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今川の女性群像(北川殿)

今川氏十代二百数十年の歴史で、特筆される女性群像は「寿桂尼」「北川殿」「築山殿」の三人である。


寿桂尼は、駿河の尼御前と知られる激動の時代を生き抜いた女性であるが、北川殿は日本的忍従の生涯を送った女性である。
それでいて、内に強靭さを秘め、逆境の中、わが子を戦国大名に育て上げたのである。

この北川殿を、「今川義忠夫人北川殿について」(長倉智恵雄著)を引用してスポットをあたえたい。
臨済寺 今川義忠
<北川殿の生い立ち>

北川殿は、伊勢新九郎長氏(後の北条早雲)の妹である。父親は京都にいた伊勢備中守盛時(貞藤)といわれている。
一方、夫となる、駿河守護の今川義忠は、応仁の乱の際、一千余騎を引き連れ上洛し、細川勝元の東軍に入った。
この時、義忠は伊勢貞藤の息女(北川殿)と結ばれたのである。
北川殿の呼び名は、駿府館の北、安倍川の支流・北川の辺に、居館があったからである。
この居館跡は、孫の今川義元により第八代氏輝の菩提寺になり、臨済寺とよばれ今も残る名刹である。

<義忠の討ち死>

応仁の乱は、10年にも及ぶ天下の大乱であった。
義忠は、1年そこそこで京都を引き上げ、遠江の反対勢力や牧野原台地の有力国人の一掃に全力をそそぎ、ほぼ目的をたっしていた。
しかし、駿府への凱旋を急いでいた義忠軍に、国人一揆が襲いかかり、義忠は流れ矢であえない最期をとげた。
義忠、41歳の働き盛り、塩買坂(小笠郡小笠町高橋)の合戦であった。

<今川家の内訌>

義忠の嫡子竜王丸は、この時六歳(四歳ともいう)の年少だったことから今川一門の小鹿新五郎範満(義忠の従弟)を相続させようと一族重臣は、それぞれ二派に分かれて争った。
身の危険を感じた北川殿は、我が子竜王丸を伴って西に逃れた。これに乗じ、堀越公方足利政知、扇谷上杉政憲は、それぞれ三百騎を出して露骨に武力交渉した。
ここに調停役として登場したのが、北川殿の兄伊勢新九郎長氏である。決着した調停は竜王丸が成人まで小鹿範満を後見人として政権を担当させるというもの。しかし北川殿はなお慎重に駿府に帰らず、安倍川の西、丸子の里に篭居した。

<氏親、今川家の当主・戦国大名に>

北川殿母子の隠忍の日々も十年を過ぎたが、小鹿範満は政権をゆずろうとしなかった。

駅南の八幡山
この頃、駿府の南郊八幡山に城を構えていた伊勢新九郎長氏は、突然駿府館を襲い小鹿範満を倒した。

このクーデターにより竜王丸は元服し五郎氏親と名乗り今川家の当主になった。

伊勢新九郎長氏は、その後、堀越公方足利政知の没後の混乱に乗じ堀越足利家を滅ぼし伊豆全土を手に入れた。いわゆる下克上の時代である。

氏親と長氏(あらため早雲庵宗端)は、ともに連携し東に西に領土を拡大した。氏親は遠州の完全領国化、三河への進出をなしとげ、宗端(北条早雲)は小田原城を奪って関東にも、にらみをきかせ、ともに戦国大名になった。

<兄や我が子に先立たれ>

波乱万丈の時代をくぐりぬけた早雲庵宗端は、永正十六年(1519)八十八歳の生涯をとじた。
その七年後、今川氏親は中風に犯され五十六歳で没した。

氏親の死後、嫡子氏輝が当主になったが弱冠十四歳、政治の実権は氏親夫人の寿桂尼がにぎった。
時の今川政権から疎外された北川殿は、当時駿府に帰っていた連歌師柴屋軒宗長とともに、年老いた今の境遇を嘆きなぐさめあった。そのさまをえがいた「宗長手記」がある。

「・・・・・・・・九日夜に入、北川殿御見参、三献、色々御心のどかなる御ものがたり、ここもとの御詫事御袖をしぼり給えるように候て・・・・・・」

享祿二年(1529)五月、北川殿はこの世を去った。没年令は定かでないが八十歳も半ばを過ぎているといわれている。
北川殿は、静岡市向敷地の徳願寺に葬られたとあるが、当時の住職は「寺は山中を三度も移築しており、定かなことは分からない」と話してくれた。

徳願寺 街の背後は谷津山

山門からは眼下に静岡の街が見下ろせる。北川殿は、駿府の町を一望できる西の山に葬られたのだ。
・・・・・よく見ると、徳願寺〜駿府館〜龍雲寺(谷津山)は、東西の一直線上にあることに気づいた。・・・・・

これは、今川家六代正室北川殿と七代正室寿桂尼が、東西から駿府館を守っている「象徴」にちがいない。
今川家は、寺の配置を意図的に東西の一直線上にし永代まで栄えるように願ったのだと確信して山を下りた。

引用文献

「駿河の今川氏・第三集」(静大小和田研究室編)の
「今川義忠夫人北川殿について」長倉智恵雄著

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