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九代義元(よしもと)

氏親には6人の息子がいたが、長男氏輝、二男彦五郎は、同じ日謎の死を遂げた。そこで後継は、正室寿桂尼の生んだ五男の芳菊丸(承芳・後の義元)に決まった。

大原雪斎 雪斎の真筆
臨済寺所蔵

芳菊丸は幼少4才の時、父氏親に命じられ仏門に入り、養育係の大原雪斎とともに善得寺(富士市)、建仁寺(京都)、妙心寺(京都)で修行し五山文化に親しんでいたが、急遽還俗し駿府に戻った。

これに対し庶兄で三男恵探(良真)と外祖父福島左衛門は反発し、花倉(藤枝市)で兵を挙げた。

雪斎は家中で多数派工作を行い、雪斎の策を入れた義元軍は花倉城を急襲した。不意を突かれた恵探は山を越え瀬戸谷に逃れたが、その普門院で自刃した。享年20才であった。

花倉城本丸跡

晴れて当主となった義元は、雪斎を軍師にし、母寿桂尼の助言を受けながら、領国経営、隣国外交を進めた。




今川家では、氏親、氏輝時代は東の小田原にいた後北条と友好関係にあったが義元、雪斎は、北の甲府武田氏との同盟を強化し、武田晴信(信玄)の姉を義元の正室に迎い入れた。

これに反発した北条方は、駿河に兵を進め「河東一乱」がつづき、遠江では、今川氏の末流堀越氏の反乱などが起こったが多くの戦いでは雪斎が陣頭指揮を執り領国の安定を図った。

義元の位牌と厨子 厨子の中の義元像
臨済寺所蔵

このような分立の中、軍師雪斎は駿河の今川義元、甲州の武田信玄、相模の北条氏康との和議を進め三国同盟を結ばせた。この時、三将は、善得寺で会談し和議を祝って祝宴をしたという「善得寺の三国会盟」があったと伝えられているが真偽のほどは判っていない。

花押 義元の真筆文書
臨済寺所蔵

この三国同盟により今川義元は、後顧の憂いなく、三河、尾張と西に兵を進めることが出来た。
この軍師雪斎は、弘治元年(1555)死去した。享年60歳、晩年隠居した長慶寺(藤枝市葉梨)に葬られた。

今川義元の画像(大聖寺所蔵)
永禄3年(1560)5月、義元は2万5千の軍兵を擁し西上した。これを上洛という説もあるが三河、尾張の攻略とする意見が強い。

これに対し、尾張の織田信長は、豪雨の中、精鋭三千を引きつれ今川軍の西上を阻止しようと桶狭間で休息中の義元本隊に討ち入った。混戦乱戦の中、義元は首を討たれ、総大将を失った今川軍は総崩れとなった。

東海道一の弓取りとうたわれた義元のあっけない最後であった、享年42歳。

ここで、義元の最後を彩る挿話を紹介する。

義元の遺骸は、首の無いまま家臣たちによって国元に運ばれる途中、東三河で追撃にあい一色城内の大聖寺境内(豊川市牛久保町)になきがらを葬った。一方、主君の首はその後、信長から返され駿府天沢寺(静岡市、廃寺)に葬られたが後に臨済寺に移された。

大聖寺(豊川市牛久保町) 今川義元の胴塚

さて大聖寺の墓であるが、永禄6年(1563)に嫡子の氏真(うじざね)が、ここで父の三周忌を営み、氏真が寺に与えた証文と位牌が大聖寺に伝わり残っている。
墓は、義元の胴塚と呼ばれ現存しているが、いまなお地元の人たちは「今川義元公奉賛会」をつくり、年一度の5月に法要を執り行い義元公の遺徳を今に伝えている。

大聖寺住職神谷公恵氏
  今川義元公奉賛会会長堤継良氏
(後のめがねの人)


今川氏の本拠地である静岡市では、一族の法要はおろか今川氏の話題すら市民の間から薄れようとしている。
豊川市民に恥じぬように、今日の静岡市の礎を築いた今川十代の業績を再評価、再発見すべきと筆者は心から願う。




<後日談>
阿部浩三老師


その後、静岡市の臨済寺では住職の交代が行われ、阿部浩三老師が住職についた。
平成20年5月19日、今川義元の追悼忌が行われ大勢の檀徒、市民が参加ししてしめやかに行われた。
その後、今川義元忌は、毎年5月19日の命日に特別公開し開催されるようになった。

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