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悲運の豪農・足洗半左衛門
〜由比正雪事件〜
江戸時代初期、幕府は容赦無く大名を取り潰した。そのたびに家禄を失った武士は、浪人となった。
関ヶ原の役(1600)から慶安3年(1650)までに約40万人(栗田元次博士)、別の説によると23万5千人(田原良一氏)の浪人が出たという。家族や奉公人を含めると膨大な人数で社会不安の原因となっていた。

慶安4年7月25日夜、駿府(いまの静岡市)・梅屋町の町年寄・梅屋太郎右衛門方を町奉行所の手の者が取り囲んだ。
江戸から着いたばかりの由比正雪の一行は逃げられぬと観念、8人が自害、2人が捕らえられた。
前後して、江戸では丸橋忠弥らが捕縛され、大阪では金井半兵衛が自殺した。
政情不安に乗じ、世直しをしようという「駿府・江戸・大阪の同時多発クーデター、いわゆる慶安の乱」はあっけない幕切れとなった。

流布された説によると、「同志五千人で江戸、駿府、大阪で同時クーデターを惹起し、幼将軍家綱を奪って大改革を起こす」というものだが、現実は数百人規模といわれている。

幕府は、密告により一味を検挙し、江戸では56名を磔・斬罪・獄門に、駿府でも処刑が行われた。正雪の父母ら一族や連累者も処刑された。事件は社会の上下に衝動を与え、幕府を震撼させた。
由比正雪の首塚(菩提樹院)

由比正雪の首塚といわれている石塔が、静岡市沓谷5丁目の菩提樹院にある。

慶安の乱は、当時の話題となり、講談などにとり上げられ流布した。その中で「慶安大平記」が有名である。


それによると処刑された中に、「下足洗村の百姓半左衛門」がいる。

半左衛門は、豪家で、田地三千八百石余、金三十万両を貯え、家中も百八十人ありて大百姓という。豪農・半左衛門は正雪を「神仏のごとく尊敬し」とあり、一種のスポンサーであった。
「屋敷は幅二町、奥行二町余…」とあるが、記事は「針小棒大だ」といわれている。だがかなりの豪農であったことは事実だろう。

幕府の老中指令は厳しく、「半左衛門、婿の伊右衛門とそれぞれの女房は磔、男子は斬罪、女房の腹にいて男子が生まれれば斬罪、娘なら卑しい身分に落とせ」という過酷なものという。

下河原延命地蔵尊

半左衛門の屋敷跡は、廃墟となり後に寺が建てられた。
現存する小字(こあざ)に「屋敷田、木戸口」があり、「酒屋敷跡」といわれているところもある。
また地域内の下河原延命地蔵尊には半左衛門の供養塔もあるという。


いずれにしても、半左衛門一族の最後は悲惨であつた。



当時の幕府は、「武家諸法度」、「諸士法度」の法により浪人を厳しく取り締まった。慶安4年の落首に、「すたりもの 物芸の沙汰に素浪人 橋の出店に河岸の小屋掛け」というのがある。

しかし慶安の乱を契機に幕府の政治に変化が見られた。

事件後、大老、老中の審議で多くは「浪人の江戸払い」を主張したが、阿部忠秋は「江戸払いで、浪人は出身の路を失い、やむをえず山賊、強盗、辻切り、乞食になり世を乱す。いずれも幕府の苦労は同じだ。」として江戸払いを中止した。

幕府は、大名・旗本の「末期養子の禁」をゆるめた。世継ぎがなく、お家断絶の憂き目に遭うものが多く弊害が指摘されていた。

やがて幕府の政治の全局面が「武断政治から文治政治」に進展した。


このように慶安の乱は江戸幕政の一大転向期と評価される重大事件という。(栗田元次博士)

「下足洗村の百姓半左衛門」は、由比正雪の「世直し」の主義主張に私淑し、当時の情勢にある程度の理解を持っていた進歩的人物だったと想像される。

事敗れ一族とともに悲運の運命をたどることになったが、「郷土の生んだ偉大な人物」として称え、その名を後世まで伝えたいものである。

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引用文献
*「日本の歴史 16 元禄時代」(児玉幸多著・中公文庫)
*「千代田誌」(昭和59年10月発行)
*「北街道〜道筋の町の歴史と古蹟をたずねて〜」(山内政三著)
        

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