僕のオフコース


  初めてオフコースの名前を聞いたのは、いつだったか覚えていない。

たぶんラジオで「僕の贈り物」を聞いていたんだと思う。

「僕の贈り物」以前の、他人が書いたシングルは、いまだに聞いたことがない。

雑誌「ライトミュージック」で小田さんと鈴木さんの写真を見たときは何度もその小さな記事を見直したし、「僕の贈り物」や「もう花はいらない」の楽譜を見ながらギターで歌っていたから、いつのまにか気になる存在だったのだと思う。



  静岡放送というテレビ局は僕が中学生の頃、いくつかのサテライトスタジオを持っていて、公開放送をよくやっていた。

ラジオの番組で喉自慢コーナーに友達と出た時のテープが、今でも手元にある。

沼津のサテライトスタジオでの公開放送で小田さんたちが「僕の贈り物」を歌った姿をテレビで見たのをよく覚えている。

当時は特にファンというわけではなかったので、沼津まで行く気持ちは全然なかった。



  高校に入ってからは、オフコースとは無縁だった。

中学、高校の学校の部活の卓球部。

音楽の情報は、夜中に勉強しながら聞いたコッキーポップと文化放送のポピュラートップ40、それに雑誌からしか得られない。

どんなにいいアーティストでも、メジャーのヒットがないと、田舎の高校生には、情報は届かない。

「ガッツ」「ライトミュージック」「ミュージックライフ」という雑誌を隅から隅まで読んでいても、だ。

雑誌を見ながら、見よう見まねで歌を作り始めていたが、そんな自分でも、田舎の高校生の元には、「僕の贈り物」や「もう花はいらない」以後のオフコースは届いてこなかった。



  大学に入ってから、やっぱりやりたいのは歌を創ることだと思い、フォークソング同好会に入った。

いっしょに入った人達の中では唯一何一つ楽器のできない僕だったが、たくさんの先輩にかわいがってもらって、音楽の中にいることが楽しくて仕方がなかった。

その先輩の中の一人、「季節の小箱」に曲をつけてくれた人の車の中で流れていたのが、「ワインの匂い」と「Song is Love」だった。

先輩は、A面に「ワインの匂い」B面に「Song is Love」を入れ、オートリバースのカセットは、何度も何度も、小田さんと鈴木さんのハーモニーを僕に聞かせてくれた。

ここが、オフコースとの本当の出会いだ。



  こんなに美しいメロディがこの世にあったのか、と思ったのが「愛の唄」。

何度聞いても飽きないから、これが小田さんの最高傑作だと思ったのが「心は気紛れ」だった。

それから、僕は、毎日オフコースの曲を必ず聞くようになった。

アルバムも出た日に買った。

正確ではないけれど、最低でもそれから10年間は、聞かない日はなかったはずだ。



  大学は三重県で、東京のように、好きなときにオフコースのコンサートにいけるわけではない。

大学4年間で、コンサートに行ったのは、2回だけだった。

ただ、まだ、オフコースは「さよなら」前で、それほどメジャーではなく、地元のプロモーターの人が、僕たちのサークルをかわいがってくれていたようで、どちらも前から2番目、3番目という席でオフコースを見た。



  最初のコンサートは、セレクションのツアーだった。

作ったばかりの「やさしさにさよなら」を歌詞カードを見ながら歌っていた小田さんは、歌詞を1行飛ばして歌ってしまい、途中で気づき、気づいたときに歌っていた1行を2回歌ってごまかしていたとMCで告白した。



  2度目のコンサートは、フェアウェイのツアーだった。

いっしょに行った女の子はオフコースのうたをほとんど知らない子だったけれど、「夏の終わり」を聞いて泣いてしまった。

小田さんはすごいと、このとき思った。



  後輩がライブで、「秋の気配」をやるからバックコーラスをやってくれと言われてがんばったんだけど、とうとう音は取れなかった。

音楽の才能のなさはわかってたけど、このあたりで音楽を仕事にするのをあきらめて、今の道を選んだと思う。



  自分は演奏能力がないので、先輩や友達のバックコーラスが4年間の主な仕事だった。

それはそれで楽しかったし、先輩や友達ははそんな僕に気を使って、ときどき僕のオリジナルを歌わせてくれたり、僕の曲をアレンジして、コンテストに応募してくれた。

一番最後まで行ったのは、服部克久さんの前で「海の喫茶店」を歌えたコンテスト。

卒業記念のサークルのライブは、後輩を脅かして臨時のバンドを作り、世良公則さんの「宿無し」や「銃爪」を歌った。

4年間、人前で歌ったオフコースは、大学祭にサークルでやったフォーク喫茶で歌った「ロンド」1回だけだった。

 オフコースの歌を僕もライブでやりたかったけれど、あんなに高い声がきれいに出なかったから、やってはいけないのだと思っていた。

でも、1曲だけ、母親の事を歌った「ロンド」だけはどうしても歌いたかった。



  大学を卒業し、小学校に就職した後、発売された最初のアルバムは「We are」。

結婚前、つきあって間もない妻が、誕生日のプレゼントにステレオの頭金を払ってくれるというので、オーディオやさんへ二人で行った。

ステレオを選ぶときは、自分が一番聞きなれたレコードを店に持っていって、機材を聞き比べるといいと雑誌に書いてあったので、僕は「We are」を持っていって、
いろいろな機材で、何度も「時に愛は」を聞いた。

その時に選んだヤマハの1000Mと山水の907Gはいまだに僕のメインシステムだ。



  「We are」のツアーの静岡は、満員だった。

もう「さよなら」以降だ。「さよなら」のせいで僕のオフコースはみんなのオフコースになりつつあった。

だから、正直言うと僕は「さよなら」が好きじゃない。

本当のファンはこんなことではいけないんだろうけど。

最初の転勤の時に、春休みの離任式には,全校児童の前で「さよなら」ではなく、「青空と人生と」を歌った。



 妻とは、港の見える丘公園にも行ったし(「秋の気配」)、葉山の灯り(「潮の香り」)が見える時間に、見える場所に合わせて、カセットを巻き戻し、何度もその道をやりなおして、葉山の町に入ったりした。



  妻が、結婚式の音楽は僕の好きにしていいと言ったので、オフコースでBGMのテープを作った。

  「Over」の「心はなれて」のインストを流して、「愛の中へ」のジャーンで入場の扉を開けるはずが、結婚式場の係のおじさんがそれを理解できず、「心はなれて」が始まると同時に扉を開けてしまったので、入場せざるを得なくなってしまい、「愛の中へ」が流れる前に席に着いてしまい、「愛の中へ」は流せずに終わった。

「ケーキカット」は「I love you」のさびを何度もつなげ、キャンドルサービスは,松尾さんの「かかえきれないほどの愛」で各テーブルに灯をつけていき、メインキャンドルに点火した瞬間、「愛を止めないで」のさびが流れるように用意した。

退場曲を「ランナウェイ」にしようと思ったら、司会をやってくれた友達が、「こんな暗い曲はだめだ」と言い張り、結局、ここだけは、妻が好きな松田聖子の「渚のバルコニー」になってしまった。



  当時、オフコースの曲をインストにアレンジしたアルバムが3枚出た。

とても気合が入っていて、素晴らしく、歌詞がないほうがいい場面では、このレコードから曲をセレクトした。

とてもいいアルバムなので、ぜひ、CDで再販してほしい。

というわけで、「渚のバルコニー」以外,すべてオフコースの曲で,披露宴を終えた。



  小学校では放送委員会の顧問になることがあると、放送の音楽を全部変えてしまう権力(^o^)がある。

そこで、僕が顧問になると、学校に流れる音楽は、全部オフコースになる。

歌入りでは,不都合が出るので、前出のインストアルバムはとても役に立っている。

朝は「心は気紛れ」で「みなさん、おはようございます」と子供の声が始まる。

昼の放送では、毎日,放送委員が読む作文のバックに「愛の唄」が流れ、下校のお知らせは「水曜日の午後」というふうに1日中オフコースが流れる小学校に変えてしまった。

1曲だけ歌入りの曲を、「お昼の放送」のオープニングで使った。鈴木さんの「永遠の3分」だ。

これで、オフコースファンがふえたかどうかはわからないけれど、当時の子どもたちは、耳の奥にオフコースを流しながら成長していったのは確かだ。



  6月30日は見にいけなかったけれど、4人でのラストツアーは、職場の後輩が,難しいチケットを僕のために取ってくれた。

後輩はファンではなかったけれど、コンサート終了後、小田さんのバスの出待ちまで、つきあってくれた。とっても感謝している。



  一人目は娘,二人目は息子だった。

息子には、和正とつけるつもりだった。

ところが、妻の教え子に同姓同名の子がいることがわかった。

とてもいい子だそうだが、同じ名前があるのを知っていてつけるのは、息子に申し訳ない。

それで、小田さんの一字と僕の一字をくっつけて、息子に名前をつけた。

自分の名前がオフコース由来のものだと知って、息子は「他の子には,やさしい子になるようにだとか,強い子になるようにだとか意味があるのに,僕にはないの」と不満のようだが、息子には、オフコースの二人のように「やり遂げる男」になってほしいと願っている。



  「ラブストーリーは突然に」が大ヒットして、小田さんはとどまることを知らず大きくなっていく。

大きなツアーもやってくれないから、なかなか近づけないで、どんどん月日は過ぎていく。

僕はアルバムの歌を覚えるだけの日々を送っていた。



  「個人主義」のツアーの情報が入ったとき、どうしてこんなに胸が高鳴ったのかわからない。

チケットも電話予約を入れた。

電話予約でチケットを買おうと思ったのは、これまで、スティングだけだった。

よく考えたら,妻と小田さんを見に行くのは、これが初めてだ。



  妻は,隣にいて、このまま、僕が狂ってしまうのではないかと思ったと、コンサートの帰りの車の中で言っていた。

僕はただ気持ちよく小田さんと,同じ時に同じ歌を歌っていて,うれしかっただけだ。

自分の歌で誰かが幸せになってくれればいい、それが、僕の人生の核だったはずなのに、ここ何年もそれを忘れていた。

たまっていた心の垢を全部洗い流し、それを思い出すことが、このコンサートに行くことで、できた。



  今回の感動で、長い間気になっていたFar East Clubにも入会した。

初めて届いたプレスは10周年記念の120号だった。

青山にも行ったけど、初回は、時間もなく、ちょっと恥ずかしくて、奥にいる店の人に声をかけないで、店内を眺めただけど帰ってきた。



  それからは、妻が小田さんのMCを気に入って、ライブに一緒に行くようになり、小田さんのツアーが始まると、東は横浜、西は名古屋まで、二人で遠征するようになった。

娘や息子も一緒に行きたいと言ってくれるようになった。

一番近くで小田さんを見ることができたのは、八景島のリハーサルライブで10メートル先に、歌う小田さんがいた。

最初、どきどきしながら入ったカフェも、プレスのミニフォーラムに一度参加させてもらってからは、ゆっくり座って、ノートにメッセージを書けるようになった。

ミニフォーラムやネットで知り合った方々から、メールを頂いたりして、「オフコースが好き」ということが、人生を広げていくことを知った。



 ずっと小田さん漬けの日々が続いたが、ある日、鈴木さんの全国ツアーがあり、浜松でもライブがあることを知った。

行ってみると、客席のキャパが30人くらいのスタジオで、運よく前から2番目に座れ、たった3mの至近距離で、鈴木さんが歌っていた。

PAはあったが、生声に近い。

ライブ終了後は、サインと握手をしてもらえた。



 2度目に同じ場所で鈴木さんを見た時は、妻と二人。これも前から2番目、3mの至近距離。

偶然だが、前日は、妻と二人、名古屋のレインボーホールで、遠くから小田さんを見ていた。

どちらも、僕にとっては、同じオフコース。昔は1日でオフコースを見たけど、今回は2日かけてのオフコースだ。



 それから、数年、奇跡的な日が訪れた。

鈴木さんのコンサートの前座で、1曲歌えるチャンスが来たのだ。

ナターシャセブンやウィークエンドで活躍されている加戸孝寛さんのギター講座が、焼津市と菊川市の文化会館で行われ、その発表会が、鈴木さんのコンサートの前座として行われるという。

生徒の中から数組が選ばれるということで、必死に練習した結果、その一組に選ばれ、夢が叶った。



歌ったのは、オリジナルだけれど、間奏の中に「ランナウエイ」と「恋を抱きしめよう」のフレーズを織り込んで歌った。

ステージの袖口で、勝手に歌ってすみません、と鈴木さんに言うと、いえいえ、逆にありがとうございます、と言ってもらえた。

さらに、客席に、横浜からいらっしゃった鈴木さんのファンの方がいて、ただ一人、「ランナウエイ」と「恋を抱きしめよう」に気づいてくれたことを知った。

その方に、気づいてもらったお礼を鈴木さんのブログのコメント欄に書くと、また、お友達が増えた。

「オフコースが好き」ということは、それだけで、人生を豊かにするということを改めて感じた。



小田さんも鈴木さんも70代に突入したが、またツアーに出る。

二人は、いつも僕の10年先を生き、僕がどんなに疲れても、「君もあと10年は頑張れるだろう」と歌い続けてくれる。

(もちろん、お二人は、そんなことは知らない(^o^))

だから、僕は、いつでも、「あと10年は歌を作り、歌い続けよう」と思う。



       2018.3.17 改訂


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