14日
2002/02/22
僕は目の前の棚からチョコレートを二枚取った。
べつになんてことはない、普通の板チョコレート。
一枚百円とお手軽な一品だけど、どことなくお気に入りのチョコレートだ。
もう一つの手には今日発売の週刊誌と缶の紅茶。
紅茶はチョコレートのことを考えて、もちろん無糖のやつ。
今日の夜食はこれで決まり。
こんな生活を続けていたら太ってしまうとは思いつつも、夜食と息抜きなしではそうそう受験勉強も続かない。
それに来週末の本命校の試験が終われば一段落だ。
大幅に太ってしまうこともないだろう。
幸い今の所は自覚症状はないし。
それにチョコレートは、例年ならば多くはないけれど食べていたはずだし。
今日は2月14日、世間はバレンタインデー。
受験生に関係ないってことはないけれど、少なくとも僕のように義理チョコ頼みでは関係ないようだ。
学校も自由登校になってしまっているし、さすがに義理チョコを渡しに家にくる物好きはいないだろう。
本命の・・・なんていうのは、もっと物好きだろうし。
とにかく今年は食べそこなったという訳もあって、今日の夜食はチョコレートに決定していた。
もともとチョコレートは好物だ。
今日という日にチョコレートを買うのもちょっと気が引けるけど、これならまあ問題ないだろう。
そんな下らないことを考えながら、レジに向かった。
が、レジには人はいなかった。
控え室にでも入っているのだろうか。
「すみません」
僕は奥のドアに向かって声をかけた。
ふと壁にかかっている時計に目をやると、ちょうど10時を回ったあたりだ。
バイトの変わり目なのかもしれない。
どちらにせよ10時半前には帰れるだろう。
息抜きをしながら夜食を食べて、もう一踏ん張りするにはちょうど良い時間だ。
「いらっしゃいませ。お待たせいたしました」
そう言いながら女の子がドアから出てきた。
エプロンを結びながらであるところを見ると、やはり交代の直前だったのだろう。
彼女には見覚えがあった。
この店には時々来ているので多少は店員の顔を覚えてはいるが、そういうことではない。
本永朋子、中学校の後輩だ。
部活と委員会が両方とも同じだったこともあって、日常的に良く話をしたりしていた。
卒業してからは会うこともなくなっていたので久しぶりだ。
とは言っても・・・、本永は全然変わってなかった。
肩ぐらいまでのポニーテールも、丸めの眼鏡も。
昔は特に気にすることもなかったけれど、今思えば思い切り好みのタイプだった。
高校に入って、好みが変わったせいもあるかもしれないけど。
この店では初めて見るけれど、あたらしくバイトに入ったのだろうか。
「や、ひさしぶり」
本永に声をかける。
「え?カッくん先輩?!」
懐かしい名前で呼ばれた。
そういえば当時、そんな呼ばれ方をしていたっけと思い出す。
「あはは。その呼ばれ方も懐かしいな」
「あっ。ごめんなさい。つい・・・」
「いや、別にそれで良いよ。嫌な訳じゃないから」
「そう・・・ですか?じゃあ、カッくん先輩で」
ほっとしたという感じで、本永が言う。
僕としても正直なところ悪い気はしない。
女の子にあだ名で呼ばれるなんて、久しぶりのことだ。
「うん。まあ、高校ではそういう呼ばれ方はされてなかったなぁ」
「そうなんですか」
「と言うか、そう呼んでたのって本永だけだった気もするけど」
「そんなことないですよう。玲子とかも呼んでましたってば」
「玲子って、冨田?」
冨田玲子、同じく中学校の後輩で本永と良く一緒にいた女の子だ。
そういえば彼女とも卒業以来会ってない。
「はい。そうです」
「って、冨田には本永がそう呼ばせてたじゃないか」
「まぁ、そうですけど」
「どう?冨田なんかとは連絡取ったりするの?」
「ん〜。去年まではよく遊んだりしましたけど、玲子引っ越しちゃったんですよ」
「へ〜、そうなんだ」
「そうなんです。埼玉の方なんで、さすがに最近は会ってないですねぇ」
「さすがに1時間半以上はかかるもんなぁ・・・」
「はい。でも元気みたいですよ。この前手紙きたんです」
「それは良かった」
「でも先輩?今日はどうしたんですか?」
「ん?夜食を買いにきたんだよ。それと気晴らし用品。さすがに勉強ばっかりじゃねぇ・・・」
「受験・・・ですか?」
「ああ。来週末にも一つ。本命さんが」
「がんばって下さいね。だけど、カッくん先輩の家ってこっちの方でしたっけ?」
「あ?ああ。去年引っ越してきたんだよ。近くに新しくマンションができたんだ」
「ああ。あそこですか」
「でも、よく覚えてるなあ。俺の家がこっちじゃないなんて」
「別に特別なことじゃないですよぅ」
「そうか?俺は本永の家・・・ってもともと知らないか」
「さすがに来たことないですしね」
「まあな。さすがに。でも、本永だって俺の家に来たことないよなぁ」
「ないですねぇ。さすがに。でも、まぁ、色々とありましたんで」
「ん?」
「あっ。ごめんなさい。レジ打ちますね」
「ああ、ありがと」
「お客さんにそういわれるのも何か変ですね」
そういうと、ちょっと慌てた様子で本永は商品をバーコードの機械に通し始めた。
(・・・はぐらかされた・・・・?)
まさかとは思いつつも、そんなふうに思ってしまう。
「んっ。あれ?」
ピッピピピッ
どうやらバーコードをうまく読み取ってくれないらしい。
本永は紅茶の缶を何度か行ったりきたりさせている。
「ごめんなさい。まだあんまり慣れてないもので」
「始めたばっかり?」
「そうです。先週から」
「どおりで初めて見るわけだ」
ピピッ
「あ、通った。えと、次は・・・」
品物に目を向けて、少し戸惑うようにした後、本永は週刊誌に手を伸ばした。
ピピッ
今度は一度で通ったようだ。
「良いんですか?漫画なんか読んでて」
「気分転換、気分転換」
「なんて言って、転換しっぱなしなんじゃないですか?」
「いいや、そんなことない・・・つもり」
「つもり・・・ですか?勉強も頑張ってくださいね、先輩」
「一応は頑張ってる」
「あはは。・・・それにしても・・・」
週刊誌を袋に入れた後、チョコレートを手にして本永が言い淀んだ。
「え〜とだな」
問題はないとは思っていたが、知り合いの女の子に見られるのはさすがに気恥ずかしい。
「チョコはもともと好きだし、学校は自由登校になってて行ってないし、さすがに家まで届けるような物好きもなぁ・・・」
しかたなく歯切れ悪くも言い訳を始めた。
「彼女さんとかって・・・」
きつい所をつかれる。
恐る恐るとはいえ、聞いてはいけないことだ。
「・・・いるように思う?」
「まぁ・・・いてもおかしくはないとは」
「ん〜。そう言ってもらえると・・・」
「いないんですか?」
「幸か不幸か」
「そう・・・ですか・・・」
「そういう本永だって、こんな日にバイトしているようじゃ・・・」
悪いと思ったのか、言いよどむ本永に僕も反撃を開始する。
「・・・・・・」
本永からは返答はなかった。
しばらく無言の時が流れる。
逆に罪悪感を感じてしまう。
悪かったな、そう言おうとした時だった。
「それじゃあ、これ、私から・・・です」
何とか搾り出したというような声で本永は言った。
そして、レジを通さずにチョコレートを袋に入れる。
「え?」
「後で私が払っておきますから」
「いや、そういうわけじゃなくて・・・」
「本当は、昔、わたそうとしてたんです。でも、うまくわたせなくて・・・」
「あ、え〜と・・・」
今度は僕のほうが言葉に詰まってしまう。
そんなこと、当時は思ってもみなかった。
恋愛の対象として見ていなかったのは事実だ。
彼女はどちらかと言えばもっとサバサバしていて、恋愛ごとというのが似合う感じではなかった。
でも今になって思えば、中学生の女の子がそんな訳はないことは、少し考えればわかることだ。
「受け取って・・・貰えますか?」
まっすぐに目を見据えられる。
その目は決して強いものではなくて、緊張と不安が入り混じったような目。
そうでもしていないと今にも泣き出してしまいそうな目。
(・・・どうしよう・・・)
困った訳ではない。
もちろん嬉しい。
けど、迷った。
今まで何の想いも持ってなかったということが気になった。
目の前にいる本永を可愛いとは思う。
でも今現在好きなのかというと、そうではない。
それで良いだろうか。
返事に間があいてしまう。
(でも・・・)
「・・・ごめんなさい。やっぱり迷惑ですよね。受験前ですし」
悲しそうな本永の声で決心がつく。
(折角、偶然こんな風に逢えたんだし)
こういう恋も良いかもしれない。
そう思えた。
「待った!」
チョコレートを袋から出そうとする本永を止める。
「え・・・?」
「ありがとう。喜んで受け取らせてもらうよ。もっとも気が変わってなければだけど」
「・・・変わる訳ないじゃないですかぁ・・・」
途端に本永の顔が崩れる。
「あ、ちょっと。そんな泣くようなことでも・・・」
そこには僕のイメージとは違う本永がいた。
でも、それがなんだか嬉しい。
「いえ、とってもうれしいです。あっ。でもどうせなら、もっとちゃんとしたやつに・・・」
「あ、いや。これで良いよ。むしろこれが良いかな」
「でも・・・」
「なんというかさ、見るからにバレンタインって感じがするやつだと、心がこもってない気がしてさ」
「そうなんですか?」
「ありきたりというか。それに、僕はこのチョコ好きだからさ。好きなものだと嬉しいし」
「それじゃあ、これで。でも、先輩に会えるってわかってれば用意してきたのにな・・・」
「それなら来年、期待してるよ」
「え・・・?」
きょとん。
まるでその音が聞こえてくるかのように、本永は目を見開いている。
言葉の意味を理解できないと言った感じだ。
「来年は、用意してくれると嬉しいな」
もう一度繰り返す。
自分にも言い聞かせるように。
「来年・・・」
言葉を飲み込むように本永が繰り返す。
「うん」
僕が返すのは笑顔。
本永はもう一度目を見開いた。
今度は驚いた様子で。
次には満面の笑み。
「わかりました。それじゃあ、来年は用意しておきます!」
それは僕のイメージと同じ本永だった。
それもなんだか嬉しい。
どこか、くすぐったい気持ちになる。
「おっと、そうだ。いくら?」
照れ隠しに話を切る。
「え?」
「品物」
「あっ。そうでした。えーと、339円になります」
顔を見合わせて、お互いに「あはは」と笑う。
「じゃあ、350円から」
「はい。11円のおかえしになります。ありがとうございました。えっと、少し時間大丈夫ですか?」
「別に問題ないけど」
「それじゃ、着替えてきます。もう上がりですから。方向同じですから、帰り、一緒して良いですか?」
「わかった。外で待ってる」
「はい。急いで着替えてきます」
「大丈夫だよ、別に急がなくても」
「いいえ、早く一緒に歩きたいですから」
入ってくる時と同じように、自動ドアが重い音を立てて開く。
ドアに映っていた顔がにやけていたのが、自分自身でもわかった。
冬の澄んだ風が火照った体にひんやりと感じた。
暖房に慣れたせいだけではないこともわかっていた。
空を見上げると、冬のシリウスが燦然と輝いている。
彼女を待つ。
今日はきっと、勉強なんて手につかないだろうと思った。