「清香、あなたね〜」

  「良い曲だから借りて来たんだけど、プレイヤー持ってなかったの」

土曜日の午後、部屋に入るなりそう言いだした清香に、あたしは抗議の声を上げる。

清香の口元に浮かんでいる含み笑いからしても、それがこじつけた理由であることは明らかだった。

  「どうせ、アイツから借りてきたんでしょ?」

アイツ。

そうアイツ。

頭に浮かべたのは、冷徹な雰囲気を持ったアイツだった。

それは清香の先輩。

清香の入っている部活のOB。

『学校の』いう意味ではあたしにとっても先輩であることには違いないけれど、
あたしはアイツを『先輩』などと呼ぶ気には到底なれない。

チャット上でももちろん、実際にあったときの印象も最悪。

間違いなく嫌い。

できれば顔を見たくないどころか同じサーバー上に存在するのも嫌なぐらいだけど、
かといってアイツが人を小馬鹿にしたように振る舞っているのを許せなくて、同じチャットに顔を出している。

当然のことながら、いつもいつも言い争い。

一旦始まるとどっちも引かなくなってしまって他の人に迷惑をかけてしまうので、
近頃は言い争いになった時には直接メールで決着をつけることにしている。

決着とはいっても、結局どっちが悪いとかといった話にはならない。

お互いに自分の言いたいことを言い尽くしたところで、
アイツがまるで物分りが良いようなそぶりであたしをいなす。

あるいは、嫌気が差したあたしが反論のメールを送るのをやめてしまうこともある。

  「針飛んだら弁償してもらうからね?」

散々追求されたあげくにようやく白状した清香にそんな条件を呑ませて、渋々と針を降ろした。

  (なにを企んでいても無駄なんだから)

清香はことあるごとにあたしとアイツを近づけようとする。

理由を聞いてみたこともあるけれど、「まあまあ良いじゃない」と笑って誤魔化されるのがいつものパターンだ。

全然良くなんてないのに。

散々にけなしてやろうと思いながら、トレース音から変わるのをプレイヤーの前で待ちかまえた。

アイツが好きな曲なんだったら、あたしはその曲を絶対に嫌いになってやるんだと思いながら。

けれど。

曲が流れ出したとたんに、あたしの完全武装はあっけなく解かれてしまった。

驚くほど透き通るアコースティックギターのアルペジオが、心にスッと入り込んできた。

針がトレースする音の中ではあったけれど、それでも秋の夕暮れの風の中にいるようだった。

  (けど、どうせアイツが聞くような曲なんて)

嫌いになるために使える理由は、それだけだった。

だから、あたしはその場で針を上げた。

適当な文句をつけながら。

それ以上聞いていたくなかった。

聞いていると、好きになってしまいそうだったから。

アイツに負けてしまうようで悔しかったから。

プレイヤーから取り外したレコードをジャケットにしまって、振り返ったあたしはニヤニヤと笑う清香を見た。

その心を見透かしているかのような笑みがなければ、ゆっくりとプレイヤーから離れることができたと思う。

手にしていたジャケットを粗雑に扱うこともなかったと思う。

あたしは確かに、自分を誤魔化そうとしていた。

負け惜しみで一杯だった。

結果、手から離したジャケットの勢いは、意図したよりも随分と強かった。

思ったよりも長く飛んだ。

絨毯の上に落ちてからも、驚くぐらいに強く滑った。

そして、絨毯に置かれていたお盆の縁に当たる。

完全に倒れてはしまわなかったけど、カップの中からコーヒーが零れた。

お盆に落ちてはじけた雫のいくつかが、真っ白なジャケットに散った。



  「私から謝っておくから、華蓮は気にしなくて良いって」

そう言って帰った彼女が途方に暮れているのを見つけたのは、月曜日のこと。

  「あちこち探してみたけど見つからなくって」

周りの街はおろか、県外の店を探しても見つからない。

そう言った彼女の疲れた顔が痛々しかった。

だからその夜。

止めた清香の言葉を無視して、あたしは先輩にメールを送りつけた。

あからさまに怒りを込めた不躾な文を。

もちろん悪いとは思っていた。

怒るのは仕方ないと思った。

けれど、レコード一枚でそんなにも友達を責めるアイツが許せなかった。

真っ白なジャケットについた点は、確かに小さくても目立った。

それでもレコード自体に傷がついた訳でもなければ、なにか文字を読めなくした訳ではない。

清香だって探し回りもして、精一杯のことはしている。

それにあたしがやったことであって、清香じゃない。

それなのに謝る清香を突っぱねてる。

そう思ったから。

あたしへの憎しみを込めて、清香を責めてるんだと思ってたから。

だから、謝りの言葉もそこそこに、激しくなじった。

日頃から溜め込んでいた軋轢も、ついでとばかりに書き殴った。

勢いに任せて。


翌朝、ふだんより1時間ほど早く鳴った目覚まし時計を止めたあたしは、真っ先にパソコンを立ち上げた。

もちろんメールのチェックをするために。

アイツが毎晩――それも日付が変わってから――メールのチェックをすることは知っている。

意にそぐわないことに対しては、必ず反論をするヤツであることも。

  (返事は来てる)

何の疑いもなくそう思った。

どう返してやろうかと、アイツがして来そうな反論を頭に浮かべる。

メールは、やっぱり来ていた。

送信時間は午前1時過ぎ。

頭に『Re:』がついただけの件名を、アイツらしいと感じた。

そのメールを開いたあたしの目に飛び込んで来たのは、画面にぎっしりと詰められた夥しい数の文字。

敵愾心を剥き出しにして、早速先頭から読み始める。

そこには予想通り反論の嵐。

感情を中心にしたあたしの意見を、客観的な事実と予測から一つ一つねじ伏せている。

いつもの言い争いのパターンそのまま。

理屈として間違っていないことは、あたしにだってわかっていた。

だからこそ反発したくなる。

感情を抜いて物事を考えていくアイツの態度を、あたしは感情的に許せない。

  (あれ?)

攻撃的に高揚した気分で読み進めていたあたしは、ふとあることに気づいた。

  (――これで終わり?)

スクロールバーのスライダは、既に一番下にまで達している。

長さは、今画面に表示されているのが残り3分の1を割っていることを示していた。

更にそのうちの三分の一は、既に読み終わっている。

それなのに、本題とも言えるレコードについてのことが、未だになにも触れられてない。

訝しがりながら、先を目で辿る。

けれど、結局レコードに関する記述は何もない。

  「ちょっと、どう言うことよ!」

逃げられたと思った。

無視されたと。

そうやって清香を責め続けるつもりなんだと。

  (メールなんかじゃ埒が開かない)

そう考えて、放課後直接アイツの大学に乗り込もうと決めた。

学校がどこかは知らなかったけど、それは清香から聞き出せば良いと思った。

昼休み。

  「華蓮!?」

手にしていた箸を落として大声を上げた清香に、本当のことを教えられた。

アイツに何も話していなかったことを打ち明けられた。

そして、その時に清香のポケベルが鳴る。

予感は二人共にあった。

清香の顔は真っ青。

すがるような目であたしを見ている。

あたしもそうしたい。

でも、そうはいかない。

あたしは清香に向けて手のひらを差し出した。

瞳を合わせた清香に向けて頷く。

完全にあたしが悪い。

そもそもジャケットを汚したのはあたし。

しかも、くだらない負け惜しみの為に。

それに、本当はわかっていた。

ううん、今気づかされた。

メールを出したことも、清香のためじゃなくって負け惜しみが言いたかっただけなんだって。

プラスチックのつるりとした感触が、手のひらにおかれる。

液晶画面を、あたしは恐る恐る覗き込んだ。

緊張感に耐えかねた喉が、唾液を滑らせる音を立てる。

けれど、

  「えっ――」

目を疑うより先に、驚きの声が出てしまった。

  「清香!」

心配そうな視線をあたしに向ける清香に、手首を返して記されていた文字を見せる。

『カシタオレモワルイカラキニスルナ タカノ』

  「華連・・・」

  「うん」

それはつまり許してくれるということ。

うっすらと涙を浮かべている清香に、良かったねという思いを込めて頷く。

  「やっぱり優しいでしょ?」

  「まあ・・・ね」

でも、この期に及んでもあたしはアイツ認めることを渋った。

  「もう。そんなこと言って」

  「でも、あたしのことは許してくれてないかもしれないじゃん」      

言いながら、自分でもなんて憎たらしいヤツなんだろうと思った。

  「あのね、華連」

その言葉を聞いた清香が、責めるかのような口調であたしを呼ぶ。

  「なに?」

あたしがしたのは、尖った返事。

その後に清香の口から知らされることなんて、知る由もなかった。

  「レコードね、本当は先輩すごく嫌がったんだ」

  「え?」

  「貸して下さいって言ったんだけど、頷いてくれなかった」

  「清香」

清香の目には、さっきの清香よりも青くなった顔が映っていると感じた。

  「だから・・・『借ります』って言い残して、部室から逃げちゃったんだ。本当は」

  「それじゃあ・・・」

「もしかして」と続かせるつもりだった言葉が、途中で途切れる。

  「『貸した』って言ってるけど違うんだ。
   無理矢理持って来ちゃっただけ。先輩がこんなことを言う必要はないの」

  「それならどうして」

本当は聞くまでもない。

そのことを知らないのは、あたしだけだったのだから。

  「華連のことを考えてだと思うよ。
   昼休みを選んでベルを打ってくれたのも、華連が一緒にいると思ってだろうから」

  「・・・・・・」

頭の後ろを思い切り叩かれた気分だった。

目頭が熱くなってくる。

なにもわかってなかった自分の情けなさと、それでも相手をしてくれていた先輩の優しさで。

  「だからね、華連のことも許してくれてる」

  「そう・・・ね」

  「きっと」

  「こんなわかりにくいこと・・・ほんとアイツらしい」

心にもない憎まれ口を、笑顔と涙にのせる。

最後の憎まれ口を。

  「・・・華連?」

  「わかってる。教えてくれるかな?」

あたしの心は決まっていた。

謝りに行こうって。

レコードのことも、これまでのことも。

  「アイツの・・・先輩の大学」


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