ワールドカップを観た
2002年6月14日(金)
静岡スタジアム「エコパ」は、妻の実家から約6km。
Jリーグのゲームも見ているし、日本代表の試合も見ました。
休日には近くを通るし、一般解放の日にトラックにまで降りたこともあります。
見慣れているはずのエコパなのに、今日は全く違う場所に見えました。
エコパでワールドカップのゲームをやることが決まった時、妻の実家から自転車でも行けるね、と話したことを思い出しながら、今日は時間の都合もあって、電車で愛野駅まで行きました。
これは正解でした。
自宅の最寄の駅から7つ。駅につくたびに列車の中は観戦者が増えていきます。
日本のゲームではないので、サポーターという雰囲気はありませんでしたが、それでも、これからスタジアムに行くのだという「うれしい感じ」は車内に満ちていました。
そしてホームに降り、階段を上りきった瞬間、今まで観たことのないエコパが、そしてワールドカップがそこにありました。
いつもはほとんど人のいない愛野駅前が大勢の人でごった返しています。
わずかですが、サポーター衣装に身を固めたベルギーの人とロシアの人もいます。
予想以上の数の警察官とボランティアの人たちに囲まれているせいか、歌も踊りもない静かな人ごみでしたが、駅からエコパに続く1kmの人の列を見ていたら、うれしくて自然に笑顔になりました。
僕としては一刻でも早くスタジアムに入りたかったのですが、妻や子供たちはこの雰囲気を味わおう、写真を撮ろうと、一向に列に並ぼうとしません。
袋井名産のメロンを試食したり、静岡朝日テレビの高橋美帆アナウンサーと一緒に写真を取ってもらったりとはしゃいでいます。
この長い列ではキックオフに間に合わないのではないかと心配しながらも、僕も完全な(半券をちぎってない)チケットを持った写真はここでしか取れないのだと気づき、息子といっしょに写真をとってもらいました。
キックオフに間に合わないのではないかという僕の心配は全くの杞憂で、エコパのシステムはしっかりしており、全くストレスなく会場に入れました。
席はカテゴリー1ながら、カテゴリー2のすぐそばで、ゴールラインを外れていました。
しかし前から9番目というなかなかの場所で、こちら側でゴールが入ればラッキーだね、という位置です。
サイドはベルギー側。
でもベルギーのサポーターそのものが少なく、私たちの周りには、赤い悪魔の姿をした陽気なベルギー人が二人いただけでした。
その二人は俄スターになってしまい、2時間の間に何十人という人といっしょに写真に収まっていました。
赤黒黄色のベルギー色は目立つのでサポーターの数も見ただけでわかります。
ロシアのサポーターはどうしたのでしょう。
ロシアの人はあまり見ませんでしたが、ロシアが清水でキャンプをしていたせいでしょう。
ロシア選手の紹介が始まった途端、その応援の声の大きさで、エコパはこれから2時間、ロシアのホームになるのだということがわかりました。
スタンドが白っぽかったのは、夏のせいだけではありませんでした。
かわいらしいウェーブが何周か回ってきました。
スタンド全体の気持ちも高まってきます。
いよいよその時が来ました。
2002年6月14日金曜日15時25分。
選手の入場です。
もともと涙腺が弱く、少しの感動ですぐ泣いてしまう僕ですが、黄色のフラッグの後ろから赤と白のユニフォームが出てくるのが見えた瞬間、一瞬世界が涙で滲んでしまい、泣き声をもらしそうになってしまいました。
そして両国の国歌の演奏。
とうとうワールドカップを目の前で見るのです。
30年前(ここからしばらく思い出話が続き、当日のこととは離れますので、読み飛ばした方がいいです。)、静岡放送の「ワールドサッカー」という番組で初めてワールドカップを観ました。
この番組は、確かテレビ東京の「ダイヤモンドサッカー」という番組と同じだと思いますので、ご存知の方が多いと思います。
金子さんというアナウンサーと岡野俊一郎さんのゆったりとした話を聞きながら、世界のプレーを見るという番組です。
ここで初めて見たワールドカップが74年のドイツ大会です。(当時、私は、ペレのプレーを見たことのない「新参者」でした。)
もう大会は終わっていて、この番組は、その好ゲームを45分ずつ見せてくれました。
74年大会では、空を飛ぶクライフ、寝転んだままシュートを決めるミュラーなど有名な場面はいくつもあるのですが、僕が最も印象深く覚えているのは、スタニスラフカラシという選手です。
東欧のどこかの国の選手ですが、プレー中、ボールと全く関係ないところで相手選手を蹴っ飛ばしてPKをとられてしまいます。
だめな人だなあと思っていたら、その後めちゃくちゃに動き回って相手のボールを奪い、1点を取り返してしまいます。
世界のサッカーってすごいと、へんな感動をしてしまいました。
1年2年と「ワールドサッカー」を見ていくうちに次の大会は絶対生中継を見ようと思いました。
アルゼンチン大会です。
その頃は大学生で三重県にいましたが、サッカーの話を喜んでするのは、静岡の人だけかもしれないと感じ始めていました。
三重県の友達で唯一サッカーの話ができたのは、当時の三重県の強豪、上野高校のサッカー部出身のN君だけで、N君からは「サッカー部じゃないのに君はどうしてそんなにサッカーのことを知っているんだ」と言われたことを覚えています。
静岡では、普通、いえ、それ以下の知識しかなかった僕です。
アルゼンチン大会の内容はよく覚えていませんが、決勝戦はたしか朝の3時頃から生中継で、スタジアムの中を舞う紙ふぶきがとても美しいと思いました。
僕を本当にワールドカップの虜にしたのは、次のスペイン大会です。
ブラジルには黄金のカルテット、そしてフランスには最盛期のプラティニがいました。
準決勝のフランスードイツ戦のPK戦で、外したシュティーリケという選手がうずくまってしまった時、ワールドカップというのは男の人生をすべてかけて戦っているのだと勝手に思い込み、いつかお金をためて、本物のワールドカップをヨーロッパか南米に見に行きたいと思うようになりました。
メキシコ大会はマラドーナの大会と言われていますが、僕はあまりマラドーナのプレーを覚えていません。
スペイン大会で大好きになったフランスがブラジルと準決勝で当たってしまうことがいちばんの問題でした。
延長戦、あのソクラテスが自陣のゴール前で空振りをする。
この光景がワールドカップのすごさを教えてくれました。
イタリア大会は、オランダ復活の大会です。
残念ながら勝ち進めませんでしたが、オレンジのユニフォームが戦う姿を見てとてもうれしかったのを覚えています。
どの人に聞いても、サッカーを好きになった時に活躍していた人が、自然に自分のヒーローになっていて、それは何年立っても変わらないようです。
ミュンヘン大会から始まった僕にとって、オレンジのユニフォームはやはり特別な色に感じます。
高校の時、クラス対抗のサッカー大会(サッカーは校技です。)では、うちのクラスはオレンジのTシャツを買ってきて、手製のラインやエンブレムでユニフォームを作りました。
僕は超へたくそなので、ちょっとだけお情けで出してもらっただけですが、交代でグランドに飛び出していったときのどきどきした気持ちと光景は今でもはっきり覚えています。
今年、せっかく日本で開催されるのにオランダが来ないのはとても悲しいことでした。
その後、ドーハの悲劇、ジョホールバルの歓喜と、日本がワールドカップの本大会に関わっていくのはうれしいことですが、同時にとても不思議な感覚がずっと付きまとっています。
仕事とお金の関係でとうとう今まで、ワールドカップを見にいけなかったのに、ワールドカップの方から日本にやってきてくれました。
チケットが簡単に取れるとは思っていませんでしたが、これほどまで難しいとは思いませんでした。
1次募集ではずれ、2次募集は電話をかけまくりました。
「あの1週間、お父さんは鬼のような顔して電話してたね」と妻は言います。
それでもだめで、3次募集。インターネットのおかげでやっと第3希望のベルギーロシア戦を、家族4人分取れました。
僕よりもJリーグのために尽くしている人たちの多くがチケットを取れずに悲しんでいるのを申し訳ないと思いながら、とうとうチケットを手にした時は、思わず見せびらかしたくなりました。
僕よりも何倍もサッカーを愛し、日本のサッカーに尽くしている人でもチケットが手に入らず、サッカーを一度も見たこともなく興味のない人がプラチナチケットを手にしているのを知ると、ちょっと複雑な気分です。
首から下げたチケットホルダーをもう一度握って、本当にこのチケットがワールドカップのチケットなのだと確かめてから、立ち上がり選手に拍手をしました。
1次リーグながら、勝った方が残り、負ければ消えるという、もう決勝トーナメントと同じように、明日をかけた戦いに選手たちも緊張しているようです。
スタンドの方は、このゲームへの緊張感はさほどではありませんでした。
多くの人が携帯テレビを持っています。
大阪の日本戦を見るためです。気持ちはわかりますが、ちょっともったいないと僕は思ってしまいます。
実は妻もラジオのイアホーンを耳に突っ込んでいます。
ベルギー、ロシアとも名前を知っている選手が一人もいない妻はラジオの日本戦を聞きながら、双眼鏡で選手の顔を眺めています。
「お父さん、知ってる人いたよ」と言う妻の方を見ると、第4の審判が世界最優秀審判と言われているコリーナさんでした。
主審が98年アルゼンチンーイングランド戦のニールセンさんで、結局妻が知っている有名人は、選手ではなく、審判の二人でした。
スタンド全体もこんな感じだったのかもしれません。
特にどちらかを熱狂的に応援している人がさほど多くなく、ワールドカップという緊張感はある程度ピッチから伝わってくるのですが、戦いでもお祭でもない、何か静岡らしい温暖な感じがエコパを覆っていました。
ゲームが始まりました。
攻守の切り替えが早く、ゴール前まですぐに展開されるので、サッカーをあまり見たことのない娘も興奮し出しました。
前出の二人のベルギー人サポーターを見ていると、どこでどんなふうに応援したらよいかがわかって、とても面白くなってきました。
前半唯一の得点は、運良く目の前のゴールに決まりました。
真横からなので曲がり具合はわかりませんでしたが、とても迫力のあるフリーキックでした。
前半はベルギーのムペンザ選手の活躍のおかげで、僕たちの席のすぐ前で、迫力あるプレーをたくさん見ることができました。
試合展開によっては、ほとんどのプレーを遠くの反対側サイドで見ることになってしまうこともありますが、今日は、僕たちのそばでばかりプレーをしてくれたように思えて、神様に(特に信仰する神様もいませんが)感謝したい気持ちでした。
心配された雨も降る様子はありません。
かといって晴れていては、直射日光が目を差す位置に座っていたので、はっきりしない梅雨空がまるで僕たちのためにあつらえられたような錯覚にも陥ります。
前半は、勝たなければ生き残れないベルギーが、引き分けでもOKのロシアを1点リードする願ってもない展開で終了しました。
ハーフタイム。
スタンドはまだ、この試合に集中できないようです。
日本対チュニジアがまだ0対0のせいかもしれません。
1台の携帯テレビを数人が覗き込んでいる光景も目に入ります。
ときどき、「ニッポン・・・ニッポン」という歓声も聞こえています。
僕は、後半、こちらのサイドに攻撃してくるロシアが、これから総攻撃をしかけてくるのではないかとわくわくしています。
モストボイ選手はどうやらだめなようなので、日本対ロシア戦でうまいなあと思っていたイズマイロフ選手が出てくれるとうれしいなあと息子と話しました。
後半、願いどおりロシアの反撃が始まりました。
スタンドがピッチに集中しかけた時、「お父さん、入ったよ」と妻の声、その瞬間、スタンドのあちこちでニッポンコールが始まりました。
森島選手の1点目が入ったのです。
ベルギーとロシアの選手はとまどったかもしれません。
これまでで最も大きな歓声がスタンドから上がったのです。
申し訳ないと思いながら、実は僕も立ち上がってニッポンコールをしてしまいました。
その後すぐにロシアの反撃が実を結びます。
またまた僕たちの目の前でのゴール。
ロシアが切符を手にしました。
今まで沈黙していた南側のスタンドが声を響かせました。
人数ではロシアの応援の方がずっと多いのです。
大きなロシアの旗を持った6人がベルギーサポーターの近くまで、通路を走ってきました。
しかし、ベルギーは崩れることなく落ち着いていました。
ロシアはだんだん足が止まってきたように見えました。
カルピン選手のタッチミスが増えたようで気になります。
途中で入ってきたシチョフ選手だけが元気に走っています。
娘がシチョフ選手を気に入って、「かっこいい、かっこいい」と言い出しました。
妻も娘も「いい男」を見つける天才です。
ベルギーが攻めあぐねていた後半30分。
またスタジアムが大きな歓声に包まれました。
中田が2点目を決めたのです。
ベルギーとロシアの選手は本当にやりにくかったでしょう。
しかし、これをさかいにスタンドが落ち着き出しました。
日本の勝利に安心し、目の前のゲームに集中できるようになったのでしょうか。
すると今度はベルギーの2点目。
あの二人のベルギー人サポーターが、今度はお返しに、旗を持ってロシア側に通路を走っていきました。
さすがに南半分へは行けずに帰ってきました。
そして、最後の力を振り絞るようなロシアの攻撃再開。
この劇的な展開にスタンドが魅了され始めました。
ロシアの選手はやはり疲れきっていました。
スタンドは本当に心地よい気候でしたが、選手にはきつい暑さだったのでしょうか。
前半、負傷により予想外の交代をしてしまった影響もあったかもしれません。
ベルギーがとうとう3点目を決めました。
終わっちゃった。そう思いました。
でも、「ワールドカップ」は違いました。
ロシアが日本に負けた日、ロシアでは暴動が起こりました。
ワールドカップ史上では大きく歴史に残らないほどのものかもしれませんが、今大会では、いちばん大きなものになりそうです。
安全の国ニッポンで、今大会からワールドカップに関心を持ち始めた人にはショックな出来事かもしれません。
ここで負けたら、ロシアの選手は無事に国に帰れるか心配になります。
本当に残りわずかな力を使って反撃を始めたロシアが1点を返したのは終了直前でした。
得点はシチョフ選手。娘がキャーと叫んで立ち上がりました。
ベルギーサイドとはいえ、熱狂的なサポーターがほとんどいない席でよかったです。
ロスタイム3分も使い果たし、とうとうホイッスルが鳴りました。
夢の90分の終わりです。
仕方のないことですが、ベルギー、ロシアとも本国からのサポーターが少なく、ヨーロッパの国同士が戦う時、勝利の笛が間近に迫った時にスタジアムに響く、男性の歌を聞きたいという願いはかないませんでした。
でも、ベルギーサポーターの喜びが熱い音と色の波になって僕たちのところに伝わってきました。
選手はユニフォームを脱ぎ、スタンドに投げ入れています。
振り向くと真っ白だった反対側のスタンドは、静岡のお茶の色の緑に変わっていました。
妻が「お父さん、連れてきてくれて、ありがとうね」と言いました。
結婚当初、妻はサッカーに全く無関心でした。
よい試合を見せれば好きになるだろうと、選んで連れて行った「静岡県選抜対シリア代表」の試合は、僕もあきてしまうほど凡戦で、それ以来10年以上、逆に妻をサッカー嫌いにさせてしまいました。
その後Jリーグも始まり、生でよい試合が見られるようになって、最近、妻のサッカー感もよいほうに向かいだしました。
そして、2002年、今は妻も私と同じように夢中になって見てくれます。
さらにうれしいことに、息子が中学の部活でサッカーを選びました。
僕は本当に運動神経が鈍く、小学生の頃からサッカー選手にあこがれていたのに、とうとうプレーすることなく、サッカーにもかかわれずここまで来ました。
担任しているクラスの子供たちにワールドカップの素晴らしさを話したり、勝手に考え出した「ハンドサッカー」を体育の時間にやらせたりして、サッカーの楽しさを小学生に伝えるのが、唯一僕が日本のサッカーのためにできる仕事です。
こんな僕が、ワールドカップを、しかも、喜ぶ家族といっしょに見られるなんて、本当に夢みたいです。
「ドイツーカメルーン」戦を見た友達に聞いた話から、帰りが込むことが予想されたので、ゆっくりスタジアムを出ることにしました。
Jリーグに行っても、帰りは余韻を楽しむため、急いでスタジアムを出ることは滅多にありません。
スタンドでは、ベルギーサポーターが、ベルジウムとニッポンを繰り返し繰り返しコールしています。
ベルギーのユニフォームを着た日本人がたくさんいるのに驚きました。
シャトルバスに乗る人と電車に乗る人の列は逆方向に進むのですが、シャトルバスをめざすベルギーサポーターの一群が駅を目指す日本人とハイタッチをしてすれ違っていきます。
大きな国旗を抱いたロシアの若者が一人うなだれて帰っていきます。
彼に近寄ったベルギーの人が二人、彼の肩をやさしく2回叩いて、握手をしていきました。
娘がベルギーの人と写真を撮りたいと言い出したのですが、なかなか近づけなくて躊躇しています。
息子が「お姉ちゃん、行ってやるよ」と二人でベルギーグループに近づいていき、写真を撮ってもらいました。
身振り手振りだけで話が通じたようです。
ボランティアの皆さんは、一所懸命私たちを誘導してくれますが、駅までの1kmの道が人で埋まっているのを見ると、まだ風の心地よい芝生の上で、暮れ行くエコパの風景を味わっていたくなります。
ラジオの日本戦特集に耳を傾けながら、ひとつひとつ大きくなる街灯の明かりを見て、大切な一日が暮れていくのを確かめました。
なかなか帰らなくて、ボランティアの皆さんにはご迷惑だったしょう。
ごめんなさいね。
駅への行列もなくなり、乗り込んだ臨時電車は、余裕を持って座れました。
一緒に乗ったボランティアさんたちが、今日の出来事を話しています。
その中の一人の女の子は、ぐっすり寝込んでいました。
多くの人がこの夢を作ってくれたんだなあと、もう真っ暗になった電車の窓を見ながら、今日一日を振り返りました。
窓には、それぞれ号外を手にして楽しそうにおしゃべりをしている妻と娘と息子が、ちょっと疲れて黙っている僕と一緒に映っています。
僕は幸せです。
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