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雅の今川氏(駿府の言継卿)

室町時代に多くの公家らは、戦乱の都を離れて地方の有力豪族のもとに下向(げこう)した。中流貴族の山科言継(やましなことつぐ)も駿府に寄寓したが、言継が残した日記の「言継卿記」は、今川最盛期を描いたものとして注目されている。

言継は弘治2年(1556)9月より翌3年3月までの半年間、駿府に滞在した。

9月24日
伝馬町の宿舎新光明寺に入った。そしてまず接待役と、一盞(いっせん)を傾けた。(酒を飲むこと)言継は、翌日、翌々日と一盞を傾けた。その中には「盃三献(さかずきさんこん)の儀」があった。三献とは三度とも肴のお膳を変え、その度毎に酒を三杯飲ませる接待である。当時は、お茶を飲むように酒を飲んでいたようで、酒は濁り酒で冷で飲み、食事は一日2回が普通であった。

11月19日
始めて太守(今川義元)の所に伺候(しこう)した。和歌会となり列座の人々の即詠が披露された後、七五三の膳となった。(七五三とは献五、膳七までを出す形式で、酒宴が延々とつづく)
言継は、酒豪ではあったものの156日間の滞在時に126日は酒を飲み、30日は飲まなかった。
薩った峠からの富士山

2月14日〜15日
太守の名所見物のお供を申し付けられた。
まず久能観音をお参りし羽衣の松を見物、三保大明神に参拝し同社に宿泊。社殿にて音曲あって酒宴となる。
翌日は朝食の後、乗船し海上2里余の船中で音曲を聞いた。清見寺に着いたが、そこよりの遠景が言語に絶してすばらしく、そこで大飲に及んだ。
江尻に至り、江上院で夕食したが、昨日より今日にかけての御馳走は太守の申し付けで盛大であつた。

2月18日
中御門宣綱と乗馬にて献穂寺(静岡市羽鳥)に向かう。本堂で稚児の舞、万才楽、延喜楽、陵王破などを観覧した。その間酒肴が出された。
建穂寺跡の神社

2月22日
雨で延引の浅間社の廿日会祭が行われる。(献穂寺の稚児が安倍川の増水で来れなかった)
桟敷で一同は酒宴、稚児の舞、僧七人によるニの舞が演じられたが中々のものだった。
静岡浅間神社の稚児舞

2月9日
御黒木(言継の養母)方に出向き、十しゅう香(10種の香を聞き、香の名を当てる遊び)をした。参加者は老母、寿桂尼(義元の生母)らで酒宴もあって丑の刻(午前2時)に帰庵した。
寿桂尼画像

2月12日
寄寓先の新光明寺で女房狂言の勧進があった。寺の庭で女房狂言が6番演じられ、5〜600人の見物があった。

この女房狂言は、翌日も行われ、今日の見物衆は1500〜1600人であると書いてあり、駿府の民衆も一時の平和を楽しんでいる様子がうかがわれる。


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