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明治〜大正の代表的革命家、アナーキスト大杉栄の墓が静岡市沓谷の静岡市立沓谷霊園にあることは、あまり知られていない。
葉山事件(神近市子との四角関係)などのほん放な生き方でも知られる大杉栄(1885−1923)は、1923年9月関東大震災の混乱に際して,妻の伊藤野枝,および甥(おい)とともに甘粕憲兵大尉に殺害された。
なぜ墓が静岡市にあるかについては「千代田誌」は、次のようにしるしている。
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静岡市立沓谷霊園 |
・・・・地元の地方史研究家の間でも「父の墓が清水市にあった関係」とする説や「ある左官が義侠心から造った」などの説が入り乱れ混乱気味。
墓地を管理する静岡市衛生課の名簿から、大杉栄の妹柴田菊さんが東京に住んでいることがわかり、菊さんが墓の由来を語ってくれた。
「兄が憲兵甘粕に虐殺された当時(大正12年)、私は結婚して静岡市鷹匠二丁目に住んでいました。墓をつくるについては兄が50円前後出し合ったほか東京の労働運動社から250円を送ってきました。
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大杉栄の墓 |
兄の死は九月ですが、遺骨が右翼に奪われたりしたため、静岡市に遺骨がついたのは5月25日。夜こっそりと私の家で葬儀を営み、墓石もこっそり立てました。左官屋さんや石屋さんなど少数が参列してくれました。」・・・・
大杉の今日性について「千代田誌」は・・・・ 政治的に死んだはずのアナーキズムだが、自我の解放を主張、後のスターリン批判を予言したともいえる大杉の思想は、いま学生、青年労働者ら若者にかなりの人気があるという。・・・
しかし「イデオロギーの終焉」を迎えた今日、何人が大杉栄のことを思い出してくれるのだろうか。
それでも、もえたぎる生命を、惜しくも終わらせてしまった先人の足跡を忘れてはいけないのだ。
あらためて、荒畑寒村氏の撰による「碑文」を紹介し、ご冥福を祈る。
碑に日く 大杉栄は明治18年軍人の家に生まる。
陸軍幼年学校を放たれ、外国語学校仏語課に学び、日露開戦に際し非戦論に共鳴して社会主義者となる。
資性剛毅歳華煥発。
無政府主義の一派を拓いて政府の弾圧に屈せず、幾度か牢獄の苦を忍び迫害の鉄火を践めり、大正11年日本脱出、仏蘭西革命故国送還の波瀾を経、関東大震災に遭遇して妻の伊藤野枝・甥橘宗一と共に軍憲の為に虐殺せられた。
惜しむべし雄志逸材むなしく中道に潰ゆ。
荒畑寒村撰
<碑文>
大杉栄は1923(大正12年)9月16日虐殺された。
1885年1月17日生、享年38歳
妻野技 1895年1月12日生、享年28歳
甥橘宗一 1917年4月12日生、享年6歳
この遺骨を翌年5月25日この地に収む。
1976年9月16日 大杉栄らの墓誌建立委員会
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<大杉栄の略歴>
大杉栄(1885−1923) 社会運動家,無政府主義者。愛知県人大杉東の長男。
名古屋幼年学校にはいったが,上官に反抗して放校,外国語学校仏語科に入学した。
在学中幸徳秋水,堺利彦らの平民社に加わり,卒業後,電車賃値上反対運動,筆禍事件,屋上演説事件,赤旗事件など社会運動に奔走して数回入獄した。
1912年(大正1)荒畑寒村とともに<近代思想>,ついで<平民新聞>を発刊し,大逆事件いらい沈滞していた社会主義運動を復活させた。
1914年<労動運動>を発刊,サンディカリズムの立場から経済的直接行動主義を主唱し,また国際無政府主義運動において活躍した。
このころ,労働運動におけるマルキシズムとアナーキズムとの対立が現われてきたが(アナ・ボル論争),彼の活勒によってアナーキズムの影響力はきわめて大きかった。
1923年9月関東大震災の混乱に際して,妻伊藤野枝,および甥(おい)とともに甘粕憲兵大尉に殺害された。
著書,訳書は<正義を求める心><自由の先駆><獄中記><自叙伝>,クロポトキンの<一革命家の思出><相互扶助論>,ダーウィンの<種の起源>などがあり,10巻本の全集や別種の全集が刊行されている。
(藤井松一・世界大百科事典・平凡社)
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最後の墓前祭
2003年9月16日、大杉栄の最後の墓前祭が静岡市沓谷の市営沓谷霊園に遺族ら関係者200人余を集めてしめやかに営まれた。
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最後の墓前祭 |
大杉が亡くなってから80年の歳月が過ぎ、遺族らも高齢化し80回忌をもって最後の墓前祭となった。
遺族も四女の伊藤ルイズさんは平成9年に、次女の菅沼幸子さんは今年7月に亡くなり、今日の墓前祭には三女の野沢笑子さん(82)が山口県下関市から出席し墓前に赤いバラの花を捧げた。
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野沢笑子さん |
王丸容典さん |
遺族の中には、四女の伊藤ルイズさんの遺児で福岡市に住む王丸容典さん(59)も顔をみせ参列者からは、写真に残る大杉栄の面影がある方だという声もあがっていた。
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王丸容典さん |
1922年(大正11年)9月16日、関東大震災の混乱の中で、甘粕憲兵大尉らによって大杉栄、妻の伊藤野枝、甥の橘宗一の三人は虐殺された。
幾多の歳月が流れた1972年(昭和47年)、名古屋の覚王山日泰寺の墓地に橘宗一少年の墓地が発見された。
その後、1975年9月16日、名古屋で初めての墓前祭が開かれ改めて三人の冥福が祈られた。
それ以来、9月15日は名古屋で橘宗一の墓前祭が、翌16日は静岡で大杉栄・伊藤野枝の墓前祭が開かれるようになった。
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1995年の墓前祭・中央左から伊藤ルイ、菅沼幸子、野沢笑子の3遺児 |
1998年(平成10年)は、静岡で四女ルイズさんの記録映画「ルイズその旅立ち」も上映され、墓前祭には百余人の参列者が参集したという
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