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六代義忠(よしただ)

範政の嫡子として生まれた義忠は、早くから父の名代として京都、鎌倉に出陣し戦功をあげた。そして駿府の西の守りとして花沢、石脇、花倉、岸の諸城、それに丸子、持舟の城を連ねて防御とした。

持舟城跡のある城山(静岡市) 花沢城跡(焼津市)

くすぶり続けていた京都の内紛は、応仁元年(1467)ついに戦乱となり、幕府内の実力者細川勝元と山名宗全は全国の地方豪族を巻き込んで東軍、西軍に分かれて戦い、戦火は11年の長きにわたり燃えさかった。
その時義忠は兵4千を率いて上洛し、東軍に身を投じた。

義忠の木像(正林寺所蔵)





その頃、隣国遠江は斯波氏の支配下で、斯波氏は越前、尾張、遠江三国の守護で、西軍に属していた。


義忠が上洛した時の大きな出来事は、伊勢長九郎(後北条の祖北条早雲)の妹と結婚したことである。

早雲の出自は諸説あるが室町幕府の役人であった伊勢新九郎であるという可能性が強いといわれている。

義忠の正室は駿府では北川殿と呼ばれているが、その由来は屋敷が静岡浅間神社脇を流れていた安倍川の支流北川沿いにあったためで、現在の臨済寺あたりといわれている。

上洛中、遠江の横地、勝間田両氏は尾張の斯波氏と通じ兵を起こしたので、義忠は直ちに東下し、見付城、横地城を攻め滅ぼし横地、勝間田両氏を討ち取った。

塩買坂(小笠町)
意気揚々と凱旋する義忠一行が、塩買坂(小笠町と浜岡町の境界)の差し掛かったところ横地、勝間田の残党の一揆に襲われ、義忠は流れ矢に当たって落命した。享年41才であった。


正林寺(榛原郡小笠町)

地元の正林寺には義忠の位牌と五輪塔が安置されている。

塩買坂は、駿河湾の相良町から信州、秋葉山へ向かう秋葉街道の難所の一つで塩や魚を運んだところから塩買坂と呼ばれるようになった。

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