青空の天井 

 角を曲がった。やはり、そこにはなかった。商店街を包んでいたアーケードは、青空の天井になっていた。もうないのだとわかっているのに、この角を曲がろうとするたびに、あのアーケードがあるような気がする。

 幼い頃の昭和通りは、まだ大正町と呼ぶ人も多く、アーケードの下はまさに町だった。大正町という呼び名に慣れていた人にとって、昭和通りという名はどのように耳に響いていたのだろう。生まれた時から「昭和通りだった私」には、「大正町の大人達」が、時代遅れに思えた。日本全体が人の心より速く動いてしまった時代だ。

 私はカネタと木形屋の間の小路の奥の借家で生まれた。小学校5年生までの約10年間、私の遊び場は、昭和通りとその裏の共同ガレージだった。長い人生の中のたった10年間なのかと、今更ながら思う。しかし、若ければ若いほど脳の記憶力は高い。10年間の思い出は、若い頃ほど濃密だ。12歳までの経験と記憶が、人生の基礎を作ってしまうことを、25年の教員生活で実感している。私は、生まれてから最初の10年をここで刻んだ。

 アルバムの古い写真の中、幼稚園に入る前の私が昭和通りに立っている。場所は村松書店の前。きっと漫画を立ち読みしていたのだろう。小学校4年生の時には、漫画家になりたくて、友達と2人、ストーリー漫画を描いては出版社に送っていた。残念ながら漫画を描く才能はなかったらしい。それでも、今でも本が好きなのは、目の前に書店があったおかげだろう。昨年、自費出版もした。

 幼稚園の頃、マガジン、サンデー、キングという3大少年漫画週刊誌が40円。隣りの桃花園のかけラーメンも40円。どちらを選ぶべきか、真剣に悩んだ記憶がある。私は物心ついてから、ラーメンといえば桃花園のかけラーメンしか食べたことがなかったので、ある年の誕生日、父が奮発して普通のラーメンを出前してもらった時、ラーメンにチャーシューが一枚乗っていることに、とても驚いたのを覚えている。

 今の子どもと違って、あの頃は、みんなおなかをすかせていた。わずかな小遣いはとにかくまず食べ物に変わる。みんな、とりりんのネックを口にくわえて、缶蹴りをしていた。私は肉が苦手で、みんながネックを食べている時も、一人チョットバーのコロッケを食べた。遊べばとにかく腹が減った。今の子どもは、腹が減るという感覚がわからない。私たちは、大人になったらしっかり仕事をして、腹いっぱい食べたいと思っていた。「出来上がった時代」に生まれてしまった今の子どもたちは、目標を持つのが難しい。

 村松書店のとなりにはアルハがあった。おかげで、本と並んで音楽は私の一生の楽しみとなっている。アルハに行けば、いつでも最新の音楽が聴けた。レコードのジャケットや、歌手のポスターを見るのも楽しみだった。友達が欲しいというレコードを見つける速さも自慢のひとつだった。自分のレコードを出すというあこがれを持ちつづけ、今でも歌を作っているのは、この店を自分の部屋のように感じるほど、長い時間店に居たからだろう。

 アルハでは、生まれて初めて芸能人を見た。美川憲一さんだ。色紙の買えない私は、家にあった白ボール紙を色紙のように正方形に切って、列に並んだ。私の順番が来た時に、美川さんはその紙を見て、とても嫌そうな顔をしながらも、サインをしてくれた。その嫌そうな顔を見ても、不思議なことに、美川さんを嫌いにはならなかった。子供心に申し訳ないと感じていたからだと思う。

 昭和通りにあるのは、本と食べ物とレコードだけではない。遠いアーケードの出口が霞むほどたくさん並んでいた店の数々は、世界中のあらゆるものがあるのではないか、と私に思わせた。ほしいものはいくらでもあった。家が貧乏なのはよくわかっていたから、手に入るとは思わなかった。そういうものを見ているだけで幸せだった。

 中でも市田屋は、毎日通う聖地だった。棚いっぱいに積まれたプラモデルの箱は、宝の山だ。時々、市田屋から、遠洋の仕事を終えた漁師さん達が、両手にいっぱいのおもちゃを提げて出てくるのを見た。久しぶりに会う我が子へのお土産だ。うらやましかった。腹巻きから、裸のお札が顔を出しているのを見たこともある。焼津が漁業の町だということを、子どもなりに実感していた。

 そんな町を独り占めにしたような気分になれる時がある。まだ朝早い昭和通りだ。夏休みの朝、早起きをして昭和通りを歩く。そこには誰もいない。店はシャッターを閉めたままだが、そのシャッターの一枚一枚の向こう側に何があるかは、全部知っている。昭和通にある宝物が、全部自分のものになったような気分で、端から端まで一往復する。ここに生まれてきたことを誇らしく思った。

 掛川市で生まれ育った妻と結婚した時には、もう郊外に住んでいた。「あなたの生まれた場所を見たい」と妻に言われ、昭和通りに連れて行った。妻は、桃花園のかけラーメンとチョットバーのコロッケをいたく気に入ってくれた。

 それから20年間、桃花園のかけラーメンを食べて昭和通りを歩くのが、私たち家族の休日の楽しみのひとつになった。だから、アーケードもさることながら、桃花園がなくなってしまったのは、私たち家族にとって本当に痛い。実は、こんなふうに昭和通りを書いておきたいと初めて思ったのは、桃花園が終わると知った時だ。桃花園のおじさんの書いた閉店のお知らせの看板の前で、妻と記念写真を撮りながら、1人でも多くの人の心に、あの頃の風景を残したいと思った。

 同じ年齢の人たちとの昔話には、「僕らの小さい頃は、自然がいっぱいだった」というフレーズが必ず出てくる。確かに私のまわりにも、今と比べれば自然の遊び場がたくさんあった。しかし、他の人ほど、自然と大胆に関わった記憶はない。アーケードの下や共同ガレージのまわりはアスファルトだった。川は臭うほど汚れていた。

 川は生き物を採る場所ではなく、飛び越えて度胸を試すものさしだった。ぺったんは、コンクリートに打ち付けた。相手のぺったんをひっくり返すために、コンクリートに横顔をつけ、ぺったんの周りの砂を吹き飛ばした。缶けりは、大木の陰や草むらではなく、家と家の間の細い路地に隠れた。泥だらけという形容詞はあてはまらなかった。一日中鳴いているのは蝉ではなく、機織工場の音だった。

 そんなふうに育った人間は、大人になっても「自然に帰ろう」などとは思わない。結婚して子どもができても、キャンプに行くとか、川原でバーベキューをするといったような家族の休日は、ほとんどなかった。自然の中よりも人ごみの中にいるほうが心地よい。娘や息子にはかわいそうだったが、そういう人間のところに生まれてしまったのだとあきらめてもらうほかはない。

 人は皆、自分が大好きだから、想い出の箱の中を覗き込む時には、いつもより余計に幸せのフィルターをかけてしまう。幼い頃も喜怒哀楽、いろいろな感情があっただろうに、今思い出す昭和通りは、楽しかったことで埋め尽くされている。

 よそに住んでいる人間が、昭和通りを昔のまま残して欲しいと願うのは、あまりにも安易で身勝手だ。この星に住むあらゆる生物と同様に、町も新陳代謝を止めれば、死んでしまうだろう。人も町も進化していくためには、自分を庇護してくれる天井が、いつか、どこまでも突き抜ける青空に変わる必要があるのかもしれない。大袈裟かもしれないが、生物が初めて陸に上がった時にも、青空の天井をまぶしく見上げたはずだ。

 アーケードの屋根を通して降り注いできていたやさしい光は、いつまでも私の心の中に残るだろう。その光を覚えている人が、誰もいなくなる頃には、青空の天井で育った子どもたちが、新しい想い出を胸に、また町を新しい世界へ連れて行く。

 アーケードも、商店街のかつての佇まいも、映画『ウォーターボーイズ』の中に記録された。私を作った昭和通りは、近年の邦画の傑作の一本である青春映画とともに、DVDの中で、時々私に呼び起こされるのを待って、ゆっくりと眠りについた。


     『文芸やいづ15号(平成16年度) 奨励賞』


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