映画、大好き


 小さな頃は、テレビのある家など、隣組の中に1軒か2軒で、その家に近所の人がみんな集まってテレビを見ていた。

「ローンレンジャー」をそこで見せてもらったことをよく覚えている。

僕の家にテレビが来たのが何年何月何日なのかは分からないが、「ナショナルキッド」の最終回の日だったのは確かだ。



 テレビがないかわりに、僕の家のまわりには映画館があった。

歩いていける範囲に10館近くあった。(現在は、1館もなくてさみしい。)



 幼稚園以前の記憶がけっこうある。

自分の記憶の中でいちばん古いのは「月光仮面」だ。

聞けば3歳だったというが状況はよく覚えていない。

画面のいくつかがよみがえるくらいだが、それが本当にその映画の場面なのかはわからない。



 「月光仮面」は子供向けなのだが、それ以外は、大人の映画ばかりだったようだ。

日活の「渡り鳥」、東映の時代劇、任侠ものをずいぶん見たらしいが、くわしいことは覚えていない。

でも、確かにヒーローは小林旭さんで、理想の女性は浅丘ルリ子さんだった。

生まれたばかりの妹がむずがるので、母がロビーであやしている間、一人でやくざ映画を見ていた記憶がある。

父が食堂で働いていて夜中過ぎまで帰ってこないので、テレビを見る感覚で映画館に通っていたのだと思う。



 幼稚園の頃、一番印象的だったのは、東映の漫画だ。

「白蛇伝」「シンドバッドの冒険」・・・。渡り鳥シリーズや東映の任侠映画ばかり見ていた僕を心配して、親が路線を変えさせたのだと思っていたので、随分ませた子供だったのかもしれない。

今は宮崎アニメが日本の代表だが、当時の東映アニメはどんな人が作っていたのだろう。

あの独特の動きや色彩は、僕が体験した初めてのアニメだ。

今思えば、世界に誇れるものじゃないかなと思う。



 スチル(写真)を見るのも大好きで、よく一人で映画館をまわった。

当時は、映画館の外にたくさんのスチルがはってあって、それを見るだけでも楽しかった。

町で唯一の洋画の上映館「東海劇場」は映画街から一館だけ離れて、家から1km以上離れたところにあった。

そこへ行くのは幼稚園児にとってはかなりの冒険で、一人で行くことは多分許可されていなかったのだと思うが、何の映画か忘れたが無性にその映画のスチルが見たくて、一人で行ってしまったことがある。

映画館に着くまではよかったのだが、天罰が当たったのか、帰り道に急におなかが痛くなり、とうとう家に着く前におもらしをしてしまった。

汚れたズボンで商店街を大きな声で泣きながら帰った光景を、その後、何度も夢で見た。



 小学校に入るとアニメは見なくなった。

それに代わる面白いシリーズを見つけたからだ。

 1年生の冬、父が「モスラ対ゴジラ」を見につれていってくれた。

連れていってくれたのはいいが、窓口で財布を忘れたことに気づいた。

もう最終回で、家に戻っては時間に間に合わない。

泣き出した僕の手を引いて、父は近くの寿司屋に入り、お金を借りて、僕は無事に映画を見ることができた。

後で聞くと、その寿司屋は知り合いでも行きつけでも何でもなく、初めて入った店だという。

店の人もよく貸してくれたものだ。

自分も息子のために同じことをするかどうか、息子が1年生になった時考えてみたが、よくわからなかった。



 モスラ対ゴジラで怪獣映画の虜になった。

特にモスラがお気に入りで、宿題にもなっていないのに、冬休みに1mほどのモスラを作って学校に持っていったら、担任の先生が教室に飾ってくれた。

それからは、映画といえば怪獣。東宝の怪獣映画に欠かせない地球防衛軍のテーマソングは今でもかっこいいと思う。

「史上最大の決戦」でキングギドラを操っていた宇宙人が敗れて自爆する前の台詞「我々は未来に向かって脱出する」は大分長い間お気に入りだった。



 怪獣映画をリードしたのは東宝で、これから4年間の東宝の怪獣映画は全部見ているはずだ。

モスラ、ゴジラ、キングギドラ、アンギラス、ラドン、ミニラ、エビラ、ドゴラ、サンダ、ガイラ、キングコング、メカゴジラ。

十大怪獣という時があったからもっと思い出さなきゃいけないけど、脳みそもそろそろ老化が始まっているらしい。

東宝以外にも怪獣がいた。

大映のガメラ、大魔神は今でも話題にあがるほど有名だが、日活のガッパや松竹のギララは、当時熱狂した人しか知らないかもしれない。



 その頃、怪獣映画以外で印象に残っているのは、まず「バンビ」。

テレビではディズニーランドを見ていたが、劇場では初体験。3年生の時に友達が「試写会のチケットがあるから」と誘ってくれた。もちろんテレビは白黒だったから、ディズニーアニメをたくさん見ているといっても、大画面にカラーで映るバンビにはびっくりしたらしい。

大人になってからビデオで見直した時に、覚えている場面がけっこうあった。さすがにディズニーだ。

しかし、この映画が本当に印象的だったのは、他に理由がある。

実は、この試写会、いつもは成人指定の洋画専門館のスカラ座で行われたからだ。

バンビの美しさもさることながら、スカラ座に入るというドキドキ感をしっかり覚えているので、随分ませた小学校3年生だったかもしれない。



 もう1本の印象的な映画は「ターザン」。

副題が長くついていたような気がするがよく覚えていない。思い出に残っている理由は、初めて字幕を意識した洋画だったから。

僕も字幕が読めるようになった、これから洋画も面白くなる、などと感動した。

いっしょに行った友達は飽きてしまって、紙飛行機を飛ばして映写妨害したので、いっしょに劇場のおじさんにおこられた。

一度真ん中あたりの席で見て、わがままな僕がもう一度見たいと行って、今度は2回の最後列に行って観たので、さすがの友達も飽きたらしい。



 実は、もう一本、印象的な映画がある。

印象的というより、この映画のおかげで怪獣映画を見なくなってしまったので、モスラ対ゴジラに続く、僕の新しい「時代」の幕開けの映画だ。

それは「海の若大将」。



 小学校4年生の夏休み、ついに一人で映画館に行ってよいという許しが出た。

それまでは、父母といくか、友達とでなければ行けなかったのが、一人前に扱われたのだ。

その映画は「サンダ対ガイラ」

最初の回を観に行ったあの日の映画館近くの光景がぼんやりとだが、頭のスクリーンに浮かぶ。

「サンダ対ガイラ」もちょっぴり感動で泣かせてくれるいい映画だったけど、併映の「海の若大将」の衝撃で、全部吹っ飛んでしまった。

なぜ怪獣映画の併映に「若大将」をやったのか未だにわからないが、初めて一人で劇場に入るという大人びた気分の僕にぴったりはまったのかもしれない。

帰り道はもちろん「お嫁においで」を歌いながら歩いてきた。



 この日から怪獣映画はぱったり。

テレビでも、ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブン、キャプテンウルトラ、怪奇大作戦が終わり、僕の怪獣時代は終わりを告げた。

僕は仮面ライダーのひとつ前の世代になる。

そして映画は若大将へ。

「海の若大将」は若大将シリーズの第1作ではなかったので、「大学の若大将」「銀座の若大将」など、以前の映画も見た。



 当時は、名画座でなくても、人気のある映画は繰り返して上映したのだろうか。

仕組みがちょっとわからないけど、とにかく「若大将」がかかれば、必ず見にいった。

中でも好きだったのは、「エレキの若大将」。

「君といつまでも」が大ヒットした映画だが、僕は「夜空の星」が一番好きだ。

今でも加山雄三のマイベストソング。

自分で作って歌うという気持ちは、この時に生まれたのかもしれない。



 当時は、学校の映画会も、劇場までみんなで歩いて見に行った。

「東京オリンピック」や片腕の野球選手が活躍する甲子園ものなどをみたような気がするが、当時の僕は、学校ではなんてたいくな映画しか見られないのだろう、と思っていた。



 中学校に入ると、僕の映画生活は休憩に入る。

映画館から6kmもある郊外に家を建てたので、簡単に劇場に行けなくなったからだ。

都会ならまだしも、田舎のことでバスの本数もまばら。

部活動に明け暮れた生活の中で、劇場に行く余裕がなくなった。

3年間で観た映画は10本に満たないかもしれない。



 その中から1本を選ぶなら、「エルビスオンツアー」。

併映は「おしゃれ泥棒」。

中学生になってからポピュラー音楽好きになった僕には、音楽のアイドルが何人も生まれたが、エルビスはその筆頭。

おおげさなアクションが臭いという友達もいたが、僕はそのアクションと声が大好きだった。

この年齢になると、家族といっしょにどこかへ出掛けるというのが、みっともないと感じるようになっていたが、この映画は母と行った。

母が、エルビスは昔こうだったと話しているのが、ちょっとかっこよく感じたからかもしれない。



 レナードホワイティングとオリビアハッセーの「ロミオとジュリエット」は卒業間際に、片思いだった女の子を誘って観た。

やっぱりそのまま片思いのままだった。



 高校に入った頃は、市内の映画館は壊滅状態だった。

まったくなくなってしまったわけではなかったが、封切りの映画を見るには隣の町に行かなければいけなかった。

高校時代は部活も続けたが、隣の町に自由に行けるようになったことも手伝って、映画館通いにも精を出し始めた。

読む雑誌も「ロードショー」「スクリーン」からキネマ旬報に変わっていった。

卓球部の友達やクラスの友達にも映画好きがたくさんいて、映画のジャンルをうんと広げてくれた。

ここから少し、観た映画のタイトルを羅列してみる。



・ジーザスクライストスーパースター 

観た次の日、サントラを持っている友達からレコードを借りて、カセットに録音し、歌詞を全部写した。

今でも、この中の曲を歌うのは最大の楽しみのひとつだ。

10年ほど前ビデオも買った。



・燃えよドラゴン 

名画座で観た。

あまりの混雑で、僕はロビーの通路から観た。

客が入り切れなくて、ロビーの通路をあけたまま上映していた。

今では考えられない。

もちろん僕の人生の中でも、最も熱い熱狂の中で観た映画になる。



・タワーリングインフェルノ 

映画そのものはそんなに印象的ではないが、出口で偶然クラスの友達と会い、映画の感想を一所懸命話し合った。

映画のおもしろさって、観ている時だけではないのだ、と知った。



・ブラザーサン、シスタームーン 

なぜこの映画を長い間自分のベスト3に入れていたのかはよくわからない。

多分にドノバンの主題歌の力があったに違いない。



 当時のアイドルは「アメリカの夜」のジャクリーンビセットと「青い体験」のラウラアントネッリ。

両方ともヨーロッパ映画。



 高校3年の時に、「ラストタンゴインパリ」が話題になったが、まじめな僕は、とうとう行けなかった。

友達の中には行った子もいた。

窓口で思わず高校生といってしまい、「しまった」と思ったら、チケットブースのおばさんが、「これは成人映画だから大人料金だよ。」と言った、という逸話が残っている。



 高校生活の中で観た映画は三桁に届いているはずだが、高校時代の一番の映画の思い出は、映画館の中ではなく、ラジオの中にある。

ラジオで毎週、淀川長治さんの番組があって楽しみにしていたのだが、ある時、僕の葉書を読んでもらった。

葉書に書いた質問は「サーカスという映画は主人公が不幸なまま終わります。街の灯は、ハッピーエンドです。チャップリンの初期の映画は不幸な結末が多く、ある時からハッピーエンドになっているようだけれど何故ですか。」

これに答えてくれる前の淀川さんは、「まあ、お若いのにこの坊ちゃんは偉い質問をなさるのねえ。偉いねえ。」と言ってくれた。

淀川さんの映画批評を第一に信じていた僕にとって、これは最高のほめ言葉だった。



 大学は津市にあったので、たくさん映画を見るためには、1時間以上かけて名古屋まで出なければならなかったが、けっこうがんばって行ったと思う。

時間がもったいないので2館連続というのもよくやった。

朝からパン一つで、5本を見続けたということもよくあった。



 4年間で最高の映画は、「スターウォーズ」だ。

レイアの船を追いかけて出てくるデストロイヤーの船底が、どこまで行っても終わらないというあの迫力あるオープニングですっかりハートをつかまれてしまった。

今でこそ、特殊撮影は一般的で、画面の中で何が起こっても驚かなくなってしまったけれど、あの時の感動を今の若い子たちが味わえる新しい撮影方法は、これからも出てくるのだろうか。

今思えば何でもない、砂漠の上に浮いたまま止まっている乗り物がどういう仕組みかもわからないほど興奮していた。

2回観ただけで覚えてしまえるジョンウイリアムスのテーマソングも素晴らしい。

この映画は未だに僕のベストワンだ。



 学生になると日本映画にも再び目が行くようになった。

「七人の侍」を観て、白黒の美しさにびっくりした。

カラー映画は発展途上だが、白黒の撮影技術は完成しているのだと感じた。



 実を言うと、世界に冠たる黒澤明が何故すごいのかがしばらくわからなかった。

格調高いとか日本の美とかいわれても全然ピンとこなかった。

ところが「用心棒」「椿三十郎」「隠し砦の三悪人」の三本立てを観て、よくわかった。

単純にただ面白い。これが黒澤映画の本当の価値だと思った。

後期の黒澤の神髄は、40歳を越えた今も、僕にはわからない。



 日本映画に引き戻してくれたのは、実は黒澤映画ではなく、にっかつロマンポルノだ。

当時読んでいた「シナリオ」という雑誌に、毎月ほとんどにっかつのシナリオが載っていた。

「人妻集団暴行致死事件」はシナリオを読んでいる時から観たくて、読み終わってすぐに観に行った。

デビュー2作目(だと思う)の古尾谷雅人の演技がシナリオをさらに膨らめていた。

その他には「キャバレー日記」も熱い作品だと思った。

さすがにロマンポルノ全部を見渡すと質の高さにばらつきはあるが、それでも制作者の「映画が好きだ」という気持ちが伝わってくる作品が多かった。



 「エイリアン」は大学4年生の時に観た。

教員採用試験を受けに大阪に行ったのだが、宿を予約していかず、オールナイトの劇場に朝までいることにした。

その時に選んだのが、当時一番の話題作だった「エイリアン」。

オールナイトで朝まで3回観たのだが、あまりの怖さに最後の場面で目をつぶってしまい、リプリーがどうやってエイリアンから逃げられたのかとうとうわからなかった。

それで後日、友達にいっしょに名古屋まで観に行ってもらった。

それでも最後が観られなくて、あとでロビーで結末を聞いた。

映画における音の重要性がよくわかった映画だった。

僕がこわがりだというのもよくわかった。ちなみに徹夜で受けた採用試験は見事に合格した。

当時、教員というのは、受ければ全員受かるという人気のない職業だった。

今では信じられないかもしれないけど、公務員の初任給のあまりの低さを、企業に勤めた友達によく笑われたという時代なのだ。



 大学を出てからも映画は見続けるが、映画館は減る一方。

隣の町まで行くと一日仕事にもなりかねない。

大学を出たばかりのころは、レンタルビデオの黎明期で、劇場に行くのと費用の面でも大変だったが、ビデオの普及により、劇場はどんどん遠ざかっていく。

それでも、劇場で観る映画は、家で観るビデオとは違う。

そのあたりの分析は、また、別にやってみたいと思う。



 僕が観てきたはずの映画を、思いついた時に「映画リスト」に書いておくので、心に残っているものがあったら、また、お話しましょう。



    Overflowへ    ホームへ