きっと僕だけの焼津
あの頃は 誰の耳にも
大正町と昭和通りが混在して
どうでもよかったり こだわったりしてた
「アンィエェトンが来たよ」
という、おばさんの声がすれば
近所の人といっしょに
キガタヤの角まで走った
アルハには美川憲一が着たから
工作の残りのボール紙を持って僕も並んだ
「ともかせぎ」は寂しかったけれど
隣りも向かいも
半年に一度しか合えない「船」だったから
それに比べたら幸せだったんだ
毎日もらうポケットの10円は
紙芝居のマンボか
チョットバーのコロッケか
トリリンのネックか
充分に悩ませてくれたけど
一週間がまんすればタイカツドウのプリンという選択肢も増えてしまった
卵いっこだけを買う夜のおつかいは
アーケードをはずれると
誰かがついてくるようで
だんだん早足になってた
かけラーメンと少年マガジンは
同じ値段だったから
トウカエンと本屋の間でずっと立ってた
二千円もするヘリコプターを
イチダヤで買ってもらった時
「お父ちゃん こんな高いの ねだって ごめんね」と心の中で
夜寝るまで、何万回も繰り返してた
「子どもの頃は まだ自然が残ってて
今の子に比べたら
俺たちは幸せだよな」って
よって友達が言う度に
僕は黙って笑い
コンクリートでかためたガレージ前の広場や
廃水でエビガニしか住めなかった川や
かんけりで隠れた人一人分の幅の小路や
真冬でも蝉の大群のように
家の中にまで進入する機織工場の音を
楽しく思い出してる
きっと 誰も知らない
でも 本当にあった
僕だけの焼津
人生って数十年しかないのに
こんになたくさんある
僕だけの焼津
掲載『文芸やいづ』第7号
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