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天守閣を考える

平成14年4月、読売新聞静岡版、静岡新聞は相次いで駿府城天守閣の再建をめざしていた市民団体「駿府城再建委員会(世話人代表妹尾俊雄)」の解散を伝えた。
同委員会は、市民から寄付金を集め、駿府城天守閣の再建活動をしていたが、運動に行き詰まり解散した。

このページは、同委員会から資料の提供を受け独自の判断で、キャンペーンを掲載してきた。筆者としては同運動とかかわりなく、駿府城天守閣の再建を広く訴えたく、キャンペーン「天守甦れ」を一つの保存資料として掲載し続けていきます。

         平成14年4月石久保 義幸


<キャンペーン「天守甦れ>

徳川家康は、天正十四年浜松から駿府(静岡市)に移り築城をはじめた。
その後、家康は関東に国替えになった。
駿府城築城が本格化化したのは、家康が駿府に隠居する決意をした時からである。

幾たびかの変遷をへて慶長十五年、5層7階といわれる天守閣は完成した。それは、金・銀・銅などを多用した後期望楼型の華麗な意匠だったといわれている。
しかし火災、地震等の災害で、今は内外掘を残すだけである。

そこで、「駿府城再建を市民のパワーで」という活動の軌跡を保存資料として広く紹介したい。



歴史文化の街静岡のシンボル駿府城再建をあなたの力で

資料提供:元駿府城再建委員会 世話人代表 妹尾俊雄

その経済波及効果は無限大
駿府城は、今から約400年前、徳川家康公によって築城されました。
その後、江戸幕府を開き、嫡男の秀忠に将軍職を譲ると、大御所となって駿府城に居城することになりました。その築城は、諸大名に工事を分担させ、貢献度を競わせたことから「天下普請」と言われています。
こうして出来上がった城は、規模・内容とも天下の名城として知られ、大御所徳川家康公に謁見するために全国から訪れた誰もが目を見張りました。

静岡市民の願いでもあったこの城の再建が、ここにきて大きな盛り上がりをせているのに際し、再建による経済効果を考えてみました。

経済効果は、通常、建設に係る直接費と間接費から構成されますが、現在の段階でば建設費が試算できないため、間接費に限定して測定してみることにしました。

次の表は、代表的な城を持つ都市の観光客の入込客数と城の入場者数です。

都市名 観光客の総人数 城への入場者数
松本市 4,420,000人 850,878人
姫路市 7,246,000人 861,000人
松山市 4,989,000人 519,764人
熊本市 4,468,000人 983,626人

( 各都市平成8年度調査)

駿府城への入場者数を、上記4城の平均80万人程度は見込めると予測します。
第一に入場料収入です。
一人500円の入場料を設定すると、約4億円が見込まれます。

第二に土産品消費です。
本県を訪れる観光客の平均土産購入費(6,030円(静岡県資料)から試算すると約58億円となります。
本市だけで土産代すべてを使うとは考えられませんが、平成4年度の静岡市観光統計報告書によると、本市を訪れる観光客のうち、55.4%が他市の観光地は周遊しないという結果が出ていますので、これを当てはめると、少なくとも32億円は市内で消費されると推計されます。

第三に宿泊消費です。
市内に宿泊する比率15%(平成4年静岡市観光統計報告より)と、宿泊別比率、1泊の平均宿泊費11.905円(静岡県資料)から試算すると約23億円となります。

これらを合計すると60億円となり、これに飲食や観光周遊に従う交通費、関連産業への波及効果も加わりますのでその額は多大なものになります。
しかもイベントのような一時的効果でなく、永続的に続くものです。

駿府城の再建は可能です。
この運動をしていると、「正確な絵図面がないようですが再建は可能ですか」ということをよく聞かれます。
そのたぴに私は、「駿府城の再建は十分可能です」とお答えしています。

正確な絵図面(設計図)がないと再建できないという認識には誤りがあります。

文化財の再建は、たとえ正確な絵図面が現存し、再建されても単なる「建造物」となります。

かの金閣寺も、再三の焼失のたびに再建され、もはや国宝でも文化財でもありません。

しかし、多くの人が金閣寺を訪れるたびに感動するのは、その歴史的意義が、伝統技術や素材を総結集した本格建造物として再現されたからにほかなりません。

今、私たちがしなければならないことは、かつて家康が当時の先端技術を結集して築城した歴史的名城を、幻のまま埋もれさせることなく、この現代に再現することなのです。
文化庁も、再建の主体は静岡市にあり、決定すれば協力をする旨のご理解をいただいております。
富士山が世界遺産として認定されることは大変に喜ばしいことですが、私たち静岡市民にとって、「駿府城」こそ次世代におくる最高の文化遺産になると確信します。

(駿府城天守丸絵図面/copyright/内藤昌/(株)文化環境研究所)

資料提供:元駿府城再建委員会 世話人代表 妹尾俊雄


その経済波及効果は無限大
駿府城は、今から約400年前、徳川家康公によって築城されました。
その後、江戸幕府を開き、嫡男の秀忠に将軍職を譲ると、大御所となって駿府城に居城することになりました。その築城は、諸大名に工事を分担させ、貢献度を競わせたことから「天下普請」と言われています。
こうして出来上がった城は、規模・内容とも天下の名城として知られ、大御所徳川家康公に謁見するために全国から訪れた誰もが目を見張りました。

静岡市民の願いでもあったこの城の再建が、ここにきて大きな盛り上がりをせているのに際し、再建による経済効果を考えてみました。

経済効果は、通常、建設に係る直接費と間接費から構成されますが、現在の段階でば建設費が試算できないため、間接費に限定して測定してみることにしました。

次の表は、代表的な城を持つ都市の観光客の入込客数と城の入場者数です。

都市名 観光客の総人数 城への入場者数
松本市 4,420,000人 850,878人
姫路市 7,246,000人 861,000人
松山市 4,989,000人 519,764人
熊本市 4,468,000人 983,626人

( 各都市平成8年度調査)

駿府城への入場者数を、上記4城の平均80万人程度は見込めると予測します。
第一に入場料収入です。
一人500円の入場料を設定すると、約4億円が見込まれます。

第二に土産品消費です。
本県を訪れる観光客の平均土産購入費(6,030円(静岡県資料)から試算すると約58億円となります。
本市だけで土産代すべてを使うとは考えられませんが、平成4年度の静岡市観光統計報告書によると、本市を訪れる観光客のうち、55.4%が他市の観光地は周遊しないという結果が出ていますので、これを当てはめると、少なくとも32億円は市内で消費されると推計されます。

第三に宿泊消費です。
市内に宿泊する比率15%(平成4年静岡市観光統計報告より)と、宿泊別比率、1泊の平均宿泊費11.905円(静岡県資料)から試算すると約23億円となります。

これらを合計すると60億円となり、これに飲食や観光周遊に従う交通費、関連産業への波及効果も加わりますのでその額は多大なものになります。
しかもイベントのような一時的効果でなく、永続的に続くものです。

駿府城の再建は可能です。
この運動をしていると、「正確な絵図面がないようですが再建は可能ですか」ということをよく聞かれます。
そのたぴに私は、「駿府城の再建は十分可能です」とお答えしています。

正確な絵図面(設計図)がないと再建できないという認識には誤りがあります。

文化財の再建は、たとえ正確な絵図面が現存し、再建されても単なる「建造物」となります。

かの金閣寺も、再三の焼失のたびに再建され、もはや国宝でも文化財でもありません。

しかし、多くの人が金閣寺を訪れるたびに感動するのは、その歴史的意義が、伝統技術や素材を総結集した本格建造物として再現されたからにほかなりません。

今、私たちがしなければならないことは、かつて家康が当時の先端技術を結集して築城した歴史的名城を、幻のまま埋もれさせることなく、この現代に再現することなのです。
文化庁も、再建の主体は静岡市にあり、決定すれば協力をする旨のご理解をいただいております。
富士山が世界遺産として認定されることは大変に喜ばしいことですが、私たち静岡市民にとって、「駿府城」こそ次世代におくる最高の文化遺産になると確信します。


駿府城の築城史
築城前期

「駿府」の呼称は「駿河府中」の略称である。
足利幕府は、建武五年(1338)今川範国に駿河国守護職を命じたが、範国が駿府に入れたのは至徳元年(1384)頃と思われる。
それ以来今川氏は駿府を領国経営の中心とし「館」が設けられた。
「駿府」は、西の大内氏の城下町「山口」とともに小京都といわれ繁栄した。
駿府は、今川氏滅亡で武田支配下になったが武田氏の敗北で、徳川家康の時代になった。

第一期の築城

天正一八年(1585)家康は駿府に入り近世的な築城を始めた。その後、家康は江戸に徳川幕府を開き、天下統一の基盤を固めた。
慶長十一年(1606)3月、駿府を隠居の地と定め、翌年から駿府城修築の命を出した。
慶長十二年七月、早くも本丸部分が落成し、家康が移り住んだ。

しかし、十二月奥女中衆の手燭台の火で、ことごとく焼失した。


第二期の築城

直ちに城再建の命令が下る。「台徳院殿御実紀」は「・・・・・京より工匠雲霞のごとく駿府に下る。・・・」と記している。天下普請の再開である。
八月、ついに天守の上棟式が行われた。天守は「七重」(内部七階)で、破風は銀で飾り、黄金の鴟吻をのせていた。しかし、慶長十四年(1609)六月放火事件が起るなど火災が多く起き工事がつづいた。

元和二年四月一七日(1616)、徳川家康は他界した。

寛永十二年十一月(1635)、町中の火が城中に移り、天守、殿閣などことごとく焼失した。

第三期の築城
それから三年後、ようやく再建の命が出た。しかし、再営の規模は縮小され天守は再建されなかった。
その後大きな修理も行われず荒れていた。
安政元年十一月(1854)、大地震により本丸御殿はすべて倒壊した。

明治以降の駿府城跡

明治元年五月(1868)、徳川家達は、七十万石を与えられ駿府に入る。
翌々年「駿府」は「静岡」と改称した。

明治二十四年、駿府城跡は静岡市に払い下げられたが、静岡市は軍隊誘致運動をした。
そして、明治二十九年(1896)、歩兵第34連隊ができたが、天守台を壊し兵舎がつくられたのである。

戦後は、昭和30年代に都市公園となり「駿府公園」として、静岡市民に親しまれている。

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引用文献:
駿府城〜平成の天守甦れ〜
発行者 駿府城 再建準備委員会 代表妹尾俊雄
静岡市安西3丁目20番地・電話054(253−6728)
編集者 株式会社文化環境計画研究所・内藤昌(元名古屋工業大学教授)

駿府城本丸復元透視図(第二期)/copyright/内藤 昌・株式会社文化環境計画研究所

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本丸東北隅に配置された天守は、石垣の内部中央に天守をたて、四隅を櫓と多聞で囲むという、異色の環立式です。
中井家史料・「東照大権現縁起」・大日本ホ報徳社蔵「駿河府中御城図」等により5層7階に計画された後期望楼型の天守であることが実証されています。


関連リンク: 歴史とロマンを探る夢出あい旅 サイバー五十三次しずおか創造ネット
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