「ん・・・」

真っ暗な天井が、ぼんやりと視界に浮かんだ。

  「夢――か」

今いる場所が自分の部屋であることを理解して、事実を確かめるように口を動かした。

  「だめだなぁ・・・あたしも」

布団を毛布ごと顎の辺りまで引き上げながら、ボソリと呟く。

同時に、右肩を下にして部屋の方に身体を向けた。

ちょうど背にした窓の外からは、走り去っていく一台の車の音が聞こえる。

  「5時半・・・か」

ベッドの脇にある小さなテーブルの上で黄緑色に光る二本の針と十二個の数字が、
まだベルが鳴る時間でないことを教えてくれた。

いつもよりも1時間半くらい早い目覚め。

多分夢のせいだろう。

嫌な夢ではない。

むしろ幸せな夢。

でも、覚めた後になって胸が痛む夢。

少し前までは、時々見ることがあった。

けれど、ここしばらくは見ることもなくなっていた。

実際に理由なのかはわからないけど、そうなったのは秀晃君と出会ってから。

きっと秀晃君に気持ちが傾いているからなんだろうと思っている。

  (色々とあったしね)

昨日のことを思い出す。

お店でのこと、レコードのこと、Masquaradeでのこと。

心が不安定になるには十分過ぎるほどだった。

  (仕方ない仕方ない♪)

もっともらしい理由があるからと、自分を慰める。

  「ごめんね。秀晃君」

謝るような関係ではないのだけど、心の中の秀晃君には謝った。

気持ちに揺らぎがないことを確かめるために。

  (でも、どうしようかな)

少し気は楽になった。

けれど、もう一度眠る気にはなれなかった。

この夢を見た後に眠ろうとして目を閉じると、
あれやこれやと考えてしまって気分が沈んでしまうのは毎回のこと。

先輩がいなくなってからまだ日が浅いうちは、眠るどころか目を赤くすることもあった。

もうそんなことはないと思うけど、やっぱり少しだけ怖い。

  「今日は秀晃君も出勤だしね」

今日のシフトを頭に浮かべた。

シフトが重なるのは3日ぶり。

せっかく一緒にいられる日なのだから、気が乗らないのは避けたい。

  (あ、でも会うのは2日ぶりかぁ)

一昨日街で会った時のことを思い浮かべる。

  (恥ずかしいところ見られちゃったけど)

ゲームセンターの店先でクレーンゲームをやっている時だった。

会えた喜びを隠すのに必死で、普段よりも不自然にテンションが高かったと思う。

秀晃君が行ってしまったところでやめれば良かったのに、
高まった気分を押さえられなくて取れるまでやってしまった。

暗くて良く見えないけど、戦利品は目覚まし時計の後ろにいるはずだ。

秀晃君との思い出の縫いぐるみだと、こっそり思わせてもらうことにしている。

  「そうだ」

落札したレコードのことを思いついた。

次の日の朝ではまだ早いかもしれないけど、メールが来ているかもしれないと考えた。

  「んっ」

勢いをつけて上体を起こす。

反動でベットが軋んだ。

掛け布団との間に急激にできた隙間に、夜の間に冷やされ切った部屋の空気が流れ込んでくる。

ベッドの中で温められていた身体が訴える不快感を押して、布団の中から両脚も引き出した。

そのままベッドの下へおろして立ち上がる。

目覚まし時計と同じ台に置いてあったエアコンのリモコンを操作したあとで、パソコンの電源を入れに向かう。

ディスプレイの右下についた丸いスイッチを押し込むと、最小限に絞られた音量でスピーカがジャーンと鳴った。

続いて、静かな部屋にカリカリと起動が始まる音が広がっていく。

CRT管が発光する色で照らされた部屋の中を、あたしは照明のスイッチに向かって歩いた。

パチンと鳴るスイッチと共に、チカチカと蛍光灯が瞬く。

パソコンチェアの背もたれに部屋着のカーディガンが掛かっているのを見つけて、
ちょうど良かったと思いながらパソコンに向かった。

画面の中では、依然として起動中であることを示す四角い顔のマークが笑っている。

  (そういえば・・・)

夢でも見たことを思い出しかけて、頭を振った。

  (パソコンだって違うんだしね)

相手が同じ訳がない。

そんな夢物語なんてあるわけがない。

変なことを考えないように、自分に釘を刺した。

表示され終わったアイコンのうちの一つをダブルクリックして、メーラを立ち上げる。

ゆっくりとしている時間があるわけではないからと、受信ボタンを押した。

数秒の後、受信メールは一件と表示された。

件名は『入札ありがとうございました』。

素早く反応してくれたことを喜んで、そのメールを開いた。

さっと目を通していく。

と、途中の一行に目が止まった。

『 ■備考   : ジャケット裏面に汚れあり(商品詳細に記載済み) 』

あたしの中で、なにかが填る音がした。

バラバラにしておくことで隠そうとしてきたなにかが、一斉に組み上がっていく音。

それも加速度的に。

自分の迂闊さを呪う。

違う。

迂闊だった訳ではなくて、考えることを放棄してしまっていた自分の愚かさを。

  (――どうして見なかったんだろう)

ネットオークションに入札するのは、初めてだった。

でも、基本的なことをわかっていない訳ではない。

出展者が商品を説明しているページがあるはずだった。

必ずある訳ではないけれども、少なくともあってもおかしくはないはず。

確かに時間は押していた。

実際に見ている時間はなかったとは思う。

けど、全く意識の中に入れていなかった。

入れることを拒んでいた。

あたしの操作によって、ブラウザの起動を示す四角い枠が画面に表示される。

枠の中に表示されている『しばらくおまちください』の文字がまどろっこしい。

ウィンドウが開くなり、昨日と同じ検索サイトへ飛んだ。

検索語句にも昨日と同じ文字を打ち込む。

一文字一文字ゆっくりと。

結果が表示された上から5つ目。

他のリンクとは違う色で示されたリンクを二回叩く。

既に入札が終わってしまっている商品のページが残っているかはわからなかった。

残っていたとしても、アクセスができるものなのかも。

ページは即座に表示された。

住んでいるのが緑王町であることを感謝した。

昨日と同じページ。

違うことと言えば、落札済みの表示が増えていることだろうか。

ページに目を走らせて、リンクを探す。

それはすぐに見つかった。

昨日目に入らなかったのが不思議なくらい目立つ場所に。

部屋にもう一度ダブルクリックの音が響く。

表示されるまでの時間は、やっぱりほとんどなかった。

ほんの僅かのズレを持っただけで、画像も全て読み込まれた。

文を読むまでもなかった。

決して大きくない画像だったけど、あたしには十分だった。

忘れられるはずのない真っ白なジャケットだったのだから。

あたしのつけてしまった染みを持った。


ボタンを押したゆっくりな動作とは無関係に、ブラウザのウィンドウは一瞬で閉じた。

自分の予測が正しいことを確認するために、メールのウィンドウを前面に戻す。

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初めまして。このたびは私の出展した商品に入札していただきまして、ありがとうございました。
早速ですがメールを送らせていただきます。浜崎春菜と申します。

まず入札内容なのですが、以下の通りで間違っていないでしょうか?
 ■商品   : Dust In The Wind (シングルレコード)
 ■入札価格 : ¥1,000−(送料別)
 ■支払い方法: 現金書留
 ■備考   : ジャケット裏面に汚れあり(商品詳細に記載済み)
違う点がありましたらお早めにご連絡をお願いいたします。

商品の発送及び支払いの方法なのですが、こちらから先に商品を送ります。
着きましたらで構いませんので、下記まで現金書留にて代金を送付してください。
 送付先 : 東京都潮府市布畑147−4
                 高野 方  浜崎春菜 宛
住所を教えていただき次第発送いたしますので、確認のメールと共に住所もご連絡下さい。


 と堅苦しく書いてきましたが、初めての出展に入札いただいて嬉しかったので、もう少し付け加えさせていただきます。
取引とは全く関係のないことですので、興味が無ければ読んでいただかなくて構いません。
 わざわざ入札していただいたくらいなのでご存じとは思いますが、国内では非常にマイナーなグループのレコードです。
海外に旅行に行った知人がお土産にと買ってきてくれたもので、国内ではほとんど流通していませんがとっても大好きな曲です。
残念なことに現在では家にレコードプレイヤーがなく、しばらくは押入の奥にしまってありました。「いつかプレイヤーを買うぞ」
と思っていたのですが、事情により当分は無理になってしまいました。
 今回は、好きな曲をこのまま押入に眠らせておくのは忍びなく思い出展いたしました。商品詳細にも書いたようにジャケットの
裏面に汚れがありますが、聞く分には問題なく聞けると思います(もし聞けなかったらご返送下さい。送料もこちらで負担します)。
好きと思っていただける方に聞いていただければ良いなぁと願っています。


 それでは。長々と失礼しました。
 お返事お待ちしています。
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一つ一つの文字を、漏らさないように拾った。

予想は、大体当たっていた。

  「・・・どうして・・・許してくれちゃったかなぁ・・・」

涙は、ほんの一粒目尻から落ちただけだった。

代わりに零れたのは、口元の微笑み。

落ちた涙だって、嬉しいから零れた涙。

あの日清香が持ってきたのは、先輩の恋人のレコード。

あたしはそれを汚してしまった。

それなのに先輩は許してくれた。

自分の物でないことなど、あたしたちに伝えることなく。

大切な人の物であることなど。

『高野 方』

その一文が、その人が今でも先輩に取って大切な人であることを示していた。

プレイヤーが買えない、置けない理由となったことも。


ジリリリリリリッ

耳に届いた起床時間を知らせるベルに呼び戻されて、あたしはマウスから手を離す。

  「うそっ。もうそんな時間?」

普段起きてる時間だから実際には慌てるような時刻ではなかったけれど、予想外の時の進み方に驚きの声を上げた。

画面上部のリンゴのマークからシステムの終了を選んだ後で、目覚まし時計に歩み寄る。

ベルの音が止められると同時に、いつもの朝が始まった。

あたしの中に刻み込まれた『夢物語』以外、なにも変わることがない一日が。

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