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今川十代の興亡
今川時代再発見
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三代泰範(やすのり)
二代範氏(うじのり)の死去に伴い、嫡男氏家(うじいえ)が継承するはずであった。
だが病弱で早世したため祖父範国(のりくに)が家督を守り、急ぎ鎌倉建長寺で僧侶修行中の二男泰範(やすのり)を還俗させ今川三代とした。
山裾の遍照寺
葉梨郷の最も奥に位置するのが遍照光寺(遍照寺・藤枝市葉梨)であるが、寺の前面に広がる辺りを今川居館跡という説がある。
また遍照光寺には古びた五輪塔がある。
寺伝によれば氏家の墓所と伝えられているという。
寺伝によれば氏家の墓所
泰範の時代になると、室町幕府も安定してきたが、幕府の権威を更に高める必要に迫られていた。
嘉慶2年(1388)室町幕府三代将軍足利義満は、富士遊覧にかこつけて駿河に下向した。
これは単なる物見遊山でなく鎌倉公方足利氏満の動きを牽制する政治的目的であった。
この下向に際し今川泰範は、義満を迎える歌会などを開き長旅をねぎらい、清見潟、田子の浦、三保などで富士山を眺望させ歓待した。
明徳2年(1391)に起きた山名氏清の反乱「明徳の乱」では、泰範は若年ながら軍功をあげ、また応永6年(1399)の「応永の乱」では大内義弘勢との対決で「敵の首三つを鞍につけ、返り血に染まって戦功をたてた」と報告された。
長慶寺
このように今川氏は、東海一の実力者になり、西の大内氏をしのぐようになった。
泰範の墓
泰範は76才で死去し、墓所は葉梨郷の長慶寺(藤枝市葉梨)にある。
傍らには今川義元の軍師といわれた大原雪斎の供養塔もある。
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