駿府城下町の誕生 駿府城の中堀(二の丸堀)をめぐる中堀浪漫通りを説明する前に、駿府城と城下町がどのようにできたかの歴史的経過を振り返ってみたい。 駿府城下町づくりの責任者は、彦坂九兵衛光正、畔柳寿学(くろやなぎじゅがく)、友野宗善の3人であった。 彼らは伝統的な「風水(ふうすい)の原理」に基づき「四神相応(しじんそうおう)の地」を選定した。
「台徳院殿御実紀」によれば 駿城修築の為、畿内、丹波、備中、近江、伊勢、美濃十か国の人夫を召る。五百石に三人の制なり。つまり五万石ならば300人、五十万石の大名ならば3000人の人夫を出さなければならなかった。 こうして駿府の「天下普請」が喧騒の中で始まったのである。 城と町づくりのため京都、伏見などから大工、鍛冶屋、車屋、左官などの技術集団も呼び寄せられた。 また家康は大御所としての家臣団を駿府に移動させた。いわゆる「大御所駿府越」である。 町は、封建社会の基本である身分制度「武・農・工・商」によって住む場所が明確に分かれていた。
武家屋敷地 駿府城下町の武家屋敷地は全体の45パーセント(江戸38パーセント)に相当した面積を占めていた。 寺社地 寺社地の面積は全体の15パーセント(江戸32パーセント)に相当した。ここは有事の際に城と町を警護する「外郭」の戦略的役目をになった。 町人地 町人地は、駿府城大手門の南側に置き、整然と碁盤割の区画割された町であった。面積は全体の40パーセント(江戸30パーセント)で碁盤割は、ほぼ正方形のブロックであった。 町づくりは慶長14年(1609)ごろにはほぼ完成したといわれ、「駿府九十六か町」が成立していった。 駿府の人口の推移 大御所家康が駿府に君臨していた時代は、人口10万人とも12万人ともいわれ、江戸(15万人)、京大阪に次ぐ大都会であった。
元和2年(1616)、大御所家康が歿すると、一時、徳川頼宣(よりのぶ)、忠長(ただなが)が駿府城主になったが、その後は、城代が配属され「城主なき城下町」になっていった。 |