「バカ華連・・・」

どれぐらいこうしていたのだろうか。

ようやく震えを沈めることができたあたしは、小さく呟いた。

時間の感覚は、いまいちはっきりとしない。

けれど、10分か20分か。

着替えるという目的にしては、結構な間だったように思える。

  「『すぐ行く』って言ったのに・・・ね」

秀晃君も着替えているとはいえ、男の人の着替えには3分もあれば十分だろう。

実際勝田君なんかは、仕事開始5分前くらいにやってきて、しっかりと間に合わせていることもしばしばだ。

それを考えると、随分と秀晃君を待たせてしまっていてもおかしくない。

  『それでなんだけど、今日これから時間空いて・・・ないかな?』

はっきりと覚えている。

  『あのね、もしよかったら、これからあたしの家に来ない?』

もちろん一字一句。

  『もちろん。他の家に行ってもしょうがないでしょ。
   今日のお礼に晩御飯でもって思ったんだけど・・・どうかな?』

秀晃君に向けてではなくて、自分に対してした言い訳だったってことも。

  『よかった。じゃあ、着替え終わったら待っててくれる?すぐ行くから』

一日中考えに考えた末に、言ったことなのだから。

  「あんなこと、あるんだもんね」

あたし自身に降りかかってしまった、信じられない偶然。

起こる前に聞いたのであれば、夢物語としてしまって取り合いもしないような出来事。

たまたま流れた店内放送と、たまたま出展されていたレコード。

それも、入札時間ぎりぎりで。

本当に物語のような偶然。

絶対に起こるはずがないと思っていた、夢物語。

自分の様子を初めに変だと思ったのは、秀晃君の挨拶を聞いた時。

  「おはようございます。華連さん」

楽しみにしていたはずのその言葉が、聞いてみると怖かった。

『見つかったんですよ!』

続く言葉が、今にも出てきてしまいそうに感じてしまった。

幼馴染さんが見つかることを、初めて恐れた。

そして気づかされた。

夢物語を受け入れてしまっているあたしがいることを。

先輩との繋がりが生まれてしまったことを喜んでしまっているあたしを。

すがろうとしてた秀晃君にも、夢物語が起こるかも知れないということも。

顔も覚えていない幼馴染との再会なんて、とてつもない夢物語だと考えていたのに。

絶対に叶うわけがないと思っていたのに。

それは、否定してきたこと。

否定しなければいけなかったこと。

諦めるために読み替えた、世界の大前提。

一日中、新しい世界を喜ぼうとしている自分を押さえ込もうとした。

でも、できなかった。

そんな中で思いついたのは、もう一度止金を打ち込んでしまうこと。

剥がれ落ちていく世界を、繋ぎとめること。

秀晃君への想いで、先輩を覆い尽くしてしまうこと。

あたしの中に、楔を打ち込んでしまうこと。

不安がなかったわけじゃない。

誘ったときにだって、無理をして笑顔を浮かべていた。

それでも、怖くなるだなんて思ってもみなかった。

後悔することあるわけないと思った。

だって、秀晃君のことは間違いなく好き。

一緒に働くようになることを知ったとき、本当に嬉しかった。

今日心配してくれたのも、本当に嬉しかった。

そのうちなりたいと思っていた関係に、少し早くなってしまうだけなんだと考えた。

だから、こんな風になる理由はどこにもないなずなのに。

  「焦っちゃったの・・・かな」

それまで我慢していた後悔の言葉を、あたしはついに口にしてしまった。

  「高野せんぱ――」

決して救いを求めてはいけないはずの人の名も、口にしようとした。

けれど、思い止まった。

  (怒られちゃう・・・か)

乾いた笑みを浮かべて顔を上げた。

  『責任の取れないような発言をするのがいけないんだ。
   なにかを言う前には、その発言による影響を考えて、その影響を覚悟できないのであれば言うべきじゃない。
   一旦言ってしまった以上、なにが起こっても甘受し非難される義務がある』

昔、そんなことを言われた記憶がある。

もちろん猛反発した。

でも、理屈としては正しいとは思っていた。

  『できない人はどうするのよ』

あたしにはできないと思ったから反発しただけ。

  『できるかできないかは問題じゃない。
   自分の言ったことを自分以外のせいにして逃げ出すような真似はするな、と言ってるんだ』

それが、噛みついたあたしに返された返事。

納得してしまった。

珍しく完全に言い負かされた。

当時としては苦い、今としては少しだけ甘さが混じった思い出。

  「あはっ♪」

覚悟を決めた合図に、あたしは明るく笑い声を上げた。

どうしたって巻き戻ることではない。

今夜、秀晃君が部屋に来る。

それも、あたしが誘ったから。

それは変わらない事実。

あたしのせいなのだから、逃げ出すことができるわけもない。

  (先輩に教わったことだもんね)

そう思うと、少し心強かった。

勢いをつけて立ち上がる。

膝はまだ少し震えていたけれど、我慢できないほどじゃなくなっている。

再び鏡と向き合った。

うっすらと目が赤くなっている。

  「観月華連、しっかりしなさいっ!」

まだ弱気を引きずっている、鏡の中のあたしを叱りつけた。

ブラウスを脱ぎ捨てて、扉にかけてあった洋服に手早く着替える。

脱いだブラウスは、たたみもせずにロッカーの中にある手提げバッグに押し込む。

さっき置いたエプロンを忘れていたことに気がついて、それもブラウスの上から詰めた。

吊り下げられていたコートを、ロッカーの中のハンガーから乱暴に引き剥がして羽織る。

反動で揺れるハンガーを気にしながら、バッグも取り出して肩に掛ける。

開いていた扉をロッカー本体に打ちつけるかのように力を込めて押す。

半分ほどしか填らなかった扉にハンガーが当たる音を聞きながら、ロッカーに背を向けて入り口へ向かった。

ヒーターのスイッチを押す。

電気のスイッチもOFFにする。

暗くなった部屋の中で、ドアのノブに手をかけた。

  「先に帰ってたりしてたら許さないんだからっ」

そう言って、あたしはノブを右側に捻った。

これからの秀晃君との日々を、心の中に想い描いて。


Fin.