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今川氏と黄金文化

昭和57年(1982)11月、江戸時代に駿府城があった静岡市の駿府公園の一画で発掘調査が進められていた。
駿府公園の発掘現場


江戸時代の地層の下を更に掘ったところ、今川時代の地層にぶっかり池や庭園の遺構が確認された。



その中から梅の花の模様をかたどった黄金の板や中国製の青磁、白磁などの茶道具の破片多数が見つかった。
梅花模様の金板

静岡大学・小和田哲男教授は「わずかな遺品で、今川文化を黄金文化とするのは、強引といわれそうだが、その他、金山の存在などから裏付けられる」という。



古代、駿河国は日本三大産金地の一つであった。「梅ヶ島村御金山申伝江」という古文書によると仁徳天皇の御代に黄金を献上したとある。金山の中心は、安部金山であるが、今川家六代義忠は文明四年(1472)支配者の狩野氏を滅亡させ金山を掌握した。


当時の金の採取方法は、「川金」、「柴金」であった。
「親子で砂金採り・梅が島日影沢」
企画・NPO法人静岡自然史博物館ネットワーク
◆「川金」とは、川や沢の中にある砂金の原始的な採取方法。「ネコダ」という藁のむしろの上を、砂金を含んだ砂を流し、下に沈んだ比重の重い砂金を集める。
富士川支流の砂金(個人蔵)
「黄金の国ジパング」より

◆「柴金」は、かって川底だった川岸段丘の礫の下に、砂金含有層があるところから上の土砂を取り除き「ネコダ」にかけ砂金層を採取した。この柴金採取の穴や掘の遺跡は大井川流域の各所に残っている。大規模なものでは、地下坑道を掘ったものもある。ここで活躍した組織が「金山衆」と呼ばれる技術者集団であった。

「金山衆」の名は、永正14年(1516)、今川氏親が、曳馬(浜松)城攻略のとき金山衆を呼び城下の横穴を掘り城中の井戸を掘りぬき落城させたと「今川記」にある。

静岡市梅が島地区

◆「山金」への技術革新が始まり、産金は飛躍的に伸びた。「山金」は、「灰吹き法」と呼ばれ、金鉱石を粉末にし鉛をまぜ、動物の骨でつくつた皿の上で焼く。鉛だけ皿に溶け込み後に金が残るというものである。
この製法は、天文5年(1536)、義元の頃にもたらされたと推定されている。
◆ 安倍山産金遺跡図
この安部金山は、徳川時代へとつづき「黄金の富」を生み続けたのである。
そして、いま梅ヶ島・日影沢の金鉱山跡として観光地化され残っている。











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