ガダダッガダダッ
電車のレールが、けたたましい乾いた音を立てて始めた。
その音は、外界とは隔絶されている車内で聞いても耳障りだ。
もっとも、それは俺の気分がそうさせているのも一因だろう。
朝のラッシュ時とはいえ、下り電車の車内はチラホラと空席も見える。
先頭車両だということもあるのかもしれない。
僕はステンレスのドアに填められた窓から、のどかに見える川を眺めていた。
7月始めの初夏の朝日が、緑色に染まった土手を照らしている。
土手の上の桜並木も、すっかり緑色に染まっているのが見える。
通学の電車の中から見る土手の様相は、2年前とさほど変わっていない。
ただ、鉄橋から少し離れたところには、その頃には無かったこげ茶色の塊・・・高層マンションが見えた。
大体十五階建ぐらいだろうか。
まだ今年に入った頃は覆いが被さっていたが、今では入居者募集の垂れ幕も外されてしまっている。
どうやら完売したらしい。
不動産屋としては、きっと成功なのだろう。
それは、僕にとっても良いことだった。
別に嬉しくはない。
ただ、これで売れ行きが芳しくなかったりしたら、怒りの抑えようがない。
二年前、その一角には青い瓦の屋根が見えた。
いや、見えたというのは適切ではないかもしれない。
その屋根を認知するには、電車の中から眺めるのでは難しかっただろう。
もちろん、俺だって気がつかなかった。
気づけと言う方が無茶だと思う。
なにせ、何の変哲もない町並みが広がっているだけだったのだから。
けれどある日、俺はその屋根をはっきりと認識するようになった。
そして、その後しばらくして特別な場所になっていた。
それは、まだ俺が大学に入学したばかりの頃のことだった。
「おう!相川、今日からバイト始めるんだって?」
「ん?ああ、そうだけど?」
講義が終わって教室から出ようとした俺は、叩かれた肩の方を振り返った。
「かてきょだって?」
「そ。週2回で1回2時間」
そこにいたのは関根。
大学に入ってからの友達だったが、妙に気の合うヤツだった。
「時給は?」
「時給って訳じゃないけど、月謝で1万と5千円」
「月1.5・・・ってことは、大体時給950ってあたりか」
頭の中のそろばんをはじいたのだろう、やや間を持って関根が聞いてきた。
「そんなもんだな」
「家庭教師にしちゃ、安めだな」
「ま、ね。しかたないさ。母親の知り合いの人の子供だしね」
「へぇ・・・」
「都合の融通も利くし、向こうの都合で中止したときは授業なしで良いって言うしさ」
「ま、小遣い稼ぎ程度なら良いとこか」
「そんな感じ」
「・・・で?」
「ん?」
興味深々。
何よりも関根の目がそのことを物語っていた。
予想はついた。
何しろ、関根の趣味がそういった系統のゲームだと言うことは思い知らされていた。
「お相手は?」
「は?」
「何とぼけてんのさ。家庭教師と言えば、お約束じゃん?」
当然の如くとぼけてはみたものの、やはり追求の手が入る。
「あのなぁ・・・」
「ほう?はぐらかす・・・と」
「なっ。別にはぐらかすって訳じゃ」
見事に図星。
「それなら言えるよね〜。あ・い・か・わセンセ?」
「高1の女の子だよ」
渋々といった感じで答える。
「くっ。女子高生とは。こいつめ、よくもいけしゃあしゃあと」
「いたたたっ。やめろって」
握り締めたこぶしを、力いっぱいぐりぐりと頭に押し付けられた。
いわゆる「うめぼし」と呼ばれている攻撃法だ。
俺は関根の手首を掴んで抗議の声をあげる。
「やめるもんか。この幸せ者!」
もちろん関根がやめる気配はない。
「だぁから言いたくなかったんだよ。幸せって、可愛いかどうかだってまだわかんないんだぞ?」
「可愛いかもしれないだろ?」
「第一、母親の知り合いの子に簡単に手を出せるか!ったたたた・・・」
関根の手に、さらに力が加わった。
「い〜や、わからん!何せ絶好のシチュエーションだからな」
「だぁから。そんなのはおまえの趣味の世界だけにしてくれよ!」
そう言って、俺は関根を振りほどいた。
「ほぉう?それなら、裏切らない・・・と?」
「当たり前だろ!」
頭をさすりながら答える。
「よーし。じゃあ、裏切った日には覚悟しとけよ?」
関根はにやけた目つきをしていた。
どうせ裏切るんだと言わんばかりだ。
「ああ」
俺はぶっきらぼうに答える。
「その言葉、忘れんなよ?」
「おまえこそ、何もなかったときは覚えてろよ?」
「万が一、何もなかったらな。それじゃ、頑張れよ!」
「ったく何をだよ・・・」
笑いながら言い残して去っていた関根を見送りながら、俺は一人ごちた。
(全く冗談じゃない。そうそうそんなことがあってたまるか)
(高1なんて、ついこのあいだ中学から上がったばかりのお子様じゃないか)
損ねた機嫌とともに、そう考える。
そういう話がありえないことではないのは知っている。
サークルの先輩の中にも、確か一人教え子と付き合っている人がいたはずだ。
その人は塾の教え子だったはずだが、家庭教師でも同じことは言えるだろう。
だが、それは俺が教え子に興味を持てればの話だ。
俺自身、実は年上が好みであると自覚している。
高校時代には、二つ上の先輩に思いを寄せたこともある。
反対に、後輩に興味を持ったことはない。
それに、今高1ってことは妹より年下だ。
妹より年下と思うと、考えるだけで抵抗がある。
だから、俺は自信満々で関根に答えた。
三ヶ月後、関根にたっぷりと奢る羽目になることを知らずに。
俺の乗っていた先頭車両は、川の半ばを過ぎた。
無機質な鉄骨が、相変わらず後方へ飛び去っていく。
目を閉じた。
右肩でドアに寄りかかって、振動に体を預ける。
彼女−愛恵(めぐみ)−と恋仲になるのはあっという間だった。
関根にバレたのも。
それ見たことかと勝ち誇ったような関根の顔は、いまでも脳裏に焼きついてる。
もちろん、ヤツが食い尽くした焼肉のレシートの数字もだ。
けど、まあ別に良いかと言うのが本音だった。
何しろ、関根の言葉のおかげのようなものだったからだ。
関根の言葉のおかげで、俺は始めの日からしっかりと意識をしてしまった。
ギクシャクとしてしまった2時間だったのを覚えている。
2回目の授業のとき、今度は俺が変だった。
どこかそわそわして、落ち着かない様子だった。
後から聞いた話だが、最初の授業のときの俺の態度を友達に相談したら、その友達が関根のような娘だったようだ。
そのまま2ヶ月間、お互いに意識ながらの日々が過ぎていた。
そして、授業の日でない日にも会うようになった。
きっかけは、愛恵の言葉。
「先生?私のこと・・・もしかして好きですか?」
8回目の授業の帰り際、玄関先でそっと言われたのだった。
そうして、愛恵はさっと家の中に入っていってしまった。
うろたえていた俺を取り残して。
結局、俺は帰り道の途中、公衆電話を探したのだった。
答えは決まっていた。
と言うか、決められてしまったようなものだ。
あの言い方に・・・違うとは答えられなかった。
もちろん嘘ではなかったが、流された感がないわけではなかった。
もっとも、それが全く気にならなくなるのもあっという間だったが。
だから、関根のからかいがなければ、愛恵と付き合うこともなかったかもしれない。
当然のことながら、そんなことは関根に話す訳もないのだが。
(話したら最後、何を求められたかわかった物じゃなかったからな・・・)
目を開けて、視線を土手に戻す。
愛恵と、良く散歩した土手に。
9回目の授業の日、川の上流にある高校まで愛恵を迎えに行って、土手沿いに一緒に帰った。
その日、俺は4コマ目の必修の講義を抜けていた。
代返を関根に頼んだのが、バレた原因になったもの懐かしい。
二人でこの鉄橋の下をくぐったのは、午後4時半頃だっただろう。
丁度、今と同じくらいの季節。
その時間でも、太陽はまだ鋭い日差しを投げかけて来ていた。
「も〜。だらしないな〜。先生、すっかりおじさんだぞっ!」
鉄橋下のコンクリートのトンネルの中で、暑さにまいった俺が「休もう」と提案したことに対して、先にトンネルから出ていた愛恵はそう言った。
もちろん笑いながら。
日差しの下の愛恵の笑顔は・・・眩しかった。
背景にあった土手の鮮やかな緑から反射した夏の光のせいか、白いはずのセーラー服が緑色に染まって見えた。
その瞬間、俺の心は決定付けられた。
だから、今でもこの川辺の風景は心に響く。
何度も通った屋根が、チョコレート色の塊に変わってしまった町並みとともに。
その年の12月のことだった。
愛恵が引っ越してしまったのは。
俺にとっては突然に振って沸いた、マンションの建設計画がその理由だった。
隣接していた駐車場の地主が、マンションを立てることにしたそうだ。
そして愛恵の家も、土地自体はその地主の土地だった。
だからと言って、立ち退かなければいけないわけではないはずだ。
居住者の権利がどうとかって話は、良くテレビでも耳にする。
それでも、愛恵一家は引越した。
おそらく、地主との話し合いの結果なんだろう。
高校生の愛恵が何を言えたわけではなかったと思うし、俺が口出しをできるはずもない。
それは仕方ののなかったことなんだと思う。
初めて過ごしたクリスマスは、別れのクリスマスになった。
その場で別れたわけではないが、桜が咲く頃にはお互いに連絡をとることもなくなっていた。
先に返事をしなくなったのがどちらだったのかは覚えていない。
俺だったかもしれない。
いや、きっと俺だったのだろう。
なにしろ、あきらめてしまっていたのだから。
半分以上、ヤケになっていた。
「どうせ続きやしない」そう思っていた。
カタッカタッ カタッカタッ
レールの音が変わった。
土手の上を、あっという間に通り過ぎる。
その場で何の感慨も持つことができないまま。
相変わらず茶色いマンションは見えていた。
だが、だんだんと遠ざかっていた。
「次は鴻津川〜、お出口は右側に変わります」
車掌の間延びした声が車内に響く。
ドアの上では、LEDも同じことを告げていた。
鴻津川駅。
その駅は、愛恵の家、そして通っていた高校の最寄駅だった。
何度も降りた駅。
俺の通っている大学の最寄駅の二つ手前の駅。
停車のために、電車は速度を落とし始めた。
俺は寄りかかっていたドアから体を離した。
次は、こっち側のドアが開く。
・・・to be continue