卒業を歌う 



 扉を開くと、一晩じっと動かなかった空気が少しだけ揺れた。

もう「そこにはいない」父の亡骸が祭壇の前に横たわっている。

誰もいない朝八時の葬儀会場の大ホールで、私は「父」と向き合い、ギターをケースから出した。今から「卒業」を歌う。



 中学三年生、進路を決める時、私の希望する進路に、父は異を唱えた。

私は普通高校への進学を希望し、父は工業高校に行くべきだと主張した。

「大学に行かせる余裕はうちにはない。工業高校を卒業すれば、よい所に就職できる。」

うちの経済状態を考えれば、父の考えは至極真っ当だった。



 しばらく話は進展しなかったが、結果、私は普通高校を受験できることになった。

自分自身が家の経済状態を理由に進学をあきらめた母と、家まで来て父を説得してくれた担任の先生の援護もあったが、最終的には、父が私の未来を信じてくれたからだと思う。



 普通高校を受験することが決まってから、私を大学まで進学させるために、父と母は、朝から晩まで働き続けた。

父の働きぶりは、朝から晩まで、という言葉さえあてはまらない。

月曜から土曜までの朝八時から夕方五時までは工場で働き、夜は鰻の稚魚を獲りに海に入った。

真冬でも、河口で体の半分を水に沈め、カンテラに集まった稚魚を「ぶったい」ですくう。

思わぬ大漁の日もあったようだが、何度すくっても一匹もかからない夜もある。

潮の時間によっては徹夜に等しい夜もあり、ほとんど眠らずに、また工場に向かっていった。

その体で日曜日には、朝早くからパン屋でアルバイトもしていた。

父が時々パン屋でもらってくる袋いっぱいのパンの耳には、日頃食べることのないバターやハムがついていることもあり、今でも食パンを食べると、そのことを思い出す。

こんな父を間近で見ながら高校生活を送ったが、その間私は、親孝行の息子とはとてもいえない有り様だった。

父に「ありがとう」を言うどころか、一言一言に反発する、今思えば馬鹿な息子だった。



 自分には理想の父親像があった。

それは、毎日体に鞭を打って働く父とは正反対の「書斎にいる人」であり、難しい本をいつも読んでいて、私がそれについて質問すると、うれしそうに答えてくれる、そんな父親像だった。

父は書斎どころか、本棚さえ持たない肉体労働者で、私は苦労を知らない高校生だった。



 結局、私自身も「書斎を持つ父親」にはなれなかったが、読んだ本は捨てずに本棚に並べていくことを続けた。

妻からの「どんどん処分して」という「口撃」を避けながらたまっていった本の一冊を、息子が手に取っているのを見た時、自分は幸せな人生を送っているのだなあと思った。

私自身が、夢想した父親像に近づけたのは、肉体労働で私を進学させてくれた父のおかげだ。



 父に感謝し、本当に尊敬する気持ちを持てるようになったのは、大学進学のために一人暮らしを始めてからだ。

そこにいて当たり前だと思っていた家族が目の前からいなくなり、節約して食べるパンの一つ一つが、大変な生活の中から無理をして送ってくれる仕送りによるものだと実感した時、初めて「ありがとう」と言えるようになった。

なくなって初めてわかる。

まさにその通りだが、本当に家族を亡くしたのではない時点で、それに少しでも気づけたことは幸運だった。



 一人暮らしを始めたら、今まで思い出すことなどなかった幼いころのことがいくつも蘇ってきた。



 小学校一年生の冬、父と手をつないでヒカリ座に「モスラ対ゴジラ」を見に行った。

財布を忘れた父は引き返そうとしたが、それでは上映開始に間に合わないと駄々をこねた私のために、見ず知らずの寿司屋に入って、父はお金を借りた。

今の世の中、こんなことは、まだ、あるのだろうか。

その時、寿司屋のご主人がどうしてお金を貸してくれたのかよくわからないが、父が何度も頭を下げて借りたお金で、「モスラ対ゴジラ」は、予告編からしっかりと全部見ることができた。

五十年以上も経っているのに、あの光景ははっきりと思い出せる。



 父の運転する「カブ」の後ろに必死につかまって、東京オリンピックの聖火リレーを見に行ったのも小学校一年生の時のことだ。

昭和通りの裏にいくつも並ぶガレージは私たちの遊び場だったが、今のように自動車が普通の家にある時代ではない。

父と出かける時は、いつもカブだった。

もし、今のように車が普通にあったら、父の背中の筋肉の手触りも匂いも知らずに、私は子供時代を過ごしたのだろう。



 父に肩車をしてもらうのが好きだった。

小学四年生の時、自転車を買うお金がないからと、父は粗大ごみの中から部品を拾ってきて私の自転車を作ってくれた。

新築した小さな家の柱にワックスを塗る父は、本当にうれしそうだった。

昔コックをやっていた父が、オムレツを作る姿はかっこよかった。

ここには書ききれないほどの多くの父とのことを、一人、下宿で思い出しながら、歌を書いた。

十八才になって、自分は一人で生きてきたのではないとようやく気づき、いつか自分も父のように家族を持てる男になるのだという思いを込めて、「卒業」というタイトルをつけた。



 市立病院から家の近くの病院に転院して十日目。

父の容体が急変した。

朝から具合が少し良くないようで、家族がみんな集まって枕元で一日を過ごした。

夕方、「安定しているから、しばらくは大丈夫だと思います」と病院の方がおっしゃってくれたので、一度家族みんなで家に戻り食事をして病院に向かった。

家から、また病院に戻り、駐車場でエンジンを切ったのが、午後六時四十分。

普段、気にすることのないカーナビの隅に表示されている、本当に小さな時計の数字が、やけに鮮やかに脳裏に残ったのが不思議だった。

病室に着くと、父は、誰もいない病室で一人ぼっちでこと切れていた。

あの時刻、六時四十分が父の臨終の時刻だった。

父は、家族も病院のスタッフもいない一人ぼっちの病室の天井を、この世の最後の光景にして旅立った。



 誰もいない部屋で、誰にも看取られることなく臨終を迎えた瞬間は、さぞ寂しく無念だったろうが、祭壇に横たわる父の顔は、穏やかさを取り戻し、すべてを了解したと言ってくれているようだった。



 私と父以外、誰もいない葬儀場のホールで、私は、前奏を省略し、父に一度も聞かせなかった「卒業」を歌い出した

。ギターの最後の音がホールから消えるまで、涙は流れなかった。



    卒業 詞・曲 増田浩二

おやじ ずるいぜ 俺に黙って 
一人で飲みに行っちまうなんて
まだ 俺なんか あんたから見たら 
一人前じゃないけど
いくつになった また少し禿げたな
この頃じゃ酒もたくさん飲めないくせに
おやじ ずるいぜ 
一人で飲みに行っちまうなんて

おやじ 話せよ 恥ずかしがらずに
若かった頃 持っていた夢を
白いマフラーにずっとあこがれて
飛行機乗りになりたかったこと
汚れた手拭い 首に巻きつけて
操縦桿 握る真似をしてたじゃないか
おやじ 話せよ 恥ずかしがらずに 
今夜だけは聞きたい


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