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この街のかたちを考える
こ の 街 の か た ち を考える
〜歴史とロマンの街づくりの提案〜

司馬遼太郎は、文芸春秋の巻頭随筆の連載「この国のかたち」で121回にわたり日本とはどんな国ですかという問いの答えを書き続けた。私は司馬氏には、とても及びもつかないが、静岡市の有り様を「この街のかたち」というテーマを基調に様々な角度で追い求めていきたい。
そして今回は「時代の転換点、ターニング ポイント」を中心にこの街のかたちをさぐる。

古代の静岡市のかたち
登呂遺跡は、太平洋戦争のさなかに軍需工場用地開発の時に発見されて、戦後本格的な発掘調査が行われた。
登呂遺跡の再発掘調査(平成11年度)
発掘された弥生時代後期の集落と木製住居、それに付属する水田耕作の跡は、日本人の起源、古代の生活習慣などを私たちに思い起こさせた。


これは戦後の混乱期にあつて自信を失っていた人々に、新生日本の歩みを位置づける「こころの発見」となった。


そして、静岡市の登呂遺跡詣では、歴史愛好家、一般の人々の流行となり、また修学旅行のメッカとなった。


今川氏の滅亡
南北朝時代から戦国の世にかけ230年間、静岡県下特に静岡市(駿河府中・駿府)は今川氏の治世下にあった。
この間今川氏は10代の長きにわたり守護職から戦国大名に成長し豊かな国づくりを展開した。戦国時代初期の三大文化は、山口の大内家、福井の朝倉家、静岡の今川家が築き上げ、当時戦乱の京都を避け各家に寄留する公家が多かった。下向した貴人たちは更に各地の文化を育てた。静岡市は小京都と呼ばれ雅びの世がつづいた。
昭和初期の駿府城四足門付近・今川館跡という
(郷土出版社版 しずおかし いまむかし)より


義忠、氏親、義元と東海の覇者へとのし上がったが、桶狭間の戦いで義元戦死と敗退、10代目氏真の駿府放棄から今川氏の滅亡となった。





そして徳川の治世下で今川の痕跡は消滅されられたが、もし今川氏の政治がもっと長く続いていたら雅びの文化はこの静岡市に根づいたかもしれないと思われる。
このように今川氏の滅亡は、静岡市のターニングポイントであった。

駿河大納言忠長の自刃
天下を握つた徳川家康は、将軍職を秀忠に譲ったものの駿府で大御所政治の二元政治を始めた。当時の駿府の人口は12万人といわれ、江戸、京大阪に次ぐ大都市でオランダ、イギリス、スペインなどの外国使節が往来する国際外交都市でもあった。

家康の死後、ニ代をへて将軍秀忠の三男徳川忠長が55万石で駿府に入封した。そして従二位権大納言を与えられ駿河大納言と呼ばれた。
駿府城と堀の合成写真

しかし、幼少より聡明で両親から溺愛された忠長は、将軍になって当たり前という言動と酒乱の乱行などが続くなか、最大の後盾である母親を失った。

兄の家光は幼少より対立していた忠長を乱行の理由で改易した。

甲府、後に高崎と蟄居となった忠長は、もはやこれまでと自刃した。享年27歳であった。

その後、駿府の城には城代が置かれ、町は幕府役人による支配の時代になった。
徳川の御三家、和歌山の紀伊徳川家、名古屋の尾張徳川家、水戸の水戸徳川家と同じように駿河徳川家が存続していたならば「この街のかたち」は違った有り様であったと思われる。駿河大納言忠長の自刃は、この街のターニングポイントであった。

私は「この街のかたち・街づくり」の基調は「歴史の再発見とロマンの創造」にあると思考する。この思考は稿を改めて続けていきたい。




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