへと足を踏み出した。

  「うや〜しばれるべな〜」

言いながら、どてらの襟をキュッと絞る。

  「なんとか止んでくれそうですね」

家に着いたときよりも、雪の勢いはずいぶん弱くなっている。

真っ暗な世界の中で蛍光灯に照らされて光る白い粒は、ちらほらという程度。

このまま止んでくれれば、別段準備をしなくてもすみそうだ。

今の時間を思えば、とてもありがたい。

  (明日はギリギリまで寝ていられますね)

安心した私は、左隣りのベランダに目をやった。

カーテンの隙間から漏れる光りすらも、既に感じられない。

ふぅと吐いた息が、白い陰となって漂う。

  「まぁ、もう時間も時間ですもんね」

部屋から出る前に目にした、置き時計の針を思い浮かべた。

  「お腹なんて出して風邪を引かないで下さいね」

心で「ありえそう」と思いながら、口にした。

  「大切な日なんですから」

その日になってから、もう2時間以上が経っている。

すっかり草木も眠る時間だ。

さすがの先輩だって、寝ていておかしくない。

私だって、今にも瞼が降りて来そうだった。

だから、こうやって目を覚ましにベランダに出た。

  「また無駄になっちゃいますからね」

聞こえないことはわかっていたけれど、先輩に向けて言った。

そして、目を襟をつかんだ手に握られたノートに移す。

表紙を合わせるように折り開かれたページの両面に、びっしりと文字が書かれている。

口を閉じたまま小さく肩で息を吐いてから、手を内側に巻いて甲の側の面に目を通した。

所々横線が引かれたり黒く塗りつぶされたりしてながら、ボールペンの文字が並んでいる。


 ね〜ね〜先輩?街にあるBasiLっていうケーキ屋さんって知ってます?
 あそこのケーキ、すっごく美味しいんですよ。
 この舌の肥えた雪村の頬を持ってしても、一口で落ちてしまいそうな程なのです。
 けど、美味しいだけあって人気もすごくって、売り切れるのも早いんですよね。
 しかも、それでいてお値段はお手頃と来ちゃいます。
 さすがはBasiLって感じですよ。
 ですから学校から帰って来てから行っても間に合わないんですよ。
 そんな訳で、滅多に食べられないんですよね。
 雪村の舌は、こんなにもBasiLのケーキを求めていると言うのにですよ!?
 酷い話だとは思いませんか?
 しかもケーキではないんですけど、明日には、限定のクッキーが発売されるらしいんです。
 パリ帰りの本場仕込みのパティシエさんが腕に縒りをかけてくれるそうなんですよ。
 お値段もやっぱりお手頃って話です。
 良いですよね〜。
 食べてみたいですよね〜。
 でも、私は明日も学校ですから、きっと間に合わないですよね。
 あ〜あ〜残念だなぁ〜。
 これで卒業式も終わったことですし、暇を持て余している心の優しい王子様はいないものでしょうかね〜。
 ね〜先輩?
 いえ、何も奢っていただこうだとか、そんなことは全然考えていませんよ。
 それはまあ確かに、世の中ではお菓子やさんの陰謀がまかり通る日パート2ではありますが、
                この雪村には爪の先程も関係の無いことだと言うことは十分にわかってます。
 ですから、お使いをして来てくれるだけで王子様なんです。
 そうですとも。
 ケーキが良いだとか、七兆個欲しいだとかなんて贅沢な言いませんよ。
 一袋だけで良いのです。
 クッキー一袋だけで。
 報われない恋をしている哀れな子羊に、天の恵みは訪れないものでしょうか。


  「一方的に喋っていただけでしたけどね」

ザッと目で追って、ペロッと舌を出す。

寒さがピリピリと辛い。

  「昨日も・・・ちょうど今頃だったのかな?」

もう一昨日か。

そう思いながら、それを書き終えたときのことを思い浮かべる。

昼間の卒業式では、そのせいでちょっとだけ居眠りをしてしまったことも。

  「けど、お陰で言えましたからね」

  「黙っていれば『忘れてた』ですし、ねだれば『ぷじゃけるな』ですしね。苦肉の策です」

これまで毎年のようにやり過ごされてきたこと。

3月14日。

  「もう何年になりますかねー。一度もお返しくれたことないですよね。先輩ってば。
   やっぱり、ただの義理だと思われてるんでしょうか。でも、『好きです』って、公言してるんですけどね、私。
   お耳に届いてないとは思えませんし。
   ネタだと思われてるんでしょうか。確かにいつも、冗談交じりではありますけど」

  「まあ、乙女心がわかるようにも思えませんしね」

壁に掛けてある制服の胸ポケットを思った。

  「あんなもの貰っちゃいましたし、やっぱり駄目かなぁ・・・」

裏のキャップが取れて、消しゴムが剥き出しになったシャープペンシル。

話を聞き終わった先輩が、赤いカーネーションが付いたままの胸ポケットから抜いて差し出してきた。

  「どうしてこんな芯を使いますかねぇ」

手を返してノートの反対側を見る。

さっき見ていた面とはうって変って、掠れそうなぐらいに薄い文字が並んでいる。

ノートに溶け込むような字に、つい不満を漏らす。

理由は簡単に予想がつく。

  「お馬鹿さんですよね〜」

頭の中で「先輩ってば」と付け加えた。

『面白そうだったからだ』

聞けばきっとそう答えるに違いない。

  「もっとも、芯がまともでも変わりませんけど」

新しいものならばともかく、見るからにぞんざいに扱われてきたお古。

とてもホワイトデーの贈物にするものとは思えない。

でも、私は受け取った。

どういう風の吹きまわしかはわからないけど、去年までは消しゴムのカスさえもくれるそぶりはなかった。

それから比べれば、大きな進歩だと思えた。

たとえ、お返しであることをはっきりと言ってもらえなくても、一日前だろうとも。

  (卒業、ですもんね・・・)

初めの一言が、心に重くのしかかる。

隣同士だから、決定的に離れてしまうわけではない。

けど、今日までとは明らかに距離ができてしまう。

日柄年中付きまとうわけにはいかなくなる。

とはいっても、それだけならば今回がはじめてじゃない。

今の学校に入る前だって、一年間そうだった。

けど・・・

  (今度は・・・心配しなくちゃいけないんですよ・・・
         同じ学校に入れるかも、わからないんですし・・・)

むしろ絶望的。

どうしてだかわからないけど、先輩はああ見えて成績はトップクラスだ。

どう見ても勉強してるようには見えないのに。

それに比べて、私は真ん中辺が精々。

もちろん目指してはみるけれど、実際には難しいと思ってる。

  (それに・・・先輩だって、お年頃ですしね・・・)

それは成績以上に不安なこと。

私じゃない誰かが、先輩の回りにいる時間が増えてしまうこと。

まだ心にいない誰と、先輩が出会ってしまうかもしれないこと。

突然先輩の心に入ってしまう人がいるかもしれないこと。

頭を左右に振った。

先輩の腕の中にいる誰かなんて、考えくない。

  「第一、まだどこの学校に行くのか教えてもらってないんですよ?ひどいですよ!」

口を尖がらせることで、嫌なイメージを振り払おうとする。

弱気にはなっちゃいけない。

だって、私が諦めたところで終わってしまうから。

  「でも、負けません。頑張っちゃいます」

  「幼馴染ですもんね。有利な筈ですもん」

これまでだって、その状況は同じだったのだから。

  「う〜ん。それとも『お兄ちゃん』って呼んだ方が良いんでしょうか。」

開き直るように、冗談を口にした。

良く知らないけど、世の中にはそういう趣味の人もいるって聞いたことがある。

もちろん先輩から。

別に先輩が求めているわけでは無さそうだったけど、ちょっと気になった。

少なくても、私はそう呼んでいなかったから。

私への当てつけかもしれないと思った。

  (冗談か意地悪だと思ってますけどね)

  (けど・・・)

ずっと停滞しっぱなしの今を、動かすことができるかもしれないという考えが頭よぎる。

  「・・・舞人・・・
        ・・・お兄ちゃんっ!」

意を決して呼んでみた。


  「・・・・・・」

直後に、体中を熱が駆け巡る。

  「・・・は・はずかしいべさ・・・」

押さえた頬が、明らかに影響を受けていた。

  「これはさすがに御免被りましょう。
   いえ、むしろ先輩を魔の道からお守りするためにも、断固として遠慮しなくてはいけません」

かぶりを振って、差した魔を慌てて追い払った。

確かに近づけると思う。

ずっと踏み込んでいるように思える。

でもその距離は、私にはまだ早い。

  「第一、『せんぱい』って呼べって言ったのは先輩なんですから」

今も守り続けている言いつけを、少しだけ言い訳に使った。

わかってる。

本当は進展も望んでないのは、私自身。

このままじゃいつまでも幼なじみから抜け出せないと思っていながら、それを望んでしまっている自分。

もちろん離れたくない。

だから、これ以上近づきたくない。

取り返しのつかなくなる距離に入りたくない。

隣にいるのが私だけなら、『せんぱい』のままで良い。

冗談に混ぜて「好き」と伝えられてれば良い。

  「なら、ちゃんとやっておかなきゃいけないですよね」

目を覚ますかのように、両手を頭の上で組んで「んっ」と伸びをした。

ノートは親指で挟んでいる。

  「さて、もう一回やりましょう」

目の前に戻したノートの薄い字を見ながら、自分自身に同意を求めた。

  「眠気もとれたことですし」

そして窓に手をかけて横に引く。

開いた窓からは、春のような空気が流れて足先に触れる。

気がつかないうちに無くなっていた感覚が、痺れとして戻ってきた。

──ッシュン

急に感じた寒さに、体も反応した。

部屋に入って、急いで窓を閉じる。

ヒーターから暖気が吐き出される音に、カーテンレールの音が重なった。



  「行ってきま〜す」

後ろ手で店のガラス戸を横に引いた。

横すべりするドアが、カラカラと鳴った。

靴を履く前に確認した腕時計をもう一度見る。

いつも家を出る時間よりも5分程遅い。

  「まにあうかなぁ・・・」

つぶやいたものの、半ばあきらめていた。

昨日まで先輩に合わせて家を出ていたことを考えれば、5分は十分に致命的だ。

それに加えて、道に広がる雪。

理由は簡単。

二日連続の夜更かしが、しっかりと祟っただけだった。

  「実は雪村の方こそ、駄目な娘さんだったのかもしれませんね」

そう言いながら、意識的に笑ってみた。

やっぱり物足りない感じがする。

  「日課でしたものね」

それは、幾多の難関をくぐり抜け、ギリギリのバスを目指して走ること。

隙あれば反撃だってすること。

そして、飛び乗るバスの中で絶え絶えになった息を整えること。

そんな毎朝が、疑いを挟むこともなく昨日までは続いていた。

  「それどころか、ちょっとした朝の風物詩でしたし」

バスの運転主さんにだってすっかり顔を覚えられた。

道に姿が見えれば待ってくれるほどにもなった。

田舎の路線バスだから、お客さんにだって覚えられている。

時には窓越しに励ましの言葉がかかるほどに。

そんな時、ほとんどが私への声援にもかかわらず、先輩は手を振って答えていた。

  「その隙に良く出し抜かせていただきましたけど」

つい昨日のことでもあるのに、思い出してくすりと笑う。

  「まあ、ゆっくりと行きましょう。たまには遅刻することだってありますよ。人間なんですから」

さも慌てた素振りをして、先輩に朝のあいさつをすることもない。

初めての平穏な朝を楽しめば良い。

そう思って、ふと足元を見た。

そこに、私の家の前を通り過ぎている足跡があった。

雪の積もった道の前方を目で辿ると、先輩の家の門から続いている。

そして私は、雪の上にくっきりとついた模様を知っていた。

滑らないと自慢していた先輩のが、調子に乗って滑った時にも見た。

もちろん昨日も。

  「あれ。珍しいですね。休みの日なのに、こんな早くからお出掛けだなんて。」

そう言って、私は後ろを振り向いた。

足跡は点々と続いている。

見えないけど、先のT字路まで続いているみたいだった。

どちらに曲がったのかはわからない。

  「右・・・ですか?」

心臓の音が急に聞こえだした。

左は、ただ住宅地が続いているだけ。

確かに先輩は物好きで変わり者だけど、さすがにこんな時間からそんな所に行くとは思えない。

とすると、右。

右に行けば・・・駅。

田舎の駅だから、開けている訳じゃない。

コンビにすらもないぐらいだ。

けど。

頸がトクンと鳴った。

30分ほど電車に乗れば、町に出ることができる。

  (・・・・・・)

もちろん、たったこれだけのことじゃわかるわけもない。

違うかもしれない。

可能性としては、きっとそっちの方が高いだろう。

それでも、鼓動は高くなった。

初めての肯定材料。

期待をすることさえもできなかった去年までとは、少しだけ違う状況。

私は瞼を下ろした。

  (『あれー?これは夢でしょうか?』)

空で口に出せるようになった台詞を、頭の中に巡らせ始める。

声にしないけど、唇も小さく動かして復唱していく。

睡眠時間を犠牲にした成果が、私の中だけに広がっていく。

躓くことはもうない。

去年は無駄だった。

もちろんその前も。

もしもそんなことがあっても、先輩を困らせないように。

悪戯のつもりだった先輩に、想いをぶつけてしまうことのないように。

毎年してきた準備。

いつもの雪村でいられるように。

  (『それでは、いただきますっ』)

締めの一言と一緒に、目を開ける。

ノートに書いたのもそこまで。

その後は考えてない。

もし、本当にもし、そこまで言うことができたなら、泣いてしまっても良いはずだから。

先輩を困らせても良いはずだから。

踏み込ませたのは先輩なのだから。



  「あっ」

時間が通り過ぎて行っていることに、はたと気がついた。

左の袖を慌てて捲って、二本の針を確かめる。

  「・・・うわ〜っ」

そして絶句した。

いつの間にか、長い針は数字を3つ程乗り越えている。

一時間目にすら間に合いそうもない。

  「まぁ・・・仕方ないですか」

良いことあれば、悪いことあり。

胸のむず痒さを思えば、その代償としては先生の小言ぐらいは安いものだ。

  「それじゃ、行ってきますね。先輩」

少し上を見上げた。

白く染まったひさしの上にある小窓。

しばらく行ってないけれど、階段の踊り場にあることを知っている。

そこに毎朝慌てて駆け下りてくる姿はない。

  「とりあえず、楽しみにさせていただきますから」

けれど私は、先輩に向かって話しかけた。

名残惜しさを振りほどくために。



  「・・・期待するだけは勝手べさ・・・」



  「えいっ」

短い掛け声と共に、足跡を重ねるように踏み出す。

少しだけはみした靴に、僅かな雪が押し潰される。

微かにキュッと雪が鳴る。

それは、一年間と少しの間の、遠距離恋愛の始まりだった。




―――――――――

「あれー?これは夢でしょうか?」

「それとも幻ですか?駄目な娘ですね、雪村ってば」

「いくら待ち望んでいたとしても、こんなに我侭な夢を見てしまうなんて」

「それはまあ、雪村がいかに乙女かって言う証拠ではありますけど、それにしてもこれはやりすぎですよね」

「さ、せんぱい。どうか、この雪村の頬を思いっきり抓ってやってくださいませ。」

「さあさあどうぞ。遠慮なさらずに」

「悪い子にお仕置きをしてやって下さいませ」

「え?嫌ですか?う〜ん、それこそ夢っていうものですね」

「こんな大チャンスを目の前にして、せんぱいが攻撃を仕掛けてこないなんてこと、考えられないですもんね」

「それなら良いです。自分で抓っちゃいます」

「真っ白でもちもちときめ細かく柔らかい、それでいてしゃきっと張りのある雪村の頬に無条件で触れられる機会なんて、そうそうないですからね?」

「それじゃ抓っちゃいますよ?知りませんよ?後悔しますよ?」

「えいっ」

「・・・・・・痛いべさ・・・・・・」

「夢じゃない・・・とすると、さてはアレですね?中身はびっくり箱ですね?」

「あ、それとも、包みの中はまた包みで、どんどんと開けていくと最後には『ばか』って書いてある紙が入ってるパターンですね?」

「う〜ん。雪村としては、やっぱり引っかからないといけないんでしょうね」

「けど、せんぱい?」

「もう雪村は心も身体も大人ですので、せんぱいのご期待に添えるようなリアクションができるかどうかわかりませんよ?」

「もちろん頑張ってはみますけどね」

「え?あ、いえいえ。別にいらないってことではありませんとも」

「このバレンタイン牧師どころかキリスト様だって思いもつかない、悪意と言う名のせんぱいの想いが凝縮された、
  正真正銘手作りのプレゼントを用意するのに、どれだけご苦労をされたかと思うと、身震いがするほど嬉しいです」

「それだけ雪村のことを考えてくれる時間があったってことですもんね」

「はい。それでは早速開けさせていただきますね?うわー何でしょうねー楽しみですねー」

「・・・あれ・・・?」

「いえいえ。やりますね、せんぱい」

「流石は雪村の師匠なだけはあります。危うくだまされるところでした」

「まさかこんなに手の込んだことまでやっていただけるとは、雪村は幸せ者です」

「・・・えっと・・・せんぱい?・・・毒入り・・・なんですか?」

「それとも怪しげな薬入りとか・・・」

「よもや、それで雪村をたぶらかしてしまおうと?いけません。流石にまだそれは早すぎます」

「もちろん、せんぱいがお望みならば、私はいくらでも覚悟は出来ていますけど・・・」

「万が一のことを考えれば、やっぱり二人とも社会で自立できる年齢になってからでないと」

「あ、でも折角ですからいただきますね」

「毒入りでも構いませんから」

「そのときは是非、お線香の一本でも立ててやて下さい。毎日夢枕に立たちますので」

「それでは、いただきますっ」

―――――――――――

それは舞い散る桜のようにBasiLの著作です。
BasiLは、当方とは一切関わりはありません。