青い目の人形

徳島県神山町立神領小学校
「アリス・ジョンストン」

高知県佐喜浜町立佐喜浜小学校
「エミリー・カトゥリーヌ」

   青い目をした お人形は
   アメリカ生まれの セルロイド

   日本の港へ ついたとき
   いっぱい涙を うかべてた

   「わたしは言葉が わからない
   迷い子になったら なんとしょう」

   やさしい日本の 嬢ちゃんよ
   仲よく遊んで やっとくれ

曲の由来
作詞 野口 雨情(1882〜1945)
作曲 本居 長世(1885〜1945)

 野口雨情は、童謡・民謡の作詞を多数手がけ、「七つの子」、「波浮の港」、「青い目の人形」などは、現在に至るまで広く愛唱されている。

 本居長世は、本居宣長の子孫で、「七つの子」、「青い目の人形」などの野口雨情の詩に曲をつけたり、「汽車ポッポ」などの親しみやすい多くの作品をつくっている。

 さて、「赤い靴」と対照的に作られたこの「青い目の人形」は、日本から外国への移民が盛んだった頃の、大正10年に発表されている。外国との交通と言えばもちろん「船」であり、歌詞にも「港」が出てきて、雰囲気を盛り立てている。

外国に連れ去られていく「赤い靴をはいた少女」と外国から来る「青い目をしたセルロイド人形」の身の回りを比較してみると、今では味わえないような当時の時代や「未知のもの」に出会う不安やとまどいなどが感じられる。

 「青い目の人形」の由来や経過をひもといてみると、当時の世界的な経済状況や日本と外国との関係、そして戦争に至るまでの歴史、人々の気持ちを知ることができる。