第4章:巴川むかしものがたり
巴川は、竜爪山の南麓才光寺谷・滝ノ谷、いわゆる奥山の清流を集め南流する。
古くは「早打川」と呼ばれ、古書に”水早く落ちるが故に早打川と呼ばれた”とある。
今では川の名は忘れ去られ、いつしか「麻機川」と呼ばれるようになつた。
川は蛇行し漆山地先で麻機沼の水を加え巴川の上流となるが江戸時代から奥山の乱伐・開墾が進みひとたび豪雨となると濁流が襲いかかり村人を悩ませた。
麻機沼は、ヨシと眞菰に覆われた広大な湿地帯で、海抜7メートルといわれる。
それでも、昔から開墾が行われたが畦といっても、膝までもぐるところが多く、浮島状態であった。農民たちは、稲を植え付けたが満足な収穫はのぞめず、大雨が降るとたちまち稲は水没するしまつだった。それでも反収4、5俵とれる年もあったという。
良田の少ない水腐地(すいふち)の農民はその「十年一作」を根気よく待った。
左図:
奥の小屋は、水防用具が入っている
一と夏の雨で、勾配の少ない川底には泥が数尺も溜まるため、部落民総出で川堀りをした。
また十分な道路が無いため舟の運搬も重要で、江戸時代は年貢米を清水湊まで運んだという。
沼の四季は変化に富んでいた。
夏は川を堰きとめて「かいぼり」をした。
戦後でもウナギだけで七貫目の記録があり、子供たちの歓声があがったという。
冬に「柴上げ漁」でとれる寒鮒は、天下一品の味であった。
麻機沼の辺りに諏訪神社がある。ここには悲しい伝説が残っている。
「後醍醐天皇の御代、新田義貞の弟が、この地に滞在中、村の長の娘小菊と愛し合い女の子が生まれた。小菊は、三日後なくなったが母の姥が孫娘小よしを育て上げ、小よしは美しい娘に成人した。
ある夏、姥は病の床に臥した。
孫娘小よしは、平癒祈願のため浅間神社に参詣し、お百度参りを踏んだ。
ある日、川合の渡しを舟で渡ろうとして、巴川の河童に魅入られ、水底に引き込まれてしまった。
ことの次第を知った姥は、その夜、沼に身を投げ”われは、竜となり河童を退治して村と沼の守護神となる”と竜に化身した。
その後、河童の被害もなくなり、沼には蓮のような霊草・法器草が茂った。この実は食料となり農民の飢えをしのぐ助けとなったという。」
この悲しくも美しい伝説は、今も伝えられ、多くの書物に語り継がれている。
また、この伝承を創作人形劇にし、演じつづけている母親達がいる。
「劇団星の子」である。団員達は、郷土の説話の守り手として、きょうも各地で公演を続けている。
挿し絵:松永繁雄画
静岡市上土新田15−2:TEL054(261)5602
人形劇団「星の子」:代表芹沢幸枝
静岡市北477:TEL054(246)7202
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