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十代氏真(うじざね)

戦国大名今川義元は甲斐・相模との三国同盟で後顧(こうこ)の憂いを無くして、西上作戦に入った。そして軍勢2万5千を率いて三河、尾張を侵した。

運命の日の永禄3年(1560)5月15日、義元本隊は桶狭間で豪雨を衝(つ)いて襲いかかる織田信長の軍兵に不意をつかれ、大将義元は討ち死にし全軍総崩れになった。

後を継いだ今川氏真(うじざね)は、年若く三河、遠江の国人の相次ぐ離反で力を失い東の武田軍、西の徳川勢の侵食を受けた。

永禄11年(1568)12月13日未明、今川氏真は迫りくる武田信玄の軍勢を前に従者2000人余りを引き連れ、駿府の今川館を脱出した。多くは女子供、老人といった非戦闘員で、北条氏から嫁にきた氏真夫人も乗り物も得られず素足同然のありさまだったという。

賎機山の落日




氏真の脱出した数時間後、武田信玄の軍勢は、駿府に攻め入った。
その時の模様を常山紀談(江戸期の逸話集)は記す。

信玄は駿府に攻め入る時、早く今川館に行き名物の宝物を

奪えと下知(げち)した。

しかし、家臣の馬場美濃守信房は只1騎で今川館に入り

火をかけ焼き払った。

この行為は「駿府攻めは、宝物を奪う貪欲な戦と嘲られ、

主君信玄の評価は落ちるであろう」と考え、

あえて居館と宝物を焼いたのである。


今川氏真ら一行は西に向かい、安倍川を渡り古刹建穂寺(たきょうじ)に立ち寄った後、山道を抜け、12月15日家臣朝比奈泰朝(あさひなやすとも)の待つ掛川城に入った。

夕映えの掛川城

今川勢の脱出は、急なことで財宝を持ち出す余裕はなかった。そして居館の焼討ちで多くの今川の財宝が灰燼(かいじん)に帰したのをはじめ、浅間神社、臨済寺など駿府の町も焼失したのである。

氏真の真筆
臨済寺所蔵





天正10年(1582)織田信長は甲斐の武田勝頼を滅亡させた帰路、駿府に立ち寄った。

徳川家康は、町の入り口に茶屋を設け信長を歓待した。



信長は

今川の流れの末も絶果てて

 

千本の桜ちりすぎにけり

と詠んだ。

一方、掛川城の今川氏真は、徳川家康軍に包囲されたが5ヵ月に及ぶ篭城の末、和睦し開城した。


その後、氏真は小田原の北条氏、浜松の家康の庇護(ひご)を受けながら家名再興を図ったが断念し、最後は江戸に下り生涯を終えた。

観泉寺 右が氏真の墓

今川家はその後、徳川幕府に仕え高家(こうけ)として明治維新を迎えた。東京都杉並区今川町の観泉寺には今川氏真以下歴代の墓がある。墓所は、いまなお保存され、在りし日の栄光を今に伝えている。


明治20年には、直系の後継者がなく鎌倉時代からつづいた名家今川家の歴史は幕を閉じた。そして「今川」の地名は、愛知県幡豆郡西尾市今川町と東京都杉並区今川町の二箇所に残っている。

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