大谷放水路の完成

巴川は、麻機沼から河口の清水港までの高低差は、わずか7メートルしかない。このため川は蛇行し「巴」のように渦巻いた。
雨が降ると毎年のように堤防が決壊し、上流も下流も家を流され田畑は冠水し収穫を駄目にした。
そのような中、昭和28年の静岡県第4次総合開発計画で、はじめて公式に「大谷放水路計画」が明らかにされた。しかしこの計画が大谷地区の住民に示されなかったことから、行政と農漁民を中心とした住民のボタンの掛け違いが生じ、大谷放水路完成まで予想以上の長い歳月が掛かることになった。


そのような反対運動が渦巻く中、昭和49年6月「反対期成同盟会」が解散し「大谷川対策委員会」が発足した。その直後7月7日「七夕豪雨」が静岡市を襲い大災害を起しのである。
被害を受けた上流部の人たち、下流域の清水市民、それに対して放水路の汚濁水で農作物、漁獲に影響があるとする大谷地区の人々、巴川の「巴」のように三つ巴の争いがあった。

昭和54年7月、静岡県は大谷川対策委員会との説明会で「大谷放水路全体計画」を発表した。
翌昭和55年1月、静岡県は大谷川対策委員会の了承を得て調査に入った。そして昭和56年1月、大谷川対策委員会総会は計画を受諾した。それは5年に1度の大雨(日雨量241ミリ、時間雨量58ミリ)に対応するというものだった。

手前が本流、奥が放水路


<大谷放水路建設事業費>

静岡県 静岡市 合計
工事費 38、417 3、847 42、264
測量・試験費 2、283
2、283
用地買収費 8、173 1、160 9、333
その他事業費 1、425
1、425
合計 50、298 5、007 55、305



(単位:百万円)


紆余曲折の末、553億円をかけた大谷放水路は、1999年5月19日、通水式を迎えた。構想発表から46年ぶりの完成である。

本流と放水路は、ゴム製の可動堰が設けられ、普段の流れは本流だけだが洪水時は、可動堰が転倒し水流が放水路にも流れるという仕組みだ。


静岡県などは、更に50年に1度の大雨(日雨量326ミリ、時間雨量92ミリ)に対応する新たな整備計画を立てている。

しかし洪水の恐れは遠ざかっても川の流れはいっこうにきれいにならない。巴川の川べりで遊ぶ子供たちの影が消えてから長い時間がたった。
これはかなわぬ「「夢」なのだろうか・・・「百年河清を待つ」のだろうか。

参考文献:
  「大谷川放水路建設のあゆみ」
発行:巴川流域総合治水対策協議会