「持ち合わせならば私があるから大丈夫だよ?」
銀行に寄って行くと言った僕を貴理は引き止めた。
いつもは奢ったり奢られたり。
ある方が出すのがあたりまえになっている。
でも、今回はそういうわけには行かない。
その理由もある。
「ちょっと待ってて?」
「まあ、良いけどさ。どうしたのよ今日は。急に出かけようなんて言い出すし」
「まあまあ」
訝しがる貴理を入り口で待たせて、僕はキャッシュコーナーに向かった。
まだ気づかれたくはない。
カードを入れて操作すると、残高を示す欄には10万円を僅かに上回る数字が表示される。
僕は改めて相性番号を入力して、ほぼ全額を引き出し金額に指定した。
来週の終わりには仕送りがくる。
来週いっぱいぐらいは残っただけで何とか暮らしていけるはずだ。
家にはお米はあるし、ふりかけもある。
新しいMDプレイヤーが欲しいとも思っていた。
だけど・・・今の自分の精一杯をしなければならないと思う。
本当ならばこの程度では済まないはずだ。
だから、せめて精一杯の贈り物をしようと思う。
それが、忘れていたこととへの罪滅ぼしにはならないとは思うけれども。
―――――――――――――――――
僕は目を閉じる。
にも関わらずに、紅く染まった景色は目の前に広がっている。
不思議だという感覚はこれっぽっちもない。
目の前には女の子。
貴理だ。今の姿をした。
きっと僕も今の姿をしている。
それでも、何の不自然もない。
燃えるような紅い空の下、小学校の校庭。
幼い僕と貴理。
それは幼い日の思い出。
夢だということはには、僕はもう気が付いている。
実際にはあの時、僕は目を閉じなかったと思う。
そもそもキスという言葉を知らなかった。
それでも、貴理の気持ちが僕と同じだと言うことがわかって嬉しかったのを思い出す。
・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
(約束・・・だよ?)
細かいシーンが飛ぶ。
そういえば、あの後に約束したことがあった。
(うん。約束)
僕は迷わず答える。
それがどんな約束だったかのシーンはなかった。
でも僕が言い出した約束だ。
そして、それはとても大切な約束。
その確信がある。
(僕は、貴理のことが・・・・・・・
「はっっ」
そこで目が覚めた。
「ん・・ぅ」
隣で貴理の声がする。
寝返りをうつ貴理の髪が、胸のあたりにくすぐったい。
痺れている左腕が、貴理の存在を物語っている。
あの夏、僕と貴理の始まりの夏から三年。
今では休みの度にとはまではいかなくても、最低でも月に一度、多い月では三度、貴理は僕の部屋で週末を過ごすようになっていた。
親を何とか説得して、貴理ができるだけ来やすいところに一人暮らしをしている。
とはいえ、こんなにも来てくれる貴理には頭が下がる。
もっとも、貴理はさすがに一人暮らしという訳にはいかず、家から大学に通っている。
一度貴理の家に行ったときには、さすがに身の置き所に困った。
幸いだったのは、章さんも母親も僕と貴理の仲を認めてくれたことだろう。
おかげで、こうして貴理が部屋にくることは一応認めてもらっている。
もう大学生なのだから、自分達で判断しなさいとのことだった。
相手が僕であったということも含まれていると思いたい。
それに、貴理と一緒にその話を切り出したときには、もう何を言っても手遅れだったと言うこともあるだろう。
さしもの章さんも、僕に厳しい眼差しを向けた後、どこか諦めたような息を吐いたのだから。
そして、もう一度僕に向けられた視線が、何かを訴えるようなものだったことも忘れられない。
「貴理?」
むにゃむにゃと何かを呟いている貴理に声をかける。
起こしてしまっただろうか。
だとしたら悪いことをした。
窓に掛かるカーテンの様子からすると、まだ7時か8時といった頃だろう。
確かな時間はわからないが、いつも通りだったとすれば、二人が眠りについたのは3時は回っていた筈だ。
しかも疲れ果てて。
しかし、貴理は相変わらずむにゃむにゃと言っているだけで、何の反応も示さない。
「・・・寝言・・・か?」
そういえば前にも一度こんなことがあった。
確かあの時は「ケーキが・・・」とか「もう食べられない」とか、そんなことを言っていた。
どうせ今回もそんなところだろう。
目を覚ましたらからかってやろうと思いつく。
そこで、貴理の寝言に聞き耳をたてる。
「・・・んぅ・・。恭生・・・」
(え・・・?僕のこと・・・?)
貴理の口から出てくる名前を聞いて、鼓動が少し早くなるのがわかった。
一瞬にして、体温も上がった気がする。
貴理が起きていたら気がつかれてしまうのではないかと思うくらいに。
「・・・た・・・か・・・お」
「なに?貴理?」
寝言とはわかっているけれど返事をした。
そして貴理の次の言葉を待つ。
なんというか、とても幸せな時が流れているのがわかる。
「・・・もぅ・・・だめぇ・。私・・・こわれ・・・」
「・・・・・・」
しかし、次の貴理の言葉に唖然とした。
幸せな気分に浸っていた自分が恥ずかしくなる。
まったく何という夢を見ているのだろう。
それはまあ、昨日の夜も激しかったことは否定はしないが。
「・・・いつも求めてくるのは貴理の方じゃないか・・・」
まるで僕が苛めているみたいな言葉に、つい愚痴をこぼす。
もちろん求められて嫌な気がしているわけではなく、そのこと自体はむしろ嬉しくはある。
それにしても、何もそんな夢を見なくても良いだろうに。
よもや家にいるときもこんな寝言を言っているのではないだろうかと心配になる。
「・・・はぁ・・・」
一気に憂鬱な気分になってしまった僕は、ため息をついた。
聞かれたところで、別れなさいとか言われるわけではないと思う。
この状況を作ることを認めている時点で、章さんたちにもある程度予想がついていることだろう。
けれど・・・。
責任。
貴理とのこれから。
このことが明るみに出てしまえば、考えないわけには行かなくなる。
考えたことがないわけではない。
別れることは考えられないし、一緒にいたいとも思う。
今現在は、貴理の両親との間では暗黙の了解といった感じにもなっている。
それでも、どこか踏ん切りがつかない。
心に引っかかるものがある。
一緒に生活するということ。
そのことが信じられない。
想像ができない。
いや、想像ができないわけではない。
今みたいに、身体を重ねるのが当たり前の日々が続くのではないかと思ってしまう。
それで良いのだろうかと考えてしまう。
僕が貴理に望んでいることは、そんなことなのだろうか。
貴理と一緒にいるということは、そんなことなのだろうか。
それではいつか、苦しくなる時が来るのではないだろうか。
そうなったら、貴理と一緒にいること自体が苦しくなってしまうのではないだろうか。
それならば、今のままの方が良いと思えてしまう。
「結婚・・・か・・・」
あと2〜3年もすれば、本気で考えなくてはならないだろう。
けれど、その間に不安を拭うことができるだろうか。
あの夏、友達から恋人へ進むのにさえ、あんなにも手間取った僕と貴理だというのに。
「貴理はどう思う?」
返答は期待していない。
いつの間にかスゥスゥと寝息を立てている貴理の頭をそっとなでる。
スルスルとした手触りが心地よい。
「僕で良いかい?」
頭をなでている手だけは、夢の世界にも届いているのだろう。
くすぐったそうに貴理は頭をすくめる。
今度は違う夢でも見ているのだろうか?
そう思った時だった。
「そういえば・・・」
さっきまで、僕も夢を見ていた・・・と思う。
何だっただろうか。
記憶の糸を辿ってみる。
「・・・・・・・・・・・」
目を閉じてもみる。
けれど思いつかない。
「だめか・・・」
そもそも夢なんて、見たことさえも忘れてしまうものがほとんどだ。
現に、さっきまですっかり忘れていたのだから。
見ていたことに気がついただけでも幸運かもしれない。
「仕方ないか・・・」
そうは呟いたものの、心のどこかがざわついていた。
思い出さなければいけない様な気がする。
大切な何かじゃなかっただろうか?
そんな思いに満たされる。
(大切なもの・・・)
いつの間にかもう一度考え始めていた僕は、隣の貴理に目を落とした。
タオルケットを頬まで引き寄せて、気持ち良さそうに眠っている。
しばらくの間、そんな貴理を見ていた僕は「ふっ」と軽く息を吐き出した。
やっぱり思い出せない。
多分貴理とのこと、そして、昔のことだとは予想がつくのだけれども。
「ごめんな・・・」
貴理にむけて小さく囁いた僕は、貴理の口に近づいた。
ベッドの向こう側に落ちている物が、その僕の目に入った。
それは、淡い青緑色のビー玉。
立ち上がって、ベッドの向こうに回りこむ。
そして、僕はビー玉を拾い上げた。
親指と人差し指の二本でつまんで、上に翳す。
「たまにはお酒じゃなくて、こういうのも良いよね」
昨日の夜、二人でテレビを見ながら、そう話して一緒にラムネを飲んだ。
貴理が部屋にやってくる途中に、寄ってきた店で買ってきたラムネだ。
そのラムネに入っていたビー玉だった。
ボトルはプラスチックで、口の部分がネジになっていた。
普通のネジとは反対方向なことに気がつくのに、たっぷり10分はかかってしまった。
それでも簡単に取り出せた方だ。
昔飲んだラムネは、ビンを割って取り出したものだ。
その後、二人してそのビー玉を転がしあった。
「子供の頃も、よくこうして遊んだよね」
貴理はそういってはしゃいでいた。
「えいっ!」
掛け声とともに貴理が力いっぱい転がしたビー玉は、僕の手の届かないところを転がった。
そしてベッドの下をくぐった。
「だめじゃない。ちゃんと取らなきゃ」
責任を僕に押し付けた貴理に言われて、しぶしぶと拾いに行った。
そして僕がベッドの上から手を伸ばした時、貴理が後ろから飛びついてきた。
そのまま僕らは、ベッドの上で取っ組み合いを始めたのだった。
「・・・そうだ」
思い出した。
さっきの夢を。
それは初めての夏。
僕と貴理が出会った夏。
その最後の日。
ずっと忘れていた日。
そして、さらに思い出す。
夢に出てこなかったこと。
僕と貴理が、そのときやったこと。
(まったく。こんなに大事なことを忘れていたなんて・・・)
いくら幼い頃とはいえ、ちょっと自分が情けなくなる。
覚えていれば、3年前にもあんなに苦労はしなかっただろう。
実際には次に行ったときには、すでにすっかり忘れていた。
そして、さっきまで考えていたことをとても恥ずかしく思った。
何をそんなことで迷っていたのか。
子供の僕は、あんなにも真っ直ぐだったのに。
「どうしても?どうしても帰っちゃうの?」
それは真っ赤に染まった校庭。
僕と貴理ちゃんの影は長い。
「ごめん」
しがみついて責めるように問いかけてくる貴理ちゃんに、僕はそれだけしか言えなかった。
「おにじいさんが帰れていうの?それなら私、お父さんに頼んでみるよ?」
「・・・ちがうんだ。・・・もう・・・夏休み、終わりなんだ・・・」
そう。
僕は夏休みが終わったら、元の学校に帰らなくちゃいけない。
山村留学は、もう終わってしまうのだ。
「あ・・・」
「だから、帰らなくちゃいけないんだ・・・」
「そう・・・だね・・・・・・」
僕のTシャツを掴んでいる貴理ちゃんの力が抜ける。
「・・・・・・」
二人とも言葉が出ない時が流れる。
「また・・・来るから・・・」
その中で、僕は搾り出すように声を出した。
本当に来られるかはわからない。
それでも、そう言っておきたかった。
約束しておきたかった。
だから
「あのね、貴理ちゃん」
僕は
「じいさんに聞いたんだけどね」
泣き出した貴理ちゃんに
「本当に好きな人にはね」
ありったけの想いを込めて
「綺麗な石をあげるんだって」
そっと諭すように
「けっこんするんだって」
泣き止んで欲しいから
「そうすれば、ずっと一緒にいられるんだって」
笑顔を見せて欲しいから
「いまの僕には、これぐらいしか用意できないけど」
僕も涙声になりながら
「これも綺麗だし、宝物だから」
手に持った、ラムネのビー玉が入った缶を。
「貴理ちゃんにあげる」
貴理にさしだした。
「だから、けっこんしよう?」
その言葉に顔を上げた貴理は、驚いたように目を見開いていた。
そして、
「・・・だめ・・・」
とても嬉しそうに、否定の言葉を僕に告げた。
「だってね本当はね、指にはめるものなんだよ」
「それをね交換するの」
「それにね教会の神父さまの前でね、『ちかいのことば』っていうのを言わなきゃいけないんだよ」
「それとね・・・」
「しなきゃいけない、もう一つのこと・・・」
そういって、貴理が僕に顔を近づけてくる。
「今できること・・・」
その後しばらくして、僕は柔らかい感触をかすかに唇に感じた。
「約束・・・だよ?」
ほんの僅かな間の後に、僕の目を真っ直ぐに見て貴理ちゃんが言う。
「うん。約束」
僕も迷わず答える。
「忘れたら許さないから」
「忘れないよ」
忘れるわけはない。
「ほんと?」
「うん」
だって僕は・・・。
「ほんとうにほんとう?」
「うん」
僕は貴理ちゃんのことが大好きだから。
「やぶったりもしない?」
「うん」
「ほんと?」
「ほんとうにほんとうだよ」
「じゃあさ」
「え?」
「これ・・・、ここに埋めよ?」
「埋め・・・るの?」
「なくしたら・・・恭生くん、戻ってこないかも知れないから。だから、なくさないように埋めるの」
「でも・・・忘れちゃわない?」
「忘れないよ」
「ほんとう?」
今度は僕が聞く。
「うん。だって・・・・・・」
夕日に染まる貴理の顔は、とても紅かった。
「だって・・・、恭生くんだって宝物なんでしょ?」
「うん」
「だったら忘れないよ」
「うん。そうだね」
「だから・・・いつか取りに来てね」
不安そうに言う貴理に。
「もちろん。だって、僕は貴理ちゃんのことが大好きだから」
僕ははっきりと伝えた。
「私も、恭生くんのこと大好き!」
「だから・・・そのときはちゃんと結婚しくれるかな?」
「うん!」
さっきまで泣いていた貴理なのに、すっかり涙の跡は消えていた。
――――――――――――――――――
「お待たせ」
銀行から出た僕は、ガラス窓に姿を映して髪を整えている貴理に声をかけた。
「で?どこへ行くの?」
「そこのデパート」
銀行の隣のビルを見上げて言う。
「え?」
「ちょっと買いたいものがあって」
「買いたいもの?」
デパートの二階。
今日の朝、夢を思い出してから決めたこと。
見つからなかったビー玉の代わり。
「まあ、とにかく付いて来てよ」
そういって僕は貴理の手を引くと、ガラスのドアを押し開けてデパートの中に入った。
もう一度このドアをくぐるとき。
そのときに繋いだ手の薬指に輝くものを貴理はまだ知らない。