させていただく日本語批判 

 次の言葉の中で、いちばん臭いのはどれですか。



便所、トイレ、お手洗い、WC、化粧室、厠(かわや)、雪隠(せっちん)・・・



 これを読んでいる人が、全員そろって同じ言葉を第1位にすることはないと思います。

育ってきた環境が違えば感じ方も違うでしょうし、世代によるずれは、もっと大きいかもしれません。

さらに大きなものさしで測れば、生きている時代によって「臭さ」は違うのです。



 私は、この「言葉の匂い」の話を、小学校高学年の国語の授業で「言葉は生きている」例として使います。

言葉というのは、使うほど重みが出てきますが、同時に手垢もついてきます。

例に出したトイレの場合は、匂いまでついてきます。

人はいつでも汚い物はなるべく間接的に会話の中にあらわそうとしてきたのでしょう。

ひとつの言葉は、こんなふうにどんどん変わっていくのです。



 しばらく前、「ら抜き言葉」が槍玉にあげられ、日本語が乱れていると騒がれました。

私はそんなに目くじらを立てるほどのことではないと、当時思いました。

人間というのはなまけもので、使う言葉もできるだけ楽にしようとするのが常です。

「キムタク」は日本語の象徴的な略語ですが、英語では「USA」という具合です。



 言葉の省略の他、発音も省略されていきます。

旧かなづかいというのも、ほとんど現存しなくなりましたが、これも、人間のなまけぐせの証拠です。

旧かなづかいというのは、昔、日本には、今の50音よりもたくさんの発音があったという証拠です。

たくさんの発音がだんだん面倒になって、どんどん統合されて、文字だけが残ったのが旧かなづかいです。

これも日本人だけの特徴ではありません。

英語の文字と発音のずれは、日本語の比ではありません。

英語の国の小学校1年生は、日本の小学校1年生より、読み書きの学習が大変だと思います。



 日本の大切な発音を捨ててきた変化に比べたら、「ら抜き言葉」への変化は、そんなに大きな事だとは私には思えません。

「ら抜き言葉」に異を唱えたおじさんたちが、日本語本来の発音にもどろうと言っているのは聞いたことがありません。

旧かなづかいの復活を論じた人はかつていたようですが、それも今は昔。(かなづかいだけ戻しても本来の復活とは言えませんが。)



 旧かなづかいの発音はおおげさかもしれませんが、私はこんなこともちょっとひっかかったりしています。

もう15年ほど前のことですが、私がある文書の中で「一所懸命」という言葉を使ったら、それは間違いだと指摘を受けました。

「ら抜き反対おじさん」曰く、正しくは一生懸命である、だそうです。

残念ながら、「一生懸命」は新しい言葉です。

もちろん正しくは「一所懸命」。

鎌倉時代に成立した言葉です。

一生懸命は一所懸命を、江戸時代の人がもじって使った言葉です。(「もじって」という言葉は「文字」と関係あるかも!)

多分、当時の「おしゃれな」使い方だったのではないかと、私は思っています。

もしかしたら、当時のおじさんたちは、一生懸命と聞いて、近ごろの日本語は乱れておる、なっとらん、なんて怒っていたかもしれません。



 300年以上も使っているのだから、正しい日本語として扱ってもいいだろう、という意見もあります。

平賀源内の考えたうなぎやのCMコピー「土用の丑にはうなぎを食べよう」、先祖を迎えるお盆の行事・・・(これを書いているのが夏なので、こんなことを例に挙げますが)確かに、江戸時代に始まったものが「日本の心」と言われるのですから、それでもいいでしょう。

でも、「一所懸命」のように出自がはっきりしているものくらいは、そこまできちんと戻してほしいと思います。

「ら抜き」が日本語の乱れなら、一生懸命も立派な日本語の乱れでしょう。

「ら抜き」とともに「一生懸命」も糾弾するか、どちらも容認するか、日本語を考えるおじさんたちには、しっかり考えてほしいと思います。



 さきほど書いたように、言葉は生き物、生物(なまもの)であるというのが、私の基本的なスタンスです。

その時々の人がもっとも使いやすい言葉を大切にしていけばいいし、最終的に人間の能力がもっとあがってしまえば、言葉がなくなってもいいのだろうと思っています。



 と、頭ではそう考えているのですが、そこは、やはり、私もおじさんの一人。

気になる日本語があります。今、いちばん嫌いなのが「させていただく」。

これは若者言葉ではありません。

日本中のおじさん、おばさんが使っています。



 日本語の変化の特徴に「遠回し」があります。

言葉で直接ものをさししめさないことが美しい日本語の条件になっているようです。



 最初に例にあげたトイレもこの遠回しです。

「かわや」は、川に直接流してしまう場所ですから、かなり直接的な言葉ですが、会話の中に使うには匂いがつき過ぎてしまったので、他の遠回しな言葉を探していった結果が、最初にあげた例になります。



 「めしをくう」と言うと、とても下品な言い方だと非難されます。

「ご飯を食べる」「食事をする」がより上品な言い方だそうです。



 この3つを比べてみましょう。「めしをくう」は和語でできています。(和語とは何かを論ずると、また複雑な話になってしまいますので、ここではとりあえず、小学生の教科書に載っている和語、漢語の定義で考えてください。)

それに比べ「ご飯」も「食事」も漢語です。

単純に順番を考えれば、「めしをくう」が最初にあった言葉で、「ご飯」「食事」はそれを遠回しに言った言葉です。



 食べる。排泄する。性交する。・・・人間は他の生き物と違うものだという思想を持った時、この3つには困りました。

生きていくのにどうしても必要なもので、しかも他の下等生物と同じ行為だからです。



 行為そのものは変えられませんから、せめて言葉の中だけでも、その行為から離れて人間が高等なものであることを証明したいという気持ちがあるのでしょう。

外来の漢語を使って「めし」「くう」から離れようとしているのは、自然なことと考えていいかもしれません。

しかし、だからといって、「めしをくう」を正しくない日本語としてしまうのはどうでしょうか。

「めし」も「くう」も漢字以前からこの国にあった言葉だと考えれば、もっと大事にしてほしい言葉です。

識者の中には、「最近片仮名語を使い過ぎる。

日本語で言える物は日本語で言わなければだめだ。」と嘆いている方がいます。その方々にはぜひ声高に主張してほしいものです。

「ご飯とは何事だ、めしと言いなさい」と。



 さて、そこで、やっと「させていただく」です。

 「このほど、この仕事(役職)をさせていただく○○です。」・・・一言で言えば謙譲の美徳というところでしょうか。

最近あらゆる場面で「させていただく」が使われているような気がします。

「この仕事をする○○です。」でよいと思われる場面も多いのですが、すべての場面で「させていただく」になってしまっているようでとても気になります。



 「自分の仕事は、自分一人の力でできるのではありません。

皆さんのお力があってできるのです。」こういう気持ちを持つ日本人を私も誇りに思っています。

ですから「させていただく」という言葉そのものを否定するつもりはありません。

気になるのは、本当に心からそう思っていない場合に頻発される普通の言葉に成り下がってしまったことがとても残念なのです。

本来、気持ちのこもっているはずの言葉から気持ちが抜け落ち、形骸化していく過程が、とても気持ち悪く感じるのだと思います。



 この形骸化の発生源はどこなのでしょう。

先日のあった選挙運動をみていたら、発生源はここかなと少し思い当たりました。

政治家は、選挙の時だけへりくだるのがとても上手です。

その時に「させていただく」は、とても便利な武器になっていました。



 私の考えを繰り返せば、「これは正しい日本語、これは間違えた日本語」というのは、厳密には存在しないということです。

最初は奇異に思えても、長い時間をかけて日本人全体が使うようになれば、それは立派な日本語になるでしょう。

一時期持て囃されても、日本語になり得ない言葉は自然消滅していくでしょう。

言葉というものは、それでいいと思います。



 ただ、いくつか残念なことがあります。

ひとつは、さきほど書いたように、言葉に気持ちをしっかりのせられなくなっているということはないかということです。

もうひとつには、美しい言葉が捨てられていく現状です。



 美しい言葉が失われた原因は自然的なものだけでなく、ある時期、標準語の整備を急ぐあまり、方言が日本語から締め出されようとしたことに原因があります。

この話を始めると、また別の方に長くなっていくので、ここではやめます。



 私は日本語しか使えません。

日本語がとても好きです。

日本語を大切にしたいと思っています。

「おじさん」も「識者」も、もう一歩踏み込んで、日本語を考えてみてくださいね。






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